美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

「インテリ」は嫌われると分かっているのでそれを恥じ悪ぶって見せる有象無象はいくらでもいるが、金銭的成功こそ知力学力優越の証明だと陰に陽におごり高ぶる根性だから太宰治の魂とは永劫交錯しない(豐島與志雄)

2024年09月14日 | 瓶詰の古本

「‥‥この頃、教養人は、強くならなければならない、と私は思ふやうになつた。いはゆる車夫馬丁にたいしても、バカヤラウと言へるくらゐに、私はなりたいと思つてゐる。できるかどうか。ひとから先生と言はれただけでも、ひどく狼狽する私たち、そのことが、たゞ永遠の憧れに終るかも知れないが。――教養人といふものは、どうしてこんなに頼りないものなのだらう。ヴァイタリティーといふものがまつたく、全然ないのだもの。」
 これは、私の或る著書の解説として、太宰治が最近書いた文章の一節である。随つて、この私に関するものであるが、実は、太宰自身の感懐の一端だと、文意からして見られる。
 茲に言ふ教養人とは、知識豊かで作法正しい文化人の謂では勿論ない。或る種の躾けを身につけて、慎み深く、羞恥心強く、心ばえやさしく生れついた人のことだ。――さういふ風に生れついた人だと、私は太宰を観る。而も彼の生家は、旧家であり大家である。彼のうちには、古くからの血が凝集し淀んでゐたらう。その上、早くから健康を害し、麻薬にも親しんだ。体躯は頑丈で、しんが強かつたやうだが、最後まで肺の宿痾は癒えず、薬剤を離さなかつた。
 自分自身が頼りないのだ。文学をやりかけたからには、どうしてやりかけたかは神のみぞ知る、ひたむきにやり遂げるより外はない。捨身の途だ。彼は「新約書」を最も愛読し、どういふ風に読んだかは分らないが、捨身の心構へを知つてゐた。だが、生身の人間を取扱ふ文学にあつては、肉体を殺して魂を救ふことには、憂苦が伴ふ。憂苦の底から、人間としての愛情の手を彼は差伸べる。
 作家にとつては、その作品の一つ一つが、何等か永遠恒久なものを求むる魂の彷徨の、途上の足跡である。太宰のこの足跡には、彼が差伸べた愛情の手の、或は受諾がこめられてをり、或は拒否がこめられてゐる。多くは、受諾と拒否とが交錯し綯れ合つてゐる。一方的な端的な愛情表白を、彼は自ら恥ぢ照れて、その照れ隠しに、己が愛情を自ら踏みにじるやうな擬態さへも装ふ。そして痛快さうに嘯く。そこに彼の作品の道化た面貌が生ずる。
 作品は現実の転位の場に於て構成されるものであり、虚構の世界に実現する。そしてこの虚構の世界での、太宰の道化た面貌は、微妙な表現の綾を纒ふ。或はひらひらと舞ふ蝶の翼の如く、或は蜘蛛の糸を伝はる露の玉の如く、変転自在で不定着な美しさを持つ表現だ。
 この表現の綾をめくれば、太宰の愛情の指向が明瞭になる。純なもの、やさしいもの、無垢なもの、功利的に利用され得ないもの、つまり無償の美を、彼は愛する。意義づけること、価値づけることを、彼は常に避ける。たゞ美しく光つてゐること、それだけでよいではないか。意味を探す必要はない。だが、無償の美は、至つて脆く害はれ易い。それは身を以て護らねばならない。そしてこの愛情が強ければ強いほど、その反対物に対する憎悪も強い。さういふ愛憎の烈しさが、太宰の作品の底にひそむ。

(『太宰治の癇癪』 豐島與志雄)

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