「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

宝鏡寺門跡~本法寺

2008年02月21日 19時59分03秒 | バッタモン百寺巡礼


宝鏡寺または人形寺そのまた別名は百々御所(どどのごしょ)といいます。

天皇の皇女が入られたので『御所』とついているようです。

こちらは、臨済宗の尼寺のようです。

年に二度ほど天皇家所縁の人形を展示しているようですが、

今回はその次期ではありませんでした。

なにせ、行き当たりばったりなもので・・・


人形塚です。

こちらでは人形供養も受け付けているようです。

人形には魂が入ると言いますからねぇ困っている方はこちらへどうぞ

人形の石像の下には、武者小路実篤の詩で

『人形よ 誰がつくりしか

誰に愛されしか 知らねども
   
  愛された事実こそ

汝が成仏の誠なれ』と刻まれてあります。

なんだか、人間に言われているみたいですね。

宝鏡寺門跡の北隣には『日蓮宗 本山 本法寺』があります。


立本寺もそうでしたけど日蓮宗って、補修に金賭けないのかね?

でも、本寺は立本寺より近代的でした。


なかなかの画でしょ

境内に入ると、神社や各お堂は手入れが施されておりました。

で、いざ方丈へ拝観の受付を

方丈自体は木造なのですが、檀家さんを収容する本堂?と

その宝物館はコンクリート造りでした。

当寺の自慢は、長谷川等伯画の縦10m、幅6mの釈迦涅槃図です。


長谷川等伯像

涅槃図は、なにせでかい

でも、展示してあったのは原寸大の写真でした。

写真でもこのでかさは凄い。

ガラスケースに入っている宝物も重文級や重文のものばかり。


勅使門裏庭園

と、


本阿弥光悦作といわれる三つ巴の庭。これが自慢だそうです。

本阿弥光悦と当寺の日親上人は、室町時代将軍足利義教の怒りに触れ、

投獄された際に知り合いとなり、

以後本阿弥家と本法寺のお付き合いが続いたと言う事です。

袖摺りあうも何かの縁って奴ですかね。

朱印を戴きましたが、そこに書かれてあった

『佛心』の文字は力強く法華の住職らしいなぁ~と、

勝手に感心してしまいました。





睡眠時間

2008年02月21日 09時54分31秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
眠剤が効かなくなっているのか、最近なかなか寝られないのです。

平均で5時間くらいでしょうか・・・。5時間も寝てないな・・・2、3時間かな?

かと言って昼夜逆転しているわけでもないのです。

なんだか、ぼーっとしています。

ますます、四月からの大学入学が不安になります

明日にでもクリニックへ電話しよっと



百万遍~寺町通り(後編)

2008年02月21日 01時00分49秒 | バッタモン百寺巡礼
浄土宗の大本山七ヶ寺の『百万遍知恩寺』を後にして、

加茂大橋を渡り寺町通りへ行き御所の東側を南下します。

そうすると、またも浄土宗の大本山に行き当たります。

『大本山 清浄華院』です。


この三門とは別にこちら


御所の方を向いて『勅使門』があります。

このお寺には、菊の御紋を使う事が許されているようで瓦にも

菊の御紋があしらっています。

何しろ、清和天皇の勅願により御所内に禁裏内道場として建てられたものだそうです。

当初は、『円、密、戒、浄』の四宗兼学の道場だったそうです。


大殿

で、法然上人が比叡山から降りてきて

ここに草庵を結び浄土宗の『専修念仏』の教えを説かれたそうです。

皇室とも所縁が深く、清浄華院へ上人として天皇の子息が入っておられます。

実際、境内には後陽成、後水尾、孝明天皇の皇子、皇女や宮家の墓地があります。

でもって、お隣へ


廬山寺(廬山天台講寺)です。

こちらは、紫式部の邸宅跡に立てられたお寺で圓浄宗の本山であります。

あまり聞きませんね。圓浄宗って・・・。

比叡山から降りてこられた元三大師良源によって開山と言いますから

天台密教の要素が多いのでしょうね。

でも、当初は『清浄華院』同様、四宗兼學だったそうです。


勅使門


大師堂

お次は、道を挟んで御所内に行くと・・・


神社です。

御所内にいくつかある神社の一つですが、梨木神社です。

この境内から水が湧き出ていて、私が行った日も行列を成しておりました。


本殿前

ここは、お公家さんを祀ってあって三條実萬(さんじょう さねつむ)さんと、

三條実美(さんじょう さねとみ)親子を御柱としています。

お父さんの三條実萬は『今天神様』と言われるほど才識兼備で、

早くから王政復古を唱えられ明治維新の原動力となられた方です。

ですが、幕府の逆鱗に触れ、一乗寺に幽閉されその年に身罷られました。

息子の三條実美は、父の意思を受けて王政復古を叫ばれましたが、

京都から追いやられ長州、築州へと落ちる事になります。

その後、王政復古が叶い太政大臣から総理大臣まで歴任しました。

都が東京へ移されるについて京都御所廃止案が出たときも

『それでは京都がさびれます』と明治天皇に進言し、却って

『国家の大礼は京都御所に於いて行う』と定められ

大正、昭和の即位は京都御所で行われました。

親子共に非常に天皇に近く親しかった為、三條実美が病床にあるときに

正一位に叙する勅語を受けられた。

で、大正四年に三條親子を祭神として、梨木神社ができたわけです。

あ~、しんど

もう一件

更に南下して、ちょいと河原町通りに抜ける道を行くと



荒神さんこと、護浄院です。


荒神尊

境内の中に荒神尊として、鳥居がありおまつりしてあります。

本堂の中で観音様をお参りさせていただきましたが、

横には不動明王が祭ってあり、その前には密教のような仏具がありました。

こちらも天台密教なのですかね

ここで打ち切りとして、丸太町通りに出て遅い昼食を・・・





許してぇ~。