「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

うつせみ『貧乏艦隊』 「身体受難・・・短期決戦! 引越騒動」

2022年09月19日 22時00分44秒 | 『貧乏艦隊記!』
7月下旬に退院をしまして(※過去記事参照)、術後の痛みと日々の回復を喜ぶという悲喜交々の毎日を送っていたのですが、どうも毎日の「四階建ての四階エレベーター無し」は膝にオーバーワークで少ない残高とにらめっこして引越を決意したわけです。(ちょっと大げさ?)物件探しは8月に入る頃からネットで調べ始めて不動産屋で本格的に探し始めたのは8月下旬ごろ。9月半ばになると10月の転勤が本格的に部屋を探し始めるそうで、でも部屋の広さであったり、間取り、立地等で何日か掛けて物件を見てきて結構立地も良くて通勤にも便利、オーナーの焦りで家賃も値下げしていて好条件だったので決めました。移るには「引っ越し手配」が必要で前述の通り、引越シーズンだったのですがわらにさらに思うようにならない体ですので梱包作業もお願いしなけらばならず、さらにさらに良きにつけ悪しきにつけ『物持ち』の私は足の踏み場もないほど溢れかえっていたので梱包に来てくれたご婦人方も閉口されていました。(笑)
・・・さて、引越前にゴミ袋で十袋くらい捨てて引越に挑んだのですが荷物を移して、あらビックリ!「寝床」が無い…(~_~;) 初日は体をくの字にして寝ました(笑)引越疲れと台風接近の影響で体調は最悪でしたが自分にムチを入れてなんとか乗り切りました。今日9/19は出勤してから「12時に帰宅するように」とのお達しで帰ってきました。帰ってきてしばらくして、急にシンドクなって先ほどまで寝ておりました。今も万全ではありませんが…。まだまだ部屋の中は段ボールがスペースの7割を占めていて来週あたり「廃棄業者」にきてもらって、「断捨離」を敢行する予定です(大げさ)。
新環境は快適ですよ!



















読まずに死ねるか!(書評) 「『老い』著シモーヌ・ド・ボーヴォワールまだ読み始め 『老いは汚い]か?』」

2022年09月19日 21時18分17秒 | 読まずに死ねるか!(書籍紹介)
世間は年老いても社会的地位が高い者、「賢者」とのイメージがある年長者に「ああいうふうになりたいからマネをしよう」となったり、年長者が本を出すとベストセラーになることはそう珍しいことではない。
高齢者は「知恵者」であったり「暴走の抑止力」の役割を担っていた部分があるが、今や「今も若い高齢者」という自己矛盾を内包させて現実逃避して自らの老いをないものとするよう自己暗示に励んでいることに虚しさを感じないことは「恥知らず」のレッテルを貼られても致し方ないが、こういう考えの「若い高齢者」を礼賛する若者は少なくない。若者は「自分は歳をとらない」という一度は若い頃考えていて、そのまま考えが変わらない人や「自分の衰え」に気付いて『人は朽ちるもの』と気付く人もいる。
スフィンクスのなぞなぞ(ギリシャ神話より)フェキオン山の スフィンクス が通りかかる人間に問いかけたという「朝は四本足、昼は二本足、夕は三本足。. この生き物は何か?. 」というなぞなぞは世界的に有名である。
ご存じの方は多いと思いますが答えは「人・人間」であります。
赤ん坊の時は這い這いするので手足を使っているので「四本」
這い這いが終わり歩くようになると「二本」
年老いて杖を突くようになると「三本」
というわけですが、人間は時間の経過と共に変化していくものです。まっ、最近は「二本足から即ベッド」が多いのかも知れませんが、一時期「ぴんぴんコロリ」っていうのも流行りましたね。『逝くときは元気なときに』という矛盾ですよね、サプリや青汁なんか飲んで長らえる、長らえられるのかわかりませんが…。体が弱って正常に働かなくなると「こんなハズでは無かった」と思うのでしょうか?施設や病院に追いやられ自宅で死ぬことも許されず人生を終える。そんなことを子供の指示で行われる。本人の意思は抜きで・・・。

人間の「老いた人」への対処は民族の風習・風土によって大きく違うようです。本書では膨大な調査や資料で語られています。日本では何回かリメイクされた「楢山節考」は実際の風習を元に書かれたようです。このことも本書の中で取り上げられています。また、調査で明らかにされた少数民族の中では「老い(老人)」の存在は二分化されていて、「老いへの尊敬と畏怖」、「隆盛期を終えた廃物」(この表現は私が誇張しています)で「尊敬と畏怖」では老いてなお役割があり、かつ呪術的な力があるとされ、また子や孫から子孫繁栄をもたらしたという尊敬の念を持って亡くなるまで丁重な扱いを受ける。反対に「老い」を『役割を終えた者』『集団の中の厄介者』、『無駄な食い扶持』と認識される集団の中では、「自死」を求められたり、集団のことを考え、また先達の行いを見て自主的な「自死」をしたり、自ら家族から遠ざかって野垂れ死にしたり、食べ物も与えられず亡くなるようなことがあり、そのことを自分の身に置き換えると、少なくとも一日は頭から離れなくなりそうです。(笑)
(五十まえにして片付ける人の手間を考えて整理しようかな…)
自分が親や祖父母になると「自分のお陰でみんなここまでに成ったんだ」という『幻想』は現在の日本では捨てた方が良いようです。多くは前述したように病院→施設へ送り込まれそこで亡くなると言うのは「常識化」されているのですが、いざ我が身にそれがもたらされるとどう感じるのか?自分の親に対して終末期をどのような形で対応するのかで自分たちの子供達が自分が終末期になった時に反映されるのではないかと思います。

また次の中間発表に続きます。







うつせみ演芸の時間 「落語家に客への話しかけは必要か?」

2022年09月01日 19時20分10秒 | うつせみ「演芸の時間」
七代目 立川談志 『死神』

私は「立川談志 師匠」のCDを持っているのですが(若い頃の)、 当時「天才」といわれていたほどあって、大変「端正な芸風(ていねい)」ですごいなぁ~。と思いました。生の落語は2,3回は観ていますね。地方だったのですが、これまた「端正な落語」でした。おばちゃんたちへのサービス精神旺盛でしたが、その割には客が少なくて「価値の解らない地方」ということを思い知りましたが…。
今回の題名にあるように「客への話しかけ」なんですが、あくまでも『私感』dすが談志師匠は後年の落語に「ムラ」があって「気分屋」に見えました。まくらで客をいじったりするのは、まぁ良くないこととは言われますが、最近は許容範囲でしょう。しかし、話しに入ってからも中断して『脱線』してしまうのは私に理解を越えるものでした。正直、私にとっては「面白くない落語の形」でしかありませんでした。しかし、熱狂的な「談志ファン」は盲目的で『噺てくれればそれでOK!』という方が非常に多い。
ここでもうお一方、春風亭小朝師匠。この方は聞いていると非常に説明が目立つ。丁寧とおもっているのか噺の中で「小朝として語る」ことが非常に目立って不自然に感じます。自然に話すことが大事だと思うのですが、そこが強調されてはいけない。

ここでもう一方、十代目 桂文治師匠の落語を観ていただきましょう。
十代目 桂文治  『禁酒番屋』
途中の脱線も非常に自然に「軌道修正」していると思います。(贔屓目か?)やはり、「芸にムラが無い」ということが必要なんだと思います。

まっ、どの職業でもまた人間性でも言える事ですが。

まぁ~ず本日はこれきり_(._.)_





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