mistaken objectivity(誤れる客観主義)という概念について、鶴見俊輔さんが書いている。
USAという国は、いまの日本にとって政治上の宗主国でしょう。USAの歴史をたどってみて、こういう別の可能性があったとか、いろんなことを考えるのが社会科学者の役割だと思っている。しかし、そういう問題の立て方は、ふつうの哲学から離れちゃってるんですよ。
これがアカデミズムの性癖なんです。では、まったく違う問題の出し方をした人がいなかったというと、少数ながらいた。たとえば、私が交換船で帰ってきてから羽仁五郎を一所懸命読んでいて、「あっ、ここに人がいる」と思った。戦時中にもかかわらず、権力を恐れずちゃんと書いている。こういう人に会いたいと思って、つてを頼って消息を聞いたら、そのときにはすでにすでに牢屋に入っていた。それで、戦後になって、羽仁五郎と対談する機会があったときに、羽仁さんに、「八月十五日に友達がぼくの入れられていた牢屋の扉をあけて、ぼくを出してくれるんだ、と思って、一日まっていたよ。(略) 君でさえ、かけつけてきて鍵をはずしてくれなかったのだからな」といわれた。「おっ」と思った。彼はそういう形で私の責任を追及してきたんです(引用終わり)。「いいのこしておくこと」(作品社)より
もう一つは武谷三男についてのエピソードだが、引用がながくなるので、割愛する。
この「mistaken objectivity(誤れる客観主義)」とは何なのか、もっと詳しく知りたい。