エトルタにて。
翌る朝の十時ごろ主人は、皿を持つて苺を摘みについて来るやうにと、私にいつた。苺を摘みながら、彼は私に庭の土地が肥えてゐることを自慢したり、夏の旱魃時にはいろいろと苦労するといふことを語つたりした。といふのは夏には一日に二度、庭木に水をやらなければならないからである。主人は苺を摘むのが実に迅かつた。不断から彼は相当にこの練習を積んでゐたのである。
モーパッサン氏には少々奇癖がある、と炊事女は私に打明けた。しかしこの点を除けば、彼女にとつて、彼は実に好い主人であり、善良な青年であり、みんなから幼な名前で呼ばれてゐる田舎つ兒であつた。そのうへ彼は「竝びなき」水泳の名手であつた。彼は弟と従兄弟のル・ポアトヴァンと共に、西南岬をまはつて遠く沖合まで泳いだことがあつたが、その距離は往復で実に六粁に達した。
彼は人に会ふたびに、必ず愛想よく「今日は」と挨拶した。土地の人々の名前を、彼は悉く知つてゐた。そればかりか彼は非常に学問のある人で、今までにも幾冊かの本を著してゐる。今年は彼の出版屋が当地を訪れたが、この片田舎までわざわざやつて来るのは、多分主人の書いたものの売行きを確かめたくてであらう。
(『モーパッサンの思ひ出(Ⅰ)』 フランソア・タッサアル 大西忠雄譯)