美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

地道な古本病者は心底手に入れたい本の名を漫りに明かさない(本棚の至高形態はカオスであると知っている贔屓の古本屋は早晩店を畳む運命だから、店の名を明かさないも何も)(谷崎潤一郎)

2024年06月19日 | 瓶詰の古本

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たしか独逸人であつたと思ふが、或る旅行家の外国人の話に、日本で一番西洋かぶれのしてゐない地方、風俗習慣建築等に古い日本の美しいものが最も多く保存されてゐる地方は、北陸の某々方面であるといふ。さうしてその外国人は、日本へ来るとその地方へ旅することを楽しみにしてゐるのだが、それが何処であるかと云ふことを成るべく人に知らせないやうにしてゐる。彼は著述家であるけれども、決して著書の中にその地の名を挙げない。と云ふのは、一遍その土地が世間へ知れると、都会の客が我も我もと押しかけるやうになり、地元でもいろいろな宣伝や設備をやり出す結果、本来の特色が失はれてしまふことを恐れるからである。食通などにもよく此の外国人と同じやうな心がけの人があつて、うまいもの屋を発見してもなかなか友達に教へない。甚だ意地悪のやうだけれども、さう云ふ家は小体にチマヂマと商売をしてゐるうちがよいので、繁昌し出すと、直きに増築などをして外観が立派になる代りに、材料を落したり、料理の手を抜いたり、サーヴイスがぞんざいになつたりする。だから誰にも教へないで、こつそり自分だけ食べに行く方が、いつ迄も楽しむことが出来て、その家をスポイルすることがない。実は私も、旅行に関する限り右の外国人の心がけを学んでゐる一人であつて、自分の気に入つた土地とか旅館とかは、余程懇意な友達にでも尋ねられる場合の外は、めつたに人に吹聴をせず、文章などに書くことは禁物にしてゐる。これは寔に矛盾した話で、たまたま泊りあはせた宿が大そう居心地がよかつたり、待遇も親切なら宿泊料も低廉であつたりしながら、その割に繁昌してゐる様子もなく、世間に知れてゐないのを見ると、お礼心に大いに宣伝してやりたくなるのが人情であつて、自分の如き文筆を業とする者が、故意にそれを隠してゐたのでは、折角の心づくしが何の甲斐もないことになり、好意を仇で返すやうなものであるから、内心甚だ済まなく思ふ時もあるが、それでも私は此の方針を曲げないことにしてゐるのである。

(『旅のいろいろ』 谷崎潤一郎)

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