美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

バルザックの小説は家具さえもすばらしい夢を載せている(辰野隆)

2018年04月08日 | 瓶詰の古本

 仏蘭西の大作家は誰だと訊ねられたら、僕は先づラブレエとバルザックの名を挙げるに憚らぬだらう。勿論モリエエルも偉大である。ユウゴオと雖も偉大でなくはなからう。が然しモリエエルにしろ、ユウゴオにしろ、その偉大は断じて常識の埒外に出てゐない。ところが、ラブレエやバルザックの偉大は桁が外れてゐる。普通我々の仲間で大男で通つてゐる奴が出羽ヶ嶽と列んで見て、今更驚いたと云つた塩梅なのである。彼等の作品を読んでゆく中に、僕はいつでも、成程こいつは巨きいと思はざるを得なくなつて来る。試みにバルザックの小説――何でも手当り次第に一篇を撰んで――読んで見給へ。我々は何となく大洋に乗り出したやうな、大森林の中に踏みこんだやうな心持になつて来る。バルザックといふ世界に呑まれてしまうのだ。一般に批評的な読者の批評幕で作品を包むといふ習慣が何時しか忘却されて、却てバルザックの作から夏雲の如く湧き出す旺んな気息に、読者は十重二十重に囲繞されてしまうのである。そこが、バルザックの怪しく偉大な所なのだが、更に一つ、彼の異常な偉さは、彼の描いた人物は老若男女、貴賤貧富を問はず、悉く、在るが儘に置かれて而も英雄の相を帶びて来る事である。単に人間ばかりでない。動物も植物も、時には家具さへも豪傑だと思はせる場合がある。それは何も奈良の大仏が――これは固(もと)より家具ではないが――豪傑だといふ意味ではない。寧ろ傘(からかさ)が化けるところが偉いといふ意味でバルザックの家具は豪傑なのである。ボオドレエルも『家具が夢みる……』といふやうな事を言つてゐるが、バルザックの家具も亦すばらしい夢を載せてゐる。一度彼の筆に移されれば、ささやかな瓢箪からも駒を出し、寝室の小便壺と雖も、飛龍を吐く概がある。嘘と思ふなら、欺されたと思つてバルザックのものを読んで見るがいい。読者は必ず思ひ当ることがあるだらう。

(「續忘れ得ぬ人々」 辰野隆)

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