美濃屋商店〈瓶詰の古本日誌〉

呑んだくれの下郎ながら本を読めるというだけでも、古本に感謝せざるを得ない。

自然に賤しい物が無くなる(ゴーゴリ)

2015年06月23日 | 瓶詰の古本

   祝福を受けに傍(そば)へ寄つたとき、父のいふには、「倅や、私(わし)はお前を待てゐた。お前の生涯も最うこれで道が開(つ)いたといふものだが、お前の行く道は清い道だから、踏外さんやうにしなければならん。お前は画才がある、才といふものは神様の下すつた貴(たつと)いものだから、亡くなさんやうに、気を附けなさい。何を見ても、研究をして、総ての物を我筆に従へて、物の内に籠つた想を看出(みいだ)すやうにして、何よりも先づ創造の神秘を索(さぐ)らうと心掛けるが可(い)い。神様のお見出に預つて、創造の神秘を明めて見なさい、幸福なものだ!然うなると、自然に賤しい物が無くなる。創作の才のある美術家は果敢ないものを作つても、大したものを作つた時のやうに、矢張大きい所がある。其様(そん)な人が作るとなると賤しい物も賤しい所がなくなる。何故なれば其人を介して創造の妙旨が透いて見えて、賤しい物も其心に清められて、貴く現はれて来るからだ。人間のためには神様の、天上界の、楽園の影の射すのは美術だから、そればかりでも、美術は他のものより貴い訳だ。悠々として天を楽しむことは浮世に交つて齷齪してゐるより逈(はるか)に勝つてゐる。創作は破壊より逈(はるか)に貴い。天使は其曇らぬ心の清くて邪の無い所ばかりでも、悪魔が他力を恃んで、神を憚らず恣に振舞ふよりも何程難有いと思ふ、高尚な美術の作物は此の世の所有物(あらゆるもの)よりも何程(いくら)貴いか知れん。何も彼も美術に打込んで了つて、熱情を傾けて美術を愛するやうにしなさい-熱情と云つても、人欲の臭(くさみ)のあるのでは駄目だ。静穏(しんみり)した天上から来た熱情でなければ不可(いかん)。熱情がなければ人は此世を離れることが出来ぬ。人心を安める妙音を吐くことも出来ぬ。人の心を安めるため、和げるために美術上の逸品は此世に出るのだ。だから、それが人の心に不平の種を蒔く虞(きづかひ)はない。反つていつも朗かな祈りの声となつて神様の御側へ往かうとする勢を持つてゐるものだ。けれども、のう、厭な事がある……」と言淀んだが、其時父の面(かお)には一寸(ちよいと)雲が掛つたやうで、今まで晴れてゐたのが急に曇つた。で、いふには、「私(わし)も曾て出遇つたことがある。私が肖像を描いた彼(あ)の変な男はあれは何者だか、今に解らん。正しく何か魔物だと思ふが、世間では魔の有ることを認めんから、それはそれとして措いて、ただ私は厭々ながらその肖像を描いたのだ。描いてゐても、少しも気が乗らなかつた。無理に自分を圧へ附けやう、自分に在るものは何も彼も酷(むご)たらしく殺して置いて、只自然に従はうとばかり思つたのだ。だから、美術上の製作はなかなか出来なかつた。美術上の製作でないから、それを観て人の感ずる所も落着かぬ物騒がしい感じで、美術家の感じに通(かよ)ふ所がない。美術家といふものは騒がしい中でも静定(おちつき)といふものを失はんからなア。人の噂に聞けば、その肖像画は人手から人手に渉つて、美術家に嫉妬心(ねたみごころ)や、浅ましい僻みや、他(ひと)を虐げ苦めやうといふ悪念を起させて、毒を流してゐるさうだが、お前に如何(どう)か其様(そん)な心を起させたくないものだ。それが一番恐るべきものだ。露ほどでも人を窘(くるし)めるなら、寧(いつ)そ人に窘(くるし)められて所有(あらゆる)難儀をしたはうが遥か利(まし)だ。心の純潔だけは守るが可(い)い。天才の有る者は他(ひと)一倍純潔でなければならん。余の者なら大目に見て置かれることも随分あるが、天才の有る者は然うはいかん。曠(はれ)がましく礼服を着けて戸外(そと)へ出ると、僅ばかり車の余泥(はね)が掛つても、多勢(おほぜい)が環立(たか)つて、指さしをして、不体裁(みつともない)のを哂はうけれど、其処へ来合した、平服(ふだんぎ)の余の者が何程(どれほど)泥に塗(よご)れてゐても、それには目を注(と)める者がない。何故ならば、平服(ふだんぎ)では汚点(よごれ)が目立たぬからだ。」

(「肖像画」 ゴーゴリ 二葉亭四迷訳)

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