美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

永井荷風先生の激賞を読んだ日(谷崎潤一郎)

2017年04月09日 | 瓶詰の古本

「三田文學」に「谷崎潤一郎氏の作品」(?)と題する永井先生の評論が載つたのは、多分明治四十三年の夏か秋だつた。永井荷風先生はその前の月の「スバル」か「三田文學」にも、私の「少年」を推挙する言葉を感想の中に一寸洩らしてをられたが、今度のは可なりの長文で、私のそれまでに発表した作品について懇切丁寧な批評をされ、而も最大級の讃辞を以て極力私を激賞されたものだつた。私は前に新聞の文芸欄の豫告を読み、それが掲載されることを知つてゐたので、雑誌が出るとすぐに近所の本屋へ駈け付けた。そして家へ帰る途々、神保町の電車通りを歩きながら読んだ。私は、雑誌を開けて持つてゐる両手の手頸が可笑しい程ブルブル顫へるのを如何ともすることが出来なかつた。あゝ、つい二三年前、助川の海岸で夢想しつゝあつたことが今や実現されたではないか。果して先生は認めて下すつた。矢張先生は私の知己だつた。私は胸が一杯になつた。足が地に着かなかつた。そして私を褒めちぎつてある文字に行き当ると、俄かに自分が九天の高さに登つた気がした。往来の人間が急に低く小さく見えた。私はその先生の文章が、もつともつと長ければいゝと思つた。直きに読めてしまふのが物足りなかつた。此の電車通りを何度も往つたり来たりして、一日読み続けてゐたかつた。私は先生が、一箇無名の青年の作物に対して大胆に、率直に、その所信を表白された知遇の恩に感謝する情も切であつたが、同時に私は、これで確実に文壇へ出られると思つた。今や此の一文がセンセーシヨンを捲き起して、文壇の彼方でも此方でも私と云ふものが問題になりつゝあるのを感じた。一朝にして自分の前途に坦々たる道が拓けたのを知つた。私は嬉しさに夢中で駈け出し、又歩調を緩めては読み耽つた。

 (「青春物語」 谷崎潤一郎)

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