物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

「都市の論理」の拡張

2012-05-04 13:49:18 | 日記・エッセイ・コラム

ゴールデンウイークも後半部である。全国的にこのゴールデンウイークは天候が悪いが、憲法記念日の昨日の松山では晴天ではないが、雨天ではなく、私は県民文化会館(ひめぎんホール)での憲法集会に出かけた。講演は前広島市長の秋葉忠利氏であった。

彼は衆議院議員とか広島市長とかの政治家としてのイメージが一般の人には強いだろうが、もともと数学者である。彼はタフツ大学の准教授を経由して、広島修道大学の教授となり、それから衆議院議員となり、政治家となった。

だからかどうかは知らないが、なかなか話しにデータが多く出てきた。都市は国家から離れてつながることができるし、いろいろな国家のできないことを行うことができるという主張は彼だけの主張ではないと思う。だから、私には特に奇異な感じはしない、ごくもっともな主張であったが、それを聞いていた人たちにはでどうであったろうか。

秋葉さんの話で出た具体的な例が印象に残った。それは市民からの苦情についてである。

例えば、ゴミの回収ができていないとの苦情が市役所にあれば、それは担当者が現地に行ってみれば、ほんとうにゴミが回収されていないかどうかはすぐにわかる。そしてもし回収がされてないならば、市の担当者はすぐにゴミの責任を持って回収しなければならない。それが都市の市長の責任である。

ところが、国のレベルではある国が大量戦略兵器をもっているといって、戦争をはじめてそこの国に戦争をしかけて実は大量戦略兵器がなかったからといってその国の指導者は辞めたりしなかった。それがどこの国のことかは言わなくても誰でも知っている。

ドイツの南西部の都市、フライブルグ市の市長であった、ベーメさんなども彼の環境政策等は国家の政策とは別に都市が独自の政策をとることができるとの主張であった。愛媛大学での講演で彼が語気を強めて強調されたことであり、これには強い感銘を受けた。

また、これはもう旧聞に属するが、羽仁五郎の「都市の論理」(勁草書房)がそういう都市を中心にして市民に必要な政策を行うというか世直しをせよという主張であった。もっとも1968年にベストセラーとなった、この「都市の論理」を覚えておられる方もそれほど多くなかろう。

少なくとも私が普通に話したりなどする、人々にもこの「都市の論理」の思想が広まったりしている思ったりしたことは一度もなかった。政治の貧困を嘆いても最後には国家の政策の貧困を嘆く人が大部分であり、都市から政策を、生き方を変えていこうとする人はあまり知らない。

この羽仁五郎の「都市の論理」の主張に秋葉さんが共鳴しているのかどうかは分からないが、その都市を出発として政策を世の中を変えて行こうとすることはやはり重要な一つの方向ではなかろうか。もっとも大多数の聴衆には寝言に聞こえたかもしれない。


手前味噌

2012-05-04 13:10:47 | 物理学

物理学の研究者の間では、ゴールドシュタインの『古典力学』(吉岡書店)というと知らない人はいない。それくらいの名著である。

その日本語訳に私は第2版から関係をしている。初版を訳された瀬川富士(とみお)先生から声がかかって、第2版のときに当時まだ若かったEさんと私とが共訳者として参加をした。

瀬川富士先生は京都大学の小林 稔先生の研究室出身の統計物理学の研究者であったが、初版をその当時に講師として愛媛大学に勤務されていた野間 進さんと訳をされていた。

第2版での書籍の分量の増加で私たち2人を訳者としてスカウトされたのであった。この第2版は訳者はしがきにそういうことをはっきりとは書かれていないが、瀬川先生が訳文の最終責任をもたれた。

ということは、実は訳文の原稿が私のところへまわってきたときに私もずいぶんとこなれた訳にするように手を尽くしたし、Eさんも同様であったが、最終の訳文にはそれが必ずしも反映されてはいなかった。しかし、訳文に最終責任を持っていないし、まだ若かったからそういうことはどうでもよかった。

ところが、第3版の訳を出版社から依頼されたときには初版と第2版の訳の最終責任をとられた瀬川先生はもう亡くなられており、Eさんと私に責任がかかっていた。

もう一人の訳者にお願いしたFさんにもとても努力をしては頂いたが、彼は研究で忙しく、かつ、大学でもいろいろな委員会等に関係をしておられ、その尽力をしていただくことには、彼の意には反して、限界があった。

第3版でも3人で責任を等分にもつと訳者はしがきには書いてあり、精神的にはそのことはうそではないが、Eさんと私に必然的にその責任がかかってきた。

それは面倒なことではあったが、一方では偉い先輩の先生からの制約なしに自分たちでこなれた訳をできるということでもあった。それでEさんと私でずいぶんとこなれた訳をすることができたと思っている。私が見落としたところにもEさんの綿密で、かつ、こなれた訳がなされていると思う。

最近この書の第4章 「剛体の運動学」の箇所を必要があって読んでいるが、これがなかなかよくできている。もちろん、これは原著がよいのであって訳のせいではないのだろうが、それでも第2版にところどころ残っていた翻訳口調があまりない。するすると読めるような気がする。これは確かに手前味噌であるが、そうだと言ってよいと思っている。

この翻訳の書評など見たことがないから、初版の書評はあったのかもしれないが、その後にこのゴールドシュタインの「古典力学」の書評など書いた人はいないのだろう。だから訳がこなれているとか、訳がぎこちないとかは書かれていなかったと思う。逆にこなれた訳をしてもそれがこなれたいい訳だとほめてくれる人もいなかった。

話はまったくちがうが、いつだったか、ドイツ語の翻訳家を目指している、ドイツ語のクラスメイトである、Oさんが翻訳は逐語訳をよしとするというご意見だったので、「それは違う。やはり意訳がいい」といったのにはそういう経験があった。

もちろん、意訳するというときには実は大きな落とし穴がある。それは文化の違いのある世界の事柄を自分たちの文化の中での類似の事柄にしてしまい、このことが実は大きな誤解を生みかねないからである。

それはいくつかのフランス語とかドイツ語の詩の古い日本語訳に現れていたりする。そしてそれが日本語の訳詩としても優れたものであるが、原文からは離れたものになっていることもある。もっとも原語との意味の違いに気がつくほど元の言語に達者な人ならば、その意味のずれにとやかくは言わないだろう。