ということをここ数日考えている。これは高瀬正仁さんの『近代数学史の成立 解析篇』(東京図書)にくり返し、そのことがでて来るからである。
高瀬さんは抽象化される前の具象的な数学の中にその本質があることが多いのではないかという意見らしい。それは高瀬さんの実体験によるものであろう。彼は多変数関数論の専攻であり、岡ーカルタンの多変数関数論を学んだが、抽象化されたカルタンの二つの定理の前の岡潔の論文にその本質がすでにあるのではないかという意見だと思う。
抽象化されると適用範囲は大きく広がるが、面白くはないというのが高瀬さんの意見である。だから、抽象化されるに値する具象的な数学にその本質があると考える。
本質という点では武谷の三段階論では現象論、実体論、本質論と科学は発展するというが、実体論はまだ本質論ではないと考える。だが、それから本質論へと発展を遂げていく重要な要素がそこに含まれていると考えるが、数学では具象的な数学でもそこに本質があると考えるのが高瀬さんの本質の認識である。数学と数学以外の科学とはその質が違うかもしれないが、ちょっと似ている面もありそうだ。
そんなことを考えている数日である。
高瀬さんは抽象化される前の具象的な数学の中にその本質があることが多いのではないかという意見らしい。それは高瀬さんの実体験によるものであろう。彼は多変数関数論の専攻であり、岡ーカルタンの多変数関数論を学んだが、抽象化されたカルタンの二つの定理の前の岡潔の論文にその本質がすでにあるのではないかという意見だと思う。
抽象化されると適用範囲は大きく広がるが、面白くはないというのが高瀬さんの意見である。だから、抽象化されるに値する具象的な数学にその本質があると考える。
本質という点では武谷の三段階論では現象論、実体論、本質論と科学は発展するというが、実体論はまだ本質論ではないと考える。だが、それから本質論へと発展を遂げていく重要な要素がそこに含まれていると考えるが、数学では具象的な数学でもそこに本質があると考えるのが高瀬さんの本質の認識である。数学と数学以外の科学とはその質が違うかもしれないが、ちょっと似ている面もありそうだ。
そんなことを考えている数日である。