「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

うつせみ和尚のお説教 「最近、気になる言葉『確かにぃ~』そんなに世の中に確かなものなんて無い」

2024年06月15日 15時02分53秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
題名書いたらもう書かなくていいな、と思ってしまいました(笑)
最近気になる言葉は、元々はTV発信なんでしょうが、妙に気になる。というか「そりゃどうなんだい?」なんて思う。

『確かにぃ』
特に語尾の「ぃ~」が気に障る。
テレビを観てるとNHKのアナウンサーも連呼してる。話し言葉って、どんどん移り変わって行くものだから、私がここで踏ん張ったところで、どうしようもないのですが、ちょっと言葉にこだわりがあるので最近の傾向が気になります。本の文章がそのまま話し言葉になるわけじゃないけど、本を読んでいるとそれに近くなる、影響されるというわけです。その意味で言うと「確かにぃ」というのもTVに影響されているのですが、どうもTVのバラエティで話される言葉は崩れすぎているように思えて成りません。本はさすがに話し言葉で書くことは少ない、やわらかい本だと話し言葉に近づきますが、それでもバラエティほど崩れていない。今さら「まろは・・・」という平安貴族のような話し言葉にしなさいとは言いませんが、ここで釘を刺さずにいられなかった。
釘?針?
私がここで書いたって、世の中に影響がないので「無痛針」かぁ…。










うつせみ和尚のお説教 「医療従事者/福祉従事者のおごり-患者は全て打ち明けていない」

2024年06月07日 00時41分54秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
精神科医や他の治療者、精神療法科、精神福祉職、特に医師が誤解してしまうのは「私には人生の全てを話してくれている。」という錯覚や驕り。
すべて話す人はいるのはいます。少数ではないと思いますが。ですが、そんな脳みそ差し出して「これが私の考えや今までの出来事の全てです」って、当事者側も忘れていることもあるだろうし、全て自分を開け放つ必要は無い。でも、「打ち明けてもらわないと治療が進まない」ということだろう。昨今の精神科医療は所詮、「処方箋書き」が医師の役割で、結局「付け焼き刃療法」でしかない。そんな「処方箋書き業」に自分の過去や考えを全てぶちまける必要は無い。こちらからいうことがあるならば「こんな症状がある」「こんな事があって困っている」ということ。医師はそんな存在に「落ちぶれて」しまっているのに、意識だけは「私に全て打ち明けてくれているだろう」という根拠の無い自信に満ちあふれていて、「今まで言ってなかったのですが、こんな事で困っています」というと、怒ってしまう医師もいる。たかが処方箋書き業ごときに怒られるいわれはないわけです。落ちぶれた貴族が気位だけ高いみたいなもんです。
私は心理職には寛容な部分があるのですが、なぜかというと「知らないけれど、教えてくれますか?/知りたいです」という意識があるように思えるからです。というか、そうでなくてはいけないと思います。医師が大上段に構えて、心理職は下段の構えという感じ。(剣道的に言うと-解りにくいね)
嫌みな言い方をすると、「3分診療」の精神科医は多いですが、そういう医師は「分をわきまえている医師」ということになります。「私が処方箋書き」と自認しているようなものだから。

医師はサービス業なんだから、そこらを解って欲しいね。











うつせみ和尚のお説教 「専門が細分化され過ぎる学問」

2024年05月10日 11時08分29秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
これもおそらく前に書いたと思います、思います…。(頭の中で考えていて書かなかったのかもしれません)

いろいろな分野の学者や研究者、野良学者なんかと話をしたり、専門書なんかをつまみ読みしますと、内容がまー細かいね。深掘りはいいけど他の専門分野の学者も理解できないようなものになってたりします。
専門性を高めることにより自分の「売り」を打ち出しているのだと思いますが、反面その分野を網羅しているような書物に会うことが難しくなっているように思います。昔は一人の学者が網羅するような本を出していたりするのですが、あとに続くよう学者は少なく本も出版されない。いつまで経っても50年以上前の「大御所学者の大金字塔的書物」を講義のテキストとしてつかっていたり…。近年、見るのはそれぞれの専門家が共著して何巻組かで出版されることが、多いようです。
正直、深堀りも結構ですが網羅した書物は必要です。あとに続く学生がより専門化されていって堀にほってブラジルにまで到達するころには一般人が興味を惹かないものになっているのが現状でしょう。奇特な一般人がしたり顔で酒の肴に話すだけではもったいない。その学問分野からそれぞれがエッセンスを抽出して今後の生活に活かしていけるようなものでないと、いずれその学問分野は社会との距離が離れすぎて、なくなってしまうかもしれません。支援するのはマニアではなく政府であったり、それを指示する国民だったりするのだから。
偉い学者さんなんかは大学を退官した後に市民と車座になって話をすることがありますが、若い学者にもそれをやって欲しいとおもいます。
(現役大学教員が大学の事務に忙殺されているのはよく聞く話ですが)
まぁ、自己満学者ではなくて、市井の人あっての学問ということを頭の中に置いて研究を深めていってほしいものです。


にほんブログ村 その他日記ブログ 底辺男日記へ





うつせみ和尚のお説教 「養老孟司さんが解りやすく解説していました『死の臨場感』」

2024年01月29日 16時57分42秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
養老孟司さんがTVで「人間はいつ『死』を自分事と考えるのか?」
まっ、「死はいつでも横にあるものと認識する」ということでしょうかね。

養老さんの言葉は以下の通りです。
三人称はニュースや面識の無い人の「死」
二人称は近いし関係、家族や友人、目の前で起こった事故などの「死」
一人称は自分の「死」

人は二人称の「死」に衝撃を受けて、自分ごとに感じる

人というのは、そんなに賢くないことを実感していなくて、いつも「私は賢い」とまで思わなくても「私はバカじゃない/愚かではない」と常日頃考えています。
「『死』のことは解っているし、どうなることも解っている」というわけですが、「二人称の死」を目の当たりにすると「あっ!人間って死ぬんだ!!」と身につまされます。これが「『死』の初めての認知」ということでしょう。よくよく考えれば、次の瞬間の命の保証なんて誰も無い訳なのですからね。どこか「徐々に弱っていって死ぬのだろうから、突然には死なないだろう」という解釈です。
これまた、人間のバカなところは強烈に意識付けられた「死」も時間の経過とともに薄れていって「元の木阿弥」になる。これは人間が正常を保つために辛いことを忘れるという機能が付いているからだ。

文面や会話で出る言葉では「解ったつもり」になっている。

私が考えるに、二人称の「死」だけでは意識付けられることはインパクトとして弱いと思います。自分の体が弱ってくる、体が大きく損傷した、体の機能が失われた、老齢期に入ってくるという「反応促進剤」がないと「死の臨場感の固定」は難しいと思う。
養老さんが強く死を意識するようになったのは、二人称の死と、ご自分が老齢期に入ったという「反応促進剤」があったからだと思う。老齢期に入れば、これを脱することは出来ないわけで、「日常的に死が隣にいる生活」が続くわけで、嫌でも意識付けられるわけです。

養老さんが大ベストセラーである「バカの壁」で『人間の死亡率は100%』と書いていたが、この時は老齢でないので戦争体験も「反応促進剤」だったのかも知れない。




にほんブログ村 その他日記ブログ 底辺男日記へ







うつせみ和尚のお説教 「多分再論、確認『幸福論』」

2023年10月31日 21時13分25秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
『幸福論』と書いてしまうと哲学書みたいな感じですが、そんな難しいことを書けるような頭ではないので(ご存じのように)、ごく簡単なことですが、意見の分かれるところの話になると思います。ハイ
「幸せ」というと、それぞれ違うと思います。ですが現代日本人においては典型的なモデルがあるように思えます。
「お金」
「社会的地位(出世)」
「結婚(家族・恋人)」
「住居」
「健康」などなど
上記のことで大半は表せているのではないでしょうか?

ここに例としてあげる男性は
「収入が少ない」
「非正規雇用」
「独身/結婚歴なし」
「狭い賃貸マンション暮らし」
「障害者」
「近年手術を数度している/五十代」というお方
みなさんがこれらの条件を見たときに「この人は不幸だ」と思うでしょうか?(どこかで聞いたような人ですが...)
では、この人の「不幸」は誰が決めるのでしょうか?
裁判所?国会?国民の過半数?身内?友達?近所の人?
この人の「不幸」は誰にも決定権はないのです。逆に言うと周りの環境から「私は不幸だ」という、その人の主観ではない所からその人の主観が脅かされるようなことは、本当の不幸というものです。簡単に言うならば「自分は不幸だ!」と考えるようになれば、それで終いです。自分の「不幸」の決定権は自分であって周りの人たちではない。「自分が幸せだ」と思えば、どんな環境であろうと、その人は幸せです。逆に自分は不幸だ」と思えば、例え円満な家族をもって、いっぱいお金を持って、大きな屋敷に住んで、社会的地位があって、健康であっても、その人は不幸なんです
幸せの定義に統一的なものは無いと私は考えます。
世間的に不幸に見えても、自分の心が満たされていれば堂々と肩で風切って歩けば良いのです。例え、路上生活者であっても。
周りは人を自分以外の人間を「不幸」というレッテルを貼りがち余計なお世話ってなもんです。





にほんブログ村 その他日記ブログ 底辺男日記へ

にほんブログ村 介護ブログ 障がい者へ