「用水 多摩川上水の分水なり、青梅街道のほとりより当村へ流る、所々の水田にそゝぎ、阿佐ヶ谷村へ入、村内をふること十町ばかり、小名中谷戸に広さ一段許の池あり、池中蒹葭生茂れり、是を用水とす」(「新編武蔵風土記稿」) 明治初年の「東京府志料」によると、天沼村の土地質は「高燥ニシテ平坦ナリ 動スレハ旱魃ノ患アリ」とされ、田面積は4町17歩とごく少ないものでした。ちなみに、隣村の阿佐ヶ谷村の水田は12町4反5畝です。そして、同時代の「星野家文書」は、千川用水のかかわる田面積を天沼村4町(阿佐ヶ谷村12町4反)としており、その少ない水田のほとんどを千川用水に依存していたことになります。
- ・ 北四面道口 → 「東京近傍図」には分水口付近は描かれていませんが、ここでら取り込まれた用水はすぐに大きく右カーブ、350mほどで天沼弁天池からの流れを合せていました。
昭和の初めから70年近くを荻窪で過ごした作家、井伏鱒二は当初、この写真の右手付近にあった平野屋酒店二階に下宿していました。「昭和二年の五月から十月にかけて、私は井荻村のこの場所にこの家が出来るまで、四面道から駅よりの千川用水追分に近い平野屋酒店の二階に下宿した。(今、公正堂の所在する場所である)千川用水追分は田用水追分とも言い、水路が半兵衛堀と相沢堀に分れている分岐点である。」(「荻窪風土記」 昭和57年) ここでいう半兵衛堀の井口半兵衛は井草村の名主で、宝永4年(1707年)の田用水転用を主導した一人です。一方、相沢喜兵衛は阿佐ヶ谷村の名主として、杉並口まで延長された用水にその名を残しました。
- ・ 天沼弁天池公園 関東大震災以降、荻窪周辺の宅地化で湧水が減少、結局30年ほど前に枯渇、大半は埋め立てられました。西武鉄道関係の所有地になっていましたが、最近杉並区が買い取り公園としました。
「荻窪風土記」には、「天沼八幡様の鳥居のわきにある弁天池」に関して、次のような一文もあります。「一筋のきれいな水の用水川が流れ、それとは別に、どこからともなく湧き出る水で瓢箪池が出来ていた。」 この後に、同行した知人の短歌が引用されます。「このあたり野良低みかもわが踏める足元ゆらに清水湧くかも」 雨が降り続くと、弁天池の湧水は溢れて大沼となり、いつしか雨沼(転じて天沼)と呼ばれるようになった。そんな地名由来の一説がもっともらしく感じられる描写ではあります。