神田川 「まる歩き」 しちゃいます!!

ー神田川水系、支流はもちろん、旧水路、廃水路、全部 「まる歩き」ー

阿佐ヶ谷村用水

2016-08-30 06:21:16 | 桃園川1

 「用水 保谷新田にて多摩川上水を引分、天沼村より当村に入、処々の水田にそゝぎ、村内をながるゝこと四町許、流末は馬橋村に至る」(「新編武蔵風土記稿」) 「多摩川上水を引分」とは千川上水六ヶ村分水のことですが、阿佐ヶ谷村にかかわる分水口は二つあり、一つはこれまで追って来た北四面道口から天沼村経由のもの、もう一つは杉並口から直接阿佐ヶ谷村を灌漑していたものです。なお、「新編武蔵風土記稿」には「陸田多く水田少なし」とありましたが、「東京府志料」によると田12町4反5畝、畑72町5反7畝余、同じころの「星野家文書」で12町4反歩と、ほぼないし全部を千川用水に依存していました。

 

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    ・ 「阿佐ヶ谷村絵図」  成立年代不詳の「阿佐ヶ谷村絵図」(首都大学東京蔵「堀江家文書」)を元に、ブルーの用水、薄いブルーの水田を中心にイラスト化したものです。

 阿佐ヶ谷村を流れる桃園川の流路は、二ないし三流が並行し、あるいは網の目状に入り組んでいて、かなり複雑ですし、またそれを描く絵図、地図によっても一定していません。ただ、上掲「村絵図」や→ 「東京近傍図」から現在確認できる水路跡まで、左右の側流に挟まれた流域の大枠は一致しています。これは、阿佐ヶ谷地区が前後の天沼や馬橋、高円寺などと異なる最大の特徴で、区画整理による単線かつ直線化を経ていないため、左右の段丘沿いに流れていた用水が、江戸時代そのままに今に至っているためです。

 

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    ・ 中杉通り  第二次大戦後の開通で、世尊院境内を貫き旧阿佐ヶ谷村を東西に二分しています。写真は世尊院北で中杉通りを越える桃園川の谷筋です。

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    ・ 青梅街道  青梅街道沿いに東に向かう六ヶ村分水の杉並口付近です。街道に面した建物の裏には、コンクリート蓋の→ 路地が街道と平行しています。