ゴールデンウイークも後半部である。全国的にこのゴールデンウイークは天候が悪いが、憲法記念日の昨日の松山では晴天ではないが、雨天ではなく、私は県民文化会館(ひめぎんホール)での憲法集会に出かけた。講演は前広島市長の秋葉忠利氏であった。
彼は衆議院議員とか広島市長とかの政治家としてのイメージが一般の人には強いだろうが、もともと数学者である。彼はタフツ大学の准教授を経由して、広島修道大学の教授となり、それから衆議院議員となり、政治家となった。
だからかどうかは知らないが、なかなか話しにデータが多く出てきた。都市は国家から離れてつながることができるし、いろいろな国家のできないことを行うことができるという主張は彼だけの主張ではないと思う。だから、私には特に奇異な感じはしない、ごくもっともな主張であったが、それを聞いていた人たちにはでどうであったろうか。
秋葉さんの話で出た具体的な例が印象に残った。それは市民からの苦情についてである。
例えば、ゴミの回収ができていないとの苦情が市役所にあれば、それは担当者が現地に行ってみれば、ほんとうにゴミが回収されていないかどうかはすぐにわかる。そしてもし回収がされてないならば、市の担当者はすぐにゴミの責任を持って回収しなければならない。それが都市の市長の責任である。
ところが、国のレベルではある国が大量戦略兵器をもっているといって、戦争をはじめてそこの国に戦争をしかけて実は大量戦略兵器がなかったからといってその国の指導者は辞めたりしなかった。それがどこの国のことかは言わなくても誰でも知っている。
ドイツの南西部の都市、フライブルグ市の市長であった、ベーメさんなども彼の環境政策等は国家の政策とは別に都市が独自の政策をとることができるとの主張であった。愛媛大学での講演で彼が語気を強めて強調されたことであり、これには強い感銘を受けた。
また、これはもう旧聞に属するが、羽仁五郎の「都市の論理」(勁草書房)がそういう都市を中心にして市民に必要な政策を行うというか世直しをせよという主張であった。もっとも1968年にベストセラーとなった、この「都市の論理」を覚えておられる方もそれほど多くなかろう。
少なくとも私が普通に話したりなどする、人々にもこの「都市の論理」の思想が広まったりしている思ったりしたことは一度もなかった。政治の貧困を嘆いても最後には国家の政策の貧困を嘆く人が大部分であり、都市から政策を、生き方を変えていこうとする人はあまり知らない。
この羽仁五郎の「都市の論理」の主張に秋葉さんが共鳴しているのかどうかは分からないが、その都市を出発として政策を世の中を変えて行こうとすることはやはり重要な一つの方向ではなかろうか。もっとも大多数の聴衆には寝言に聞こえたかもしれない。