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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

阿佐ヶ谷左岸2

2016-09-05 06:52:32 | 桃園川1

 左岸流を追っての二回目です。松山通り、次いで中杉通りを越えますが、その先にも遊歩道が連続します。これは前回も書きましたが、中央や右側のものと違って、左岸流は独立しています。旧馬橋村に入ってJR線を越え、桃園川緑道となっている本流に戻るまで、大部分が車止め、コンクリート蓋、カラーブロックなど、水路跡の特徴を残しており、たどるのは比較的容易です。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 杉並区の水路敷の定番、金太郎車止めのある遊歩道を東に向かいます。

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    2. 松山通りを越えます。この商店街を抜けると、ワンブロックで中杉通りです。 

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    3.  中杉通りを越えます。延長上にはコンクリート蓋の路地が連続します。

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    4. コンクリート蓋がいったん途切れますが、その先の左手に車止めがあります。

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    5. 左折、右折のクランクで北側にシフトして70mほど東に向かい、今度は右折で元の道路に戻ります。

阿佐ヶ谷左岸

2016-09-03 07:07:14 | 桃園川1

 天沼、阿佐ヶ谷境まで戻り、三流あるうちの北側のものをたどります。元は天沼から流れ込んだ左岸流でしたが、区画整理に伴い天沼のものは廃止され、阿佐ヶ谷に入って本流から分岐するよう付替えられました。これまでの二流と異なり、元の流路とほとんど重なっており、また、他の流れと交差せず一本だけ独立しています。中杉通りまで連続する遊歩道となっていて、迷うことなくたどることができます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 阿佐ヶ谷に入ってすぐの右カーブのところです。ここで本流から分岐していましたが、分岐のところの痕跡は失われました。

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    2. 住宅の立ち並ぶ一角から、突然遊歩道が始まります。 

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    3. カラー舗装、車止め付きですが、メインのものに比べると、簡易な印象は免れません。 

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    4. 右写真は右岸に向かってのショットで、この見通せる範囲の100m弱に三本の水路が並行しています。

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    5. 中杉通りまで350mほど、このような遊歩道がほぼ直線で連続します。単調ですが迷うことはありません。

メインの遊歩道2

2016-09-02 06:44:51 | 桃園川1

 右手から右岸流が合流した後の遊歩道に戻り、引き続き東に向かいます。すぐにかっての字名が由来の古道で、今は商店街となっている松山通りを越え、次いで中杉通りを越えるところまでです。なお、この区間の桃園川は二流になっていて、うち右岸流がメインの遊歩道になっているため、タイトルは「メインの遊歩道2」としましたが、同時に「阿佐ヶ谷右岸2」でもあるわけです。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. メインの遊歩道に戻ります。合流地点は不明ですが、右手から右岸流の合流があり、すぐに右カーブです。

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    2. 松山通りを越えます。右写真は右岸段丘にある法仙庵前からのショットです。

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    3. 中杉通りを越えます。越えた先に水路跡の道路は連続しますが、遊歩道となっているのはここまでです。 

 <松山通り>  松山通りは中杉通りの一つ西側を並行する商店街です。元は阿佐ヶ谷駅南口のパールセンターから、神明宮、世尊院前を経由して阿佐ヶ谷村を縦断する通りで、→ 「阿佐ヶ谷村絵図」→「東京近傍図」にも描かれています。練馬の円光院子の権現に至ることから権現道と呼ばれ、また鎌倉道とも目される古道でした。それが、中杉通りの開通に伴い世尊院のところで切り離され、うち北側のものに杉並村大字阿佐ヶ谷当時の小字で、周囲が松林だったことが由来の松山の名を付けました。
 一方、ケヤキ並木で有名な中杉通りは、昭和27年(1952年)、青梅街道から阿佐ヶ谷駅南口までが開通、当時は砂埃の舞う砂利道でしたが、二年後にはケヤキ並木として整備されました。昭和41年には阿佐ヶ谷駅が高架となり南北が連絡、同56年に早稲田通りまで延長されました。それまでは松山通りがバス道で、歩く方が早いといわれたほど渋滞していたそうです。

 


阿佐ヶ谷右岸

2016-09-01 06:45:35 | 桃園川1

 中杉通りまでの三流のうち、右岸流は他の二本と違って、遊歩道として整備されてはいませんが、車止めとそれらしい蛇行によって、200mほどをたどることができます。ただ、遊歩道となっている本流からは、分岐点、合流点とも切り離されているため、予備知識なしには見過ごしてしまうかもしれません。なお、→ 「東京近傍図」の右岸沿いの流れは、阿佐ヶ谷村に入って右カーブで段丘に沿っていて、今回の水路跡と重なっており、むしろこちらのほうがメインだったのでしょう。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 遊歩道の右手、15mほどのところにある路地から始めます。右カーブの後すぐに中断です。

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    2. ワンブロックで再開、右折、左折のクランクで右手にシフトします。 

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    3. 右写真の見通す範囲、100m弱がこの前後の田圃の幅でした。 

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    4. 水路単独と思われる狭い路地に入ります。この先通り抜けられるのか、不安になるところです。

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    5. コンクリート蓋の路地になり、突き当りを左折してフェイドアウトです。遊歩道に合流していたのでしょう。

メインの遊歩道

2016-08-31 06:13:19 | 桃園川1

 昭和の初めの桃園川は天沼から阿佐ヶ谷に二流で入り、すぐに右岸流を分岐して三流になっていました。天沼地区の区画整理で本流一流となったあとも、阿佐ヶ谷ではこの三流が維持され、ただ、いずれも本流から分岐したように付替えられました。今回から数回にわたって、これら三流をとりあえず中杉通りまでたどりますが、まず最初は天沼から連続する中央の遊歩道で、メインのと付けたのは、左岸流跡の遊歩道と区別するためです。(現行の地図に薄いブルーで重ねたのは、天沼のところでUPした→ 地図 と同様、区画整理前の流路です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 慈恩寺前で旧阿佐ヶ谷村に入るところから再開します。現行の住居表示でも横切る通りが 天沼、阿佐谷北の境になっています。

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    2. すぐに右カーブに差し掛かります。このカーブの前後で左右に分岐するよう付替えられましたが、その痕跡は残されていません。 

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    3. カーブを抜けるとほぼ直線で東に向かいます。付替え時の人工的な区間です。 

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    4. ここに松山橋が架かっていました。松山は杉並村大字阿佐ヶ谷の字で、200mほど先の通りの名前に残っています。

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    5. このようなカラーブロック、石造りの車止めの遊歩道が中杉通りまで500mほど続きます。

阿佐ヶ谷村用水

2016-08-30 06:21:16 | 桃園川1

 「用水 保谷新田にて多摩川上水を引分、天沼村より当村に入、処々の水田にそゝぎ、村内をながるゝこと四町許、流末は馬橋村に至る」(「新編武蔵風土記稿」) 「多摩川上水を引分」とは千川上水六ヶ村分水のことですが、阿佐ヶ谷村にかかわる分水口は二つあり、一つはこれまで追って来た北四面道口から天沼村経由のもの、もう一つは杉並口から直接阿佐ヶ谷村を灌漑していたものです。なお、「新編武蔵風土記稿」には「陸田多く水田少なし」とありましたが、「東京府志料」によると田12町4反5畝、畑72町5反7畝余、同じころの「星野家文書」で12町4反歩と、ほぼないし全部を千川用水に依存していました。

 

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    ・ 「阿佐ヶ谷村絵図」  成立年代不詳の「阿佐ヶ谷村絵図」(首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

 阿佐ヶ谷村を流れる桃園川の流路は、二ないし三流が並行し、あるいは網の目状に入り組んでいて、かなり複雑ですし、またそれを描く絵図、地図によっても一定していません。ただ、上掲「村絵図」や→ 「東京近傍図」から現在確認できる水路跡まで、左右の側流に挟まれた流域の大枠は一致しています。これは、阿佐ヶ谷地区が前後の天沼や馬橋、高円寺などと異なる最大の特徴で、区画整理による単線かつ直線化を経ていないため、左右の段丘沿いに流れていた用水が、江戸時代そのままに今に至っているためです。

 

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    ・ 中杉通り  第二次大戦後の開通で、世尊院境内を貫き旧阿佐ヶ谷村を東西に二分しています。写真は世尊院北で中杉通りを越える桃園川の谷筋です。

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    ・ 青梅街道  青梅街道沿いに東に向かう六ヶ村分水の杉並口付近です。街道に面した建物の裏には、コンクリート蓋の→ 路地が街道と平行しています。

阿佐ヶ谷村

2016-08-29 06:55:10 | 桃園川1

 「阿佐ヶ谷村は、郡の東の方にあり、郷庄の唱を伝えず、江戸日本橋には三里半の行程なり、村名の起りを詳にせず、『小田原北条家人所領役帳』に、太田新六郎知行八十四貫文中野内阿佐ヶ谷分とあり、・・・・されば古き村なる事は疑ひなけれど、その詳なるころを伝へず、江戸麹町山王の神領に附せらる、村内はすべて平地にして土性は野土なり、陸田多く水田少なし、民家九十四軒、村の広さ東西七町、南北十一町、東は馬橋村にとなり、南は青梅街道に界ひ、又田端、成宗の二村にも続けり、西は天沼村に接し、北は下鷺ノ宮村に及ぶ」(「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・ 「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ線は区境、細線は杉並村当時の大字境です。

 阿佐ヶ谷の地名が文献上最初に現れるのは、応永27年(1420年)作成の古文書(熊野那智大社「米良文書」)で、檀家であった江戸氏の一族を列記したなかに、「中野殿」と並んで「あさかやとの」とあります。さらに、冒頭の引用文にもある「小田原衆所領役帳」(永祿2年 1559年)は、「中野内阿佐ヶ谷」と、現行と同じ漢字表記です。地名由来としては、桃園川流域の浅い谷筋の意と解するのが一般で、泥が浅く耕作しやすい、麻の生い茂る、葦の生い茂るなどもありますが、いずれにしても谷筋にある地形由来は間違いないところです。「新編武蔵風土記稿」に記載された小名は、向、小山、原、本村で、神明宮や世尊院のある本村を中心に、桃園川流域を開発したのが最初と思われます。

 

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    ・ 神明宮  阿佐ヶ谷村の鎮守で、桃園川を東に望む右岸段丘斜面にあります。西隣の世尊院は江戸時代別当でしたが、中杉通りに面して→ 山門が建っています。

  「神明宮 除地、百五十坪、小名本村にあり、村内の鎮守なり、・・・・右の五社共に村内世尊院の持ちなり」(「新編武蔵風土記稿」) 「江戸名所図会」本文にも記載があり、日本武尊の東征に際し当地に立ち寄った後、地元民がその武功を慕って神明宮を勧請したこと、源頼義の奥州遠征に随行し、病気となって土着した者が、伊勢神宮に参拝して霊石を得、これをご神体としたこと、当初の社地は「七八町東の方にあり、土人これを元伊勢と称」したことなど、神明宮にまつわる伝承を紹介しています。なお旧地は今もお伊勢の森と呼ばれています。

 


村境の小支流

2016-08-27 06:48:09 | 桃園川1

 現日大二高キャンパス付近から発し、天沼、阿佐ヶ谷の村境近くで合流する小支流があります。元々は左岸流に流れ込んでいたのでしょうが、区画整理事業によって左岸流が失われたのに伴い、本流に合流するよう付け替えられました。なお、日大二高は大正15年(1926年)、日本大学の二番目の付属中学(旧制)として当地に開校しました。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 慈恩寺前で本流は天沼、阿佐ヶ谷の境を越えますが、その手前で左手からの合流があります。(道幅の違いに注目です。)

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    2. 100mほどほぼ直線で北に向かいます。なお、写真右手の宅地の一角から、左岸流跡の遊歩道が始まります。  

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    3. 左折、右折のクランクがあり、その先に車止めが顔をのぞかせる、典型的なカクカクです。 

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    4. 車止め、コンクリート蓋の路地が二ブロック、100m弱続きます。

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    5. 日大二高キャンパスに突き当たって終了です。右写真は東側からのショットで、谷筋が見て取れます。

土地区画整理

2016-08-26 06:38:35 | 桃園川1

 天沼地区の土地区画整理事業は、昭和6年(1931年)に組合結成、同14年に完成しました。昭和30年発行の「杉並区史」の記述では、「天沼1、2丁目の一部三万六千余坪、千川用水の水路改修を主とし、田畑山林の荒地に道路を貫き、橋梁を架し、著大の効果をもたらした」そうです。この36000坪という数字ですが、天沼村の水田面積は4町歩(12000坪)前後で推移しており、ほとんどを千川用水に依存していました。その三倍に過ぎないということは、用水の流域にほぼ限定されていたわけで、「千川用水の水路改修を主とし」というのもうなずけます。(現行の地図に薄いブルーで重ねたのは、都市計画東京地方委員会の「大正12年測図(1/3000)」に描かれた桃園川の流路で、区画整理前後の変化が一目瞭然です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 前回もUPした遊歩道が左カーブするあたりが、改修前の分岐点でした。なお、左手にある日大幼稚園は昭和2年の開園です。

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    2. 分岐した二流のどちらとも重ならない、区画整理時に開設された区間です。これまでより幅広かつ直線的なのも、そのためなのでしょう。

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    3. 左カーブ以降、遊歩道が中央分離帯のようになっていますが、次のブロックは左手車道、右手遊歩道です。

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    4. 区画整理時に出来た幅広道路を越えます。右写真の奥に左岸流があり、見通せる70mほどが天沼田圃の幅でした。

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    5. 幅広道路の北端にある区画整理記念碑です。事業が竣工した昭和13年に建てられました。 

右岸の小支流

2016-08-25 06:37:03 | 桃園川1

 本流跡の遊歩道に戻り、改めて東に向かいます。日大幼稚園前を過ぎたところで、右手から合流する水路跡の路地があります。→ 「段彩陰影図」のほぼ中央の谷筋にかかわるもので、車止め、コンクリート蓋の水路跡を三ブロック、百数十メートルたどることができます。なお、改修以前は合流地点付近で本流自体、二流に分岐していましたが、その詳細は次回のテーマとします。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 桃園川の本流に戻り、改めて遊歩道を東に向かいます。 

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    2. 通りの右手が水路跡の遊歩道ですが、左カーブの先では通りの中央にシフトしています。

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    3. 左カーブの右手に路地が合流しています。右折してこの路地をさかのぼります。

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    4. コンクリート蓋、車止め付きで、緩やかに右カーブしながら150mほど続きます。

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    5. 車止めの先は一般の道路に紛れて終了です。ただ、右写真のように、谷筋はその先にも認められます。

左岸の小支流

2016-08-24 06:18:09 | 桃園川1

 天沼地域を流れる桃園川には、左右から小支流が合流しています。 → 「段彩陰影図」で見ても、弁天池からの流れに続いて左岸から一つ、次いで右岸からもう一つ、短い谷筋が合流していますが、前回合流していた路地は、左岸からの小支流のものでした。なお、→ 「東京近傍図」の時代、この小支流は左岸流に合流していたものと思われます。それが左岸流を廃止した際、最短距離で本流に合流する様に付替えられたのでしょう。現在残された合流地点の水路が直線的なのは、その付替えの結果と考えます。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 左カーブで徐々に西に向きを転じます。元はこのあたりで左岸流に合流していたのでしょう。

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    2. コンクリート蓋になり、途中鉄板に覆われたりします。

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    3. ここから先は水路単独で、コンクリート蓋の幅も狭まってきました。

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    4. やがてフェイドアウトします。合流地点から延長280mほどの小水路でした。

 <熊野神社>  「十二社権現社 除地百五十坪、小名宝光坊にあり」(「新編武蔵風土記稿」) 「杉並の神社」(昭和55年 杉並区教育委員会」によると、熊野神社と改称したのは明治に入ってからで、同7年(1874年)に村社に指定されました。なお、同社には元弘3年(1333年)に新田義貞が鎌倉攻めの途中、この地に陣を敷いて戦勝を祈願したとの伝承があります。その際手植えしたと伝えられる杉は、長く御神木として信仰されてきましたが、昭和に入って枯れたため伐採され、現在は掘りだされた→ 切株が保存れています。傍らの解説プレートには、杉は二本あり「大願成就の杉」「出世杉」と呼ばれたこと、二本とも枯れたため、昭和21年(1946年)に伐採されたことなどが記されています。

 


天沼村用水2

2016-08-23 06:51:39 | 桃園川1

 → 「東京近傍図」を見ると、八幡社前を過ぎた桃園川は、次の通りと交叉する手前で左岸流を分岐、その後は二流が並行して阿佐ヶ谷村へと向かっています。ただ、現在残された水路跡は一流で、左岸流の流路をたどることはできません。これは天沼地区の土地区画整理事業に伴うもので、区画整理のなかった阿佐谷地区に入ると、左岸流は遊歩道となってその痕跡をとどめています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. このあたりで左手に分岐があったことになります。なお、右写真の通りには天沼橋が架かっていました。 

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    2. 引き続き微妙な蛇行をしながら、東に向かいます。流域の字は中谷戸から宝光坊に変わっています。

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    3. 幅広の道路を越えます。右写真は左岸方向で、左岸流との100m弱が天沼田んぼの範囲でした。

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    4. 左手から合流する路地があります。ここでいったん左折して北に向かいます。

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    5. こちらもワンブロックごとに車止めが付ていて、水路跡なのは明らかです。

八幡神社

2016-08-22 06:03:02 | 桃園川1

 弁天池からの合流地点に戻り、水路跡の遊歩道を東に向かいます。右手にもえぎ公園を見ながら100mほどで天沼八幡通りです。八幡神社前を通ることからのネーミングで、八幡神社は「新編武蔵風土記稿」では、「此所(中谷戸)の鎮守」、「東京府志料」では「村ノ鎮守」となっています。ただ、「杉並の神社」(昭和55年 杉並区教育委員会)は「昭和二年四月に村社となる」としており、その辺の事情はよく分かりません。明治末に天沼弁天社を合祀、それに伴い、弁天池も八幡神社の社地となりましたが、昭和50年(1975年)、社殿改築のため西武鉄道に売却したとの顛末が、「杉並風土記」(森泰樹 昭和62年)に載っています。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    ・ 「陸地測量部発行の1/10000地形図(昭和12年修正) / 荻窪」  上掲地図と同一場所、同一縮尺です。

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    1. 合流地点から東に向かいます。右手にあるもえぎ公園には、ビオトープなどが設けられています。

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    2. 八幡通りを越えます。ここに谷戸橋が架かっていました。右写真は八幡神社方向で、奥に鳥居が見えています。 

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    3. 八幡神社の社殿です。創建は17世紀末の天正年間、ないし江戸初期といわれていますが、詳しいことは伝わっていません。

 <区画整理と付替え>  → 「東京近傍図」を見ると、天沼弁天池からの余水は、八幡神社前を東南に流れ、(当時の橋名は不明ですが)谷戸橋付近で北四面道口からの水路と合流しています。これに対し、現在確認できる水路は弁天池から南に向かい、最短距離で合流しています。出来る限り下流へ向かうか、最短距離で合流するかは、区画整理による付替えのポイントの一つであり、田用水から排水路への転換を象徴するものです。なお、天沼地区の区画整理は昭和6年(1931年)に組合結成、同14年に完成しており、その途上にある上掲「昭和12年第二回修正」では、合流する水路が省略されているのは残念ですが、弁天池から八幡前にかけて、宅地造成が進んでいることが分かります。(ちなみに、「昭和4年測図」では荒地になっており、すでに水田耕作は放棄されていたようです。)

 


天沼弁天池

2016-08-20 06:09:49 | 桃園川1

 「新編武蔵風土記稿」で、「小名中谷戸に広さ一段許(≒1000㎡)の池あり、池中蒹葭生茂れり、是を用水とす」とあるのが、桃園川の源流の一つである天沼弁天池(中谷戸の池とも)です。池には弁天様が祀られ、大正時代までは渇水期の雨乞いの対象でした。ただ、関東大震災後の周辺の宅地化で湧水が減少、昭和30年代には干上がって荒地となり、同50年代初めに西武鉄道の所有地となった際、大半は埋め立てられました。(現行の地図にブルーで重ねたのは、都市計画東京地方委員会の「大正12年測図(1/3000)」に描かれた弁天池、及びその西側に連なる池ないし水路状の施設で、薄いブルーは水田の範囲です。)

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1.  教会通りを越えて200mほどで、もえぎ公園前に差し掛かります。左手からコンクリート蓋の水路跡が合流します。

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    2. コンクリート蓋が70mほど続き、天沼弁天池公園に突き当たります。右写真は突き当りの左手に祀られた天沼弁天です。

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    3. 天沼弁天公園は平成19年に杉並区立の公園として開園しました。園内の池は人工的に作られたもので、井戸水をポンプで循環しています。

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    4. 公園の西にワンブロックだけの車止め付道路と橋の遺構(?)があります。地図に重ねた池状の施設とかかわるのでしょう。

 <井荻天沼地下水堆>  「その頃(大正十年頃)天沼キリスト教会は、周囲をカラタチの生垣で取囲まれ、屋根に十字架の立っている礼拝堂の脇に、地下水をモーターで汲みあげる高いタンクの塔があった。」(「荻窪風土記」) 「杉並の川と橋」(平成21年 杉並区立郷土博物館)もこの部分を引用、敷衍して、「ここらあたりから清水にかけては『井荻天沼地下水堆』の中でも地下水位が非常に高いところである」と付け加えています。地下水堆とは聞きなれない言葉ですが、地下水位を等高線で表した際、山の頂上のように閉曲線となる部分で、日大二高通りを挟む清水、天沼付近はその地下水堆の頂上に当たるそうです。→ 「段彩陰影図」に見る弁天池やその西側一帯の低地は、地下水面と地面の高さがほとんど変わらず、雨が降って水位が上昇すれば、自然と水が湧き出るような土地柄だったようです。

 


北四面道口

2016-08-19 06:41:29 | 桃園川1

 千川用水六か村分水の北四面道口(字四面道北口)を起点に、桃園川の流路をたどって天沼、阿佐ヶ谷方面に向かいます。水路跡はカラーブロックの遊歩道になっていて、徐々に右にカーブしながら東へと向きを変え、間もなく教会通りと交叉します。大正6年(1917年)に設立された天沼教会にちなんだネーミングで、荻窪駅北口前から東京衛生病院、天沼教会にかけては、「鐘の鳴る街」をキャッチコピーとした「教会通り商店街」です。なお、この通りはかって、天沼弁天池にちなんで弁天通りと呼ばれており、「荻窪風土記」に「荻窪駅北口の弁天通り(現在の教会通り)」との一節があります。

 

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    ・ 昭文社の地図ソフト"Super Mapple Digital"で作成、縮尺は1/6000です。青点線が実地調査及び当時の地図、空中写真などで確認できる水路跡で、そのポイントを地図に記入した番号順にウォーク&ウォッチしてみました。(一部推定によっているところもあります。)

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    1. 荻窪駅前から四面道交差点に向かって100mほどの、青梅街道に面した北四面道口から始めます。

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    2. カラーブロック、車止め付の遊歩道が、右カーブで徐々に東に向きを転じます。 

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    3. 教会通りを越えます。右折すれば青梅街道に出、左折して200mほどで名前の元となった→ 天沼教会です。

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    5. ここからしばらく幅広道路の右手を並行します。カラーブロックの色もグリーン系に変わっています。