「うつせみ和尚」のお説教

『うつせみ和尚の日記』二件の事故が元で『(複雑性)PTSD/鬱』になって
闘病、障害当事者として活動している者です。

うつせみ和尚のお説教 「何度目かの『ペスト』の時代」

2020年04月22日 18時24分02秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
みなさま毎日繰り替えさえられる報道で現状はだいたい把握されていると思います。
こののんきなブログをみてどう思うのかな?
まぁ、いつものように好き勝手に書きます。ハイ

できるだけ、Facebook、Instagramなどの今では半公共性のような
反響があるようなSNSには、できるだけ、無責任?なことは書かないように
しておりますが、このブログでは勝手気ままに書かせていただきます(笑)

もう十数年前から「一億総評論家」なんて言われていましたが、
今は「一億総身勝手野放図」と言ってしまいたくなります。
首都圏では千葉にサーフィン、鎌倉に観光なんて身勝手放題なもんです。
そんなに好きなら、「人島観光・無人島観光」と称して島流しにしたらいいと思いますよ。
まったくもって、「対岸の火事」、「悪い島国根性」ですな。
感染者、潜伏感染者の事なんてそっちのけ、「自分は罹りません」なんて
本気で思っている連中です。ああいうのは感染しても野ざらしにしておいて
欲しいものです。(毒)

私が尊敬するチャップリンはそれぞれの作品の中で「隣人への関心」、
「隣人への愛」を訴えています。隣人への愛や隣人への関心があれば、
上記のような身勝手な行動はしないでしょうし、「俺は一人暮らしだから
何しようと自由」なんておバカな発想もわかないでしょう。
「アウトロー」だとでも思っているのでしょうか?
芸能人のわけわからない報道をするのならば、「国民的ルール違反」に
焦点を当ててやってみてもいいのではないかと思ったりして・・・。
チャップリン作品がお昼に放映されておりますので、是非ともご覧になってください。
本日は「殺人狂世界」です。私が中学生の時に初めて見たチャップリン作品で
最後の法廷の場面で大量殺人者役のチャップリンが名演説をします。

おっと、脱線...。
この新型コロナが隆盛期に差し掛かったときに(これからもあるかもしれませんが)
「スペイン風邪」や「ペスト」、「マラリア」、「天然痘」、「エイズ」、「エボラ出血熱」(カブっているのあるかな?)と
枚挙にいとまがありませんが、感染症専門家やにわか評論家などは
「幾多の困難に人類はさらされてきた。今回も事は甚大であるが必ず乗り越えられる」
なんて演説をぶっていましたが、今聞かれるのは専門家やにわか評論家の口から
ではなく、ささやかに希望の光を指す宗教家や芸能人です。題材にした「何度目かのペスト(この場では「伝染病」の代表としてあげています。)」は
確かに何度も越えてきた災禍ではあろうが、日に日に歯止めがきかず
増え続ける罹患者に怯えるばかりで、世界や時代を達観し、導くような人は
居なくなりました。「救済」という楽園が、一転「荒野」になってしまったこのようです。
「荒野」は倫理観の崩壊という一面も含有していて、マスク、消毒液、
トイレットペーパー、ティッシュなんか必要以上に買い込んで
「必要だから」というよりも「収集家」というべきかとも思ってしまいます。(嫌味)

さてさて、この大嵐どうなるのか?私が罹患するかもしれません。そして、私は命を
落とす可能性はあるでしょうが、だからといって人の責任にはしたくない。
「地球的間引き」くらいに思っていれば、自分がその対象になった程度で
TVの電源を切るように一個の生命体が「ブツ」になって転がっているだけの話です。
「私はやり残したことがあるのに!!」なんて嘆くことがあるかもしれませんが
それは立派なエゴです。私が「本の一冊でも出版してみたかった。」なんていう
心残りがありながら死のうとしている一方で、最先端を行く科学者が「あともう少しで『新型コロナ』の特効薬を開発できたのに!!」と思いながら死のうとしている。
私から言えば、「この二人の心残りは、大して変わらない。」ここで注意したいのは
私が思っている本の出版はどこにでもある一般書という前提ですが、
ここだけを見ると「お前の本の出版と新型コロナの特効薬が同列に並ぶはずがない」
という意見は当然出てきます。しかし、「人間の身勝手」でいえば同列に並ぶのでは
ないかと思います。正直、「何度ものコロナ」を多くの屍を乗り越えてしぶとく生き残ってきた
人類はこの期にいたっても生き残ろうと必死の努力です。

私自身は悲観的なわけではなくて、「人間の内にあるエゴと、どう帳尻を合わせていくか」
ということです。生き残りたい、いい家に住み続けたい、家族を持ちたい、お金持ちになりたい
楽をしたい、死にたくない、旅行に行きたい、人より高い地位に就きたい
もうキリがありませんが「欲の自己調整」をするようなことをしないと、哲学/倫理という
私が思う人間が生きていくうえで一番大事にしなければいけないものが
コロナ以前からお座なりにされてきて、今の混乱で反哲学/反倫理に拍車が
掛かっていて、まぁ醜い体を曝してますよね。

えっ、それあなた? 死んじゃいなさい!!(毒)

どなたかが言っていた言葉で忘れちゃいましたが
「混乱の時ほど、その人の本性が出る」と言われていましたが
今が混乱の時です。
思慮ある行動を望みます。



後記:人間って生き残らなければいけないような崇高な生き物なのだろうか?
   野蛮だから生き残るのでしょうな。






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読まずに死ねるか!(書評)「『乞胸(ごうむね)と江戸の大道芸』 髙柳金芳 著 柏書房」

2020年04月19日 01時32分16秒 | 読まずに死ねるか!(書籍紹介)
本書は被差別民でも「乞胸(ゴウムネ)」という職業に特化した書籍です。
「乞胸」というのは前に示したように、武士が武士階級から落剥して芸人に
成ったときの職業分です。と言うことは、「芸人」という身分はずいぶんに
下級であったことが解ります。
志ん生や志ん朝がマクラで「士農工商という身分がありまして、落語家なんていう
身分はなかったので、士農工商が通りを通っていた自分には芸人の行く道は
無かったので溝を這うほかしかなかった。」なんて言っていましたが、
それは「当たらずも遠からじ」というやつで、大道芸といって大通りで芸を披露して
いました。ですが、どこにでもある「縄張り」というやつで、それなりの届け出が必要
だったのです。「乞胸」身分であると、配下になって日々のたつきを稼がねば
ならず、時代が行くと配下から脱して、「歌舞伎役者」やさまざまな芸に
突出していくわけです。歌舞伎役者もそうですが、能・作庭など今で言えば
「人間国宝」に祀られる芸能の数々が配下から脱していったのです。


ここで私が言いたいのは、所詮人間の決めた「区別」という価値観は
陳腐なものに過ぎず、時代が行き過ぎれば、また重用されて浮き世といいましょうか
時代が決めた価値観によって浮きもすれば沈みもするという
至って軽薄なものなのです。いわんやあなた方が「自分は普通」という
一見現代社会では揺るがせない身分であっても時代が過ぎれば・・・
ということです。
今現在は、まさに身分という人間が決めた訳のわからないキメで
上下が決まっていますが数秒先、数分先には、「被差別身分」に陥っている
可能性は十二分にあります。くれぐれも背後、時代の隆盛にはお気をつけあれ。














うつせみ和尚の説教 「『緊急事態宣言』の夜に思う、災害時の差別行為」

2020年04月07日 21時31分08秒 | 「うつせみ和尚」のお説教
非常時は人間から理性を失わせる」※うつせみ和尚

東日本大震災の時には避難所から障害者は締め出しを喰らいました。
避難所である体育館の外、校庭、軒下、車中で寝たそうです。
「見えない障害」を抱えている人は避難所の中で自分の障害がバレることを避けて
黙って避難所を後にしたそうです。
復興が進んでも締め出した側の健常者はいつしかそのことを忘れてしまいますが
締め出された障害者の心は傷ついたままです。
今回の新型コロナ禍の世の中、富めるものは買い占めに走り、
生活弱者(障害者を含む)はマスク一つさえ買えずに疫病に見防備なまま
暮らさざるを得なくなっている。
さらに「非常時の差別」も徐々に進んできて、自宅に軟禁された人たちの鬱憤は
子どもや障害者のような抵抗できない人たちに向かっていく。
問題は風評・デマなどをどう裁くのか?判断するのか?
非常時に自分より弱者に対してどう接することができるのか?
そこで人間の値打ちが決まるような気がします。

いしだあゆみ - あなたならどうする

 


あなたなら、非常時にどうする?







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うつせみ 精神世界へのいざない 「医科大学へ『献体』の巻」

2020年04月06日 20時31分12秒 | うつせみの精神世界への誘い
先日、一通の封書が来まして内心「あぁ、また未払いの請求書かよ」と思ったのですが
封書を見ると督促状にあらず、これ京都府立医科大学からの封書。
私が京都に越してきて十年たった頃に以前献体の登録をしていた
金沢医科大学から現住所がある京都の大学はないかいな?と探しておりまして
医学系大学だと「京都大学」か「京都府立医科大学」なのですが、
(郊外には他にあるのかもしれませんが・・・)
京都大学はなんだか手続きが面倒で、京都府立医科大学へ申請して
平成30年に登録が成りました。
今回は再確認なのか、私がもう死ぬと思ったのか、確認の署名と捺印がいるようで
送ってきたのが今回の封書。
以前登録していた金沢医科大学では年に一度登録している方が一堂に集まって
最先端の医学の講演を聴いたり、親睦会、現役学生との交流などがあるのですが
国公立はお堅いので年に一度集まって、この一年間に願いが叶った(亡くなって献体した方)の
供養としてお寺にお参りだけ。
私学は弁当とどんなに遠くても交通費は出してくれました。
国公立は一切なし!!(ケチ)

閑話休題(⌒-⌒; )
京都府立医科大学ではお世話になっていないのですが、今まで私はケガで
よく医療にはお世話になってきましたので、お金があれば寄付でもしますが
お金はないのでこの身を奉仕しようと言うことです。
自身の亡骸には執着しないし、後の方に遺体があれば面倒をかけますのでね。
私に家族が居れば亡骸に関して家族の同意がいりますので
話し合わなければ成りませんが、私には兄と両親しかおらず、
嫁も子もおりませんので同意はほとんどいりません。
(兄や両親には同意してもらいましたが)
「虎は死んで皮を残し、人は死んで煙にしか成らない」てなもんです。
まぁ、良ければご参考にしてください。
なかなか家族の同意を得るのにみなさん苦労するようですよ。






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