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神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

天沼村用水

2016-08-18 07:13:00 | 桃園川1

 「用水 多摩川上水の分水なり、青梅街道のほとりより当村へ流る、所々の水田にそゝぎ、阿佐ヶ谷村へ入、村内をふること十町ばかり、小名中谷戸に広さ一段許の池あり、池中蒹葭生茂れり、是を用水とす」(「新編武蔵風土記稿」) 明治初年の「東京府志料」によると、天沼村の土地質は「高燥ニシテ平坦ナリ 動スレハ旱魃ノ患アリ」とされ、田面積は4町17歩とごく少ないものでした。ちなみに、隣村の阿佐ヶ谷村の水田は12町4反5畝です。そして、同時代の「星野家文書」は、千川用水のかかわる田面積を天沼村4町(阿佐ヶ谷村12町4反)としており、その少ない水田のほとんどを千川用水に依存していたことになります。

 

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    ・ 北四面道口  → 「東京近傍図」には分水口付近は描かれていませんが、ここでら取り込まれた用水はすぐに大きく右カーブ、350mほどで天沼弁天池からの流れを合せていました。

 昭和の初めから70年近くを荻窪で過ごした作家、井伏鱒二は当初、この写真の右手付近にあった平野屋酒店二階に下宿していました。「昭和二年の五月から十月にかけて、私は井荻村のこの場所にこの家が出来るまで、四面道から駅よりの千川用水追分に近い平野屋酒店の二階に下宿した。(今、公正堂の所在する場所である)千川用水追分は田用水追分とも言い、水路が半兵衛堀と相沢堀に分れている分岐点である。」(「荻窪風土記」 昭和57年) ここでいう半兵衛堀の井口半兵衛は井草村の名主で、宝永4年(1707年)の田用水転用を主導した一人です。一方、相沢喜兵衛は阿佐ヶ谷村の名主として、杉並口まで延長された用水にその名を残しました。

 

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    ・ 天沼弁天池公園  関東大震災以降、荻窪周辺の宅地化で湧水が減少、結局30年ほど前に枯渇、大半は埋め立てられました。西武鉄道関係の所有地になっていましたが、最近杉並区が買い取り公園としました。

 「荻窪風土記」には、「天沼八幡様の鳥居のわきにある弁天池」に関して、次のような一文もあります。「一筋のきれいな水の用水川が流れ、それとは別に、どこからともなく湧き出る水で瓢箪池が出来ていた。」 この後に、同行した知人の短歌が引用されます。「このあたり野良低みかもわが踏める足元ゆらに清水湧くかも」 雨が降り続くと、弁天池の湧水は溢れて大沼となり、いつしか雨沼(転じて天沼)と呼ばれるようになった。そんな地名由来の一説がもっともらしく感じられる描写ではあります。

 


天沼村

2016-08-17 06:47:47 | 桃園川1

 「天沼村は、郡の東北にあり、郷庄の唱を伝へず、江戸麹町山王の神領なり、民家七十七軒、東西九町許、南北七町余、青梅街道村の南を東の方へつらぬく、井草村より阿佐ヶ谷村に達す、村内にかゝること凡九町、又東の方阿佐ヶ谷村より北の方井草村に達する道あり、江戸四ッ谷への道なり、村にかゝること三町許、四境をいはヾ、東は阿佐ヶ谷村にとなり、西より北は井草村をめぐらし、南は青梅街道をかぎり、道をこえては下荻窪村なり」 (「新編武蔵風土記稿」)

 

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    ・  「東京近傍図 / 板橋駅」(参謀本部測量局 明治14年測量)及び「同 / 内藤新宿」(明治13年測量)を合成、その一部を加工したもので、本来の縮尺は1/20000、パソコン上では1/12000ほどです。オレンジ細線は豊多摩郡当時の村境、大字境です。

 天沼村の小名に関し、「新編武蔵風土記稿」は「中谷戸 青梅街道の内にあり、宝光坊 中程にあり、土人云古へ十二社権現の別当なるよし、今に小名にのこるをもて見れば、よほど盛なりし修験なりしときこゆれど、その詳なること伝へず、本村 北の方井草村の境を云」と書いています。中谷戸に八幡神社、宝光坊に十二社権現(現熊野神社)、本村に稲荷神社があり、例祭もこれら三社が毎年九月に持ち回りで行うなど、対等な関係だったことをうかがわせます。

 

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    ・ 八幡神社  「除地百五十坪、これも中谷戸にあり、此所の鎮守なり、本社は三尺四方にて覆屋二間に三間南向き」(「新編武蔵風土記稿」)

 <乗潴と天沼>  「日本書紀」に続く勅撰史書、「続日本紀」の中に「武蔵国ノ乗潴、豊島の二駅」との記述があり、その所在地について古くから争われています。うち「乗潴」については読み方にも定説がありません。これを「乗(剰)・あまり」「潴・みずたまり」から「あまぬま」と読み、奈良時代、当地に官立の駅が設けられていた、との説が提唱されています。とすると、天沼は古くから成立した地名ということになりますが、それを裏付ける考古学上の発見は皆無で、現在のところ机上の論議にとどまっているのが現状です。(「乗潴・のりぬま」が「練馬・ねりま」に転化したとの説もあります。)

 


桃園川

2016-08-16 06:51:05 | 桃園川1

 桃園川は天沼弁天池など、多摩郡野方領天沼村(現杉並区天沼)周辺の湧水を源に、阿佐ヶ谷村を流れ、馬橋、高円寺、中野各村を経由して神田川に注ぎ込む、神田川水系の一支流です。江戸時代から明治、大正にかけては、上記各村の農業用水として利用されましたが、天水頼りのため水不足は慢性的で、青梅街道沿いの七ヶ村分水(明治以降は六ヶ村分水)の助水が不可欠でした。むしろその水が最大の水源といえ、独立の〇〇川というよりも千川用水の一部の扱いで、「千川用水」、「多摩川上水の分水」、あるいは単に「田用水」と書かれるのが一般でした。

 

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    ・ 「段彩陰影図 / 桃園川」(1/18000)  「迅速測図」及び「東京近傍図」を参考に、明治初期の桃園川の流路を重ねました。日大二高通りと早稲田通りが右上隅の妙正寺川との、青梅街道が左下の善福寺川との分水界となっています。

 大正11年(1922年)、それまで駅のなかった中野、荻窪間に、阿佐ヶ谷駅、高円寺駅が誕生、大震災を経た昭和10年代にかけて、急激な都市化の波が押し寄せます。農村から住宅街への転換に伴い、桃園川流域は区画整理事業が行われ、複雑、多岐な流路は一本化されますが、それまでの田園風景は失われ、水質悪化と大雨時の氾濫に悩まされることになります。その解決のためには、第二次大戦、戦後復興、高度経済成長を挟んだ30年間を要し、昭和42年(1967年)、ようやく暗渠化に成功、地下は「桃園川下水幹線」、地表は「桃園川緑道」になり現在に至っています。

 

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    ・ 桃園川緑道  阿佐ヶ谷駅の東でJR中央線を越えた直後の、桃園川緑道の起点です。ここから末広橋で神田川に合流するまでの4.4kmが、このようなカラーブロック舗装の遊歩道として整備されています。

 ところで、現在は桃園川の呼称が定着していますが、これは昭和初期の区画整理後普及したもので、現中野駅近くにあった八代将軍吉宗ゆかりの桃園や、中野五差路付近に架かる桃園橋からの命名です。昭和8年(1933年)の「中野町誌」の橋梁リストに桃園川の呼び名はなく、昭和12年の中野区役所土木課の「橋梁表」に至って、ようやく桃園橋の架かる河川としてその名が登場します。