「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

日々是仏滅 「ひざが元で引っ越しします」

2022年08月22日 21時59分44秒 | 日々是佛滅
膝を手術したのは以前に書きましたが、私の住んでいるところは『四階建ての4階エレベーター無し』という好条件?のところでこの状態(膝の状態)では仕事や外出から帰ってきて階段を前にすると「登るぞ!」と気合を入れ直さないと途中でくじけそうです(笑)
・・・で、ここ最近「物件サイト」で検索サクサクをしておりまして、今日不動産屋にいって二回目のお部屋周りをしまして、『とりあえず』今日、審査の申し込みをいたしました。正直、この歳で・パート職・年収というマイナス要素満点な私が審査を通るかは家主次第です。交通の便はいいし、鉄筋コンクリート、エレベーターエレベーター付き!、ガスコンロふた口(ここ大事!)、ネット無料!、通院している精神科近所(笑)、膝を手術した病院へバス乗り換え無し(もう片方も手術します)、よく行くそば屋近く、勤務に便利などなど。好条件ですが家賃だけで今の四千円増し、ひと月に払う支払いは光熱費を引いて一万円増しと不安材料もあります。(・・・というか不安しかない)どれだけ生活が質素になるのやら… 





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日々是仏滅 「私の脳には変なクセがある『どうせこの仲は長続きしないんでしょ』という厭世観」

2022年08月14日 18時10分57秒 | うつせみの精神世界への誘い
私は子供の頃に両親が離婚をして父親の元で育ちました。父方の祖母が健在でしたので、おかずを持ってきてくれたりいろいろ世話をしてしてくれました。これも「孫が可愛そう」ということだったのでしょう。兄は社交的で外でよく遊んでいたのですが内向的な私は学校の以外ではあまり外で遊ばないタイプの子供でした。その気質はずーっと今まで続いていますが…。
今ではよく世間で語られるよいうになっていますが「ひとり親世帯の貧困」。これは「母親の片親世帯」に限らず私の育った所のように「父親の片親世帯」でも同様です。まっ、貧乏で憐れんだのか近所の方が夕方おかずを持ってきてくれたりしました。ありがたいことです。
さて、離婚当初はどなたか分からないけど噂して回って白眼で見られたり子供ながらに知ってて知らぬ振りして学校で明るく振る舞ったりしていましたが、今もそういう境遇の子供はそんな風にしてずいぶん無理している子は多いはずです。そんな世間の「うら/おもて」を強烈に意識させられると『人間不信』は当然植え付けられるわけです。私は物持ちが良いですから今でもそんな考えを持ってます。物持ちが良い割には人付き合いは非常に短い。すべては「どうせこの関係もすぐに終わる」「終わって当然、持続は時間の無駄」という観念ですから長続きするわけがない。卑怯なもので相手に言わせるように仕向けるか、自分から去って行くか、どちらにせよ「短期」です。ある意味「短気」なのか…。
こんなの自分の身にならないんだろうけど「独りが楽」というわけです。この歳になる「突然死」ということが頭をよぎりまして『独居死』なんてこともあるのかな?と。アパートで腐ってたらねぇ…。
まっ、人間死に様は選べませんから。あっ?選べると思ってました?






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うつせみ和尚のお説教 「『49歳もはや初老』について考えるのこころだぁ〜」

2022年08月11日 12時29分27秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
人生100年時代と言われておりますが、厚生労働省が2021年9月に発表したとろころによると日本全国の百歳以上の人口は86510人!その内約9割弱が女性ということだそうです。百年前というと大正11年「グリコのお菓子発売」「未成年者飲酒禁止法公布」「アインシュタイン来日」「大隈重信国民葬」「ソビエト社会主義共和国連邦成立」「日本共産党結成」「水平社宣言」などなど、社会は今も昔も激変していたようです。もちろん昭和六年から始まる日中戦争から昭和十六年の日米開戦という激動の時代をくぐり抜けてきた世代であります。
前説がいつものように長くなりましたが、現代人が生産活動に従事できるのは定年から考えて六十五歳。働き盛りといえば三十代後半から五十代半ばあたり、生気みなぎるのは二十代から三十代半ばといったところでしょうか?しかし、『脳の萎縮』は三十代から始まると言われています。生殖能力の減退は男性で三十五歳から、女性は二十八歳からと言われております。おそらくピークは十代後半から二十代半ばではないでしょうか?しかし、三十代後半になっても五十代になっても「まだまだ私は!」という諦めの悪い人は多い。往生際が悪いとしか言いようがない。『減退=老い』を認めようとしないので「さて、明日から出勤しなくていいですよ」となるとなんの準備もしてこなかった「企業戦士」はとまどい家庭では煙たがられる。一億総活躍社会といっても働ける人とそうでない人も居ることは確かで人生の老境で働くことに執着することにどこまで意味があるのか疑問です。「リタイヤしても居場所がない、探してこなかった、『老い』をイメージ出来てなかった」。今、スポーツでは「マスターズ大会」などが十年くらい前から盛んで年齢別で競っていますが、老醜を晒していることこの上なしです。老いればそこに役割や過ごし方があるわけで、「現役への未練」や「競技に間に合わなかった」人たちの未練たらたらの大会になっています。気持ちと加齢による頭脳、体力の減退という現実を受け入れずにいる。六十代で競技に目覚めて優秀な成績を修めた人が過酷なトレーニングが祟って廃人のようになってしまった例があります。これは衰えている体という現実とそれを受け入れない自分との乖離を自覚しないまま突っ走ったことの悲劇と言えるでしょう。ボーボワールの言葉を借りれば「老い=醜いもの」と若い頃に考えていて、いざ自分がその年齢になったときに「私は違う」という往生際の悪さが邪魔をして「老い」のイメージを描いてこなかったということ。
これは「中途障害者」にも言えて「障害を負う前の自分にきっと戻れる」という『幻想』に取り憑かれて現実を直視出来ず、障害の軽減を邪魔するのである。
この「老い」と「中途障害者」は自分の立っているところを否定していることが不幸な現実を招いているのである。現実に即した生き方を模索するほうがより現実では豊かな人生を送れるだろう。




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精神世界への誘い 「『障がいとは私のオプション』-寛解が全ての答えではない」

2022年08月06日 01時49分41秒 | うつせみの精神世界への誘い
最近、私がフォローしているTwitter界隈では「私が寛解した方法を教えます!」というようなあたかも『私と同じ方法をとれば全員寛解して幸せになれますよ』(ちょっと拡大解釈)。そんな書き込みが頻繁にあります。しかしそんな話しは無いわけで、これが寛解に至った人だけではなくてDr.や心理師さえも「100%請け合います」と解釈されても仕方のないような謳い文句を掲げていて、正直「詐欺師」と思ってしまいます。いま現在苦しんでいる方に対して失礼なように思います。だって、「安請け合い」の何物でもないのですから。
私自身「寛解に近いかな?」とは思うのですが、まだまだ生活に困りますし、正直「誰か助けを・・・」と思うことも少なくありません。おおかたの人は助けを呼べずに苦しんでいるのです。それは「申し訳ない」「迷惑になる」「自分なんて…」という自分を卑下する位置から動くことの出来ない方が多いからです。私はというと前職を離れてから社会資源と遠ざかってしまった感はあります。何年も「支援者」の立場であった者が、いざ自分が困ると社会資源に繋がれない。なんという皮肉…。同じ当事者の方に「ヘルパーさん入れないの?」といわれて方法がわからない私です。まぁ、サービスを受ける受けないは別にして、この「困っている日常」を謳歌している自分がいるのです。この「困っている日常」を抱えていながら当事者として支援も出来るし、コメントも出来る。これは「困っている私」だからできるのではないかと思います。今回右膝の手術をして思ったのは「あぁ、前に左足の甲を骨折した痛みも、いっぱい皮膚移植した苦しみもすっかり忘れている」とつくづく思い起こして、入院も後半に差し掛かって、不自由さ・痛みをやり過ごす方法・入院生活のコツなんかを思い出して「いまさら思い出したよ」と悔しがっていました。『達観』ではなくて「痛みや苦しみの中でもがいている自分」と「一歩下がって冷静に自分を見つめる自分」を両方持たなければいけなかったのですが「喉元過ぎれば熱さを忘れる」の故事に違わずすっかりと抜け落ちていたのです。ただただ苦しむ自分のみだったのです。ですから、克服した事に対して、過去の自分といま同じ痛み/苦しみの中にあるであろう隣人に対して「安易な助言」は禁物なのです。だって、いま助言しようとしている自分は過去の痛み/苦しみはもはや「Live(現在)」ではないのだから。助言・共感は慎重にしなければいけないが、この「無責任なSNS無責任発言時代」においては助言を受ける側が取捨選択しなければドンドン発言をやたらと受けるばかりです。ずーっと『デッドボール状態』です。この無責任に投げ込まれる発言を全て打ち返す必要は無くて「時にはスルー」というか「ずっとスルー」でも良いくらいです。なんならこのブログさえも「スルーしてもいいくらいです。すべては「自分の都合が最優先」です。
さまざまな先輩障害当事者でもその方と判で押したように同じ障害を抱えている人は皆無です。その立場に立って当事者としての、または障害を経験した人の立場として分をわきまえて支援/助言することが肝要でそうでなくては「無責任発言」この上ないのです。
決して「いまの障害・困難を克服してはならない」と言っているのではなくて、克服は大いに結構!しかし、克服した自分の軌跡は自分だけのものなので共用を強要しないこと。克服する努力はしつつ、もし克服出来ない自分がいたなら自分を否定しない、卑下しない「障害や困難は自分の人生のオプションという気持ちでいたいものです。ちょっとオプションを付けすぎたきらいはありますが…。少しの喜びと多くの困難、苦しみだと思いますが全てを平らげて生きて行きたい。
あくまでも理想、希望ですが





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