美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

騎士道物語中で一番美しいもの(今井登志喜)

2019年06月01日 | 瓶詰の古本

 確かにセルヴァンテスはこのドン=キホーテという狂える老人が演ずる滑稽な騎士の行為をさまざまに諷刺することによって、没落しつつある古い時代(封建社会)に止めを刺そうとしたのであろう。当時は初期資本主義の勃興に伴う経済上の変動につれて、中世の封建社会に勢力を持っていた貴族階級、とりわけ騎士階級が崩壊没落の運命にあったのであるが、彼等の中には、新時代の現実に適応して行くこともせず、その能力もなく、徒らに昔の夢をなつかしみ、過ぎ去った社会、政治の制度や組織を回復維持しようと、時代錯誤的な空想に耽るものも少くはなかったのである。また人々の間にも、時代おくれの騎士道物語を耽読するものも多かった。従ってセルヴァンテス自身もその序文にしたためている。「この書は終始一貫、騎士道小説に対する嘲罵である。」と。
 かくて最初はドン=キホーテは専ら諷刺の眼で見られていたのであるが、作者の筆の進むうちに、読者が読んで行くうちに、主人公の滑稽な方面ばかりでなく、自ら悪と信ずるものと戦って身命を顧みないドン=キホーテの高貴な理想主義をしまいには笑えなくなってくるのである。たとえ時代錯誤で非常識ではあっても、真実と信じたことを実現するためには、あらゆる困苦に堪え、生命をもなげうち、常に理想に熱するこの純情と真情、若者の情熱と幻想を抱き、老人たることを自覚せず、最後に至るまで、周囲の現実には無関心な老騎士の心情、これらがひとにもたらす感動は、笑いと共に涙を誘うのではあるまいか。こゝに作者の意図がどうであろうと、ドン=キホーテという一性格が永遠の生命を得て立ち現れて来るのである。セルヴァンテスは騎士道を亡ぼすために、騎士道物語中で一番美しいもの、最後にして最大のものを書いてしまったのである。想像の湧き上るがままに、他人の悲しみや苦しみに同情するがままに、あらゆる眼前の現実を無視して無謀な行為を敢て行い、いささかもためらわぬ実行的性格。そしていかなる場合にも、底知れぬ程善良で楽天的な理想家。
 しかもこの物語が創造したのはドン=キホーテのみではない。従者サンチョ=パンザも他の一つの特異な性格であろう。彼は主人公と同じ村の百姓で、ドン=キホーテがやがて攻め取るべき島の太守にしてもらう約束で、旅に従うのだが、彼は知らず識らずの間に、その現実的で低俗な言葉で、ドン=キホーテの幻影をいつでも打ち壊してしまう。ドン=キホーテがいつも失敗しながらしかも永遠に希望を失わぬ理想家とすれば、サンチョはこの理想家を嘲笑し、これを利用しようと企てながら、却ってその善意にひきずられ、これを敬愛し、その駆使に甘んぜざるを得ない実際家を表わすものではあるまいか。
 かくてセルヴァンテスの天才は、その時代の潮流に棹さしながら、ドン=キホーテとサンチョ=パンザという永久に不滅の人間のタイプを創造したのである。最高の文芸作品が常にそうであるように。

(「世界史概説」 今井登志喜監修)

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