比叡山開闢
アナクシメネースたる最澄は埃及唐に学んで帰国した-留学僅かに二年-埃及天台の哲学宗教、凡て其精髄は之れを日本に持ち帰へり、唐たる埃及には、凡骨ばかり残つて居て、此方面の仏教は日本が中堅となつた。
最澄アナクシネメースは延暦二十四年日本へ帰つて、桓武天皇の命に由つて比叡山を草創することになつた。(比叡山草創は、諸書に延暦七年としてあるが、此時最澄まだ二十歳前後、修行未だ完いとも思へない。唐から帰り、仏学大成して、比叡山を創めたとするが正当のやうである。太平記に『延暦の末年』とあつて、帰朝の延暦二十四年後とした方が善いやうである。)
此の比叡山草創の事は日本の教学、哲学に取つては一大事件であるが、是れが希臘歴史にはオリンピツク・ゲームの始まりとして伝つて居り、日本には比叡山開闢として伝つて居て、決して小さな事件ではない。
希臘歴史に拠ると、オリンピツク・ゲームなるものは、ヘーラクレースが、其父ゼウスの神(智者大師)の紀念の為めに、大旅行から帰つて、其遊戯を起したと云ふてある。そしてヘラクレースは此後に研究するが、弘法大師に当るので、日本歴史に拠ると、実は弘法よりも最澄からオリンピツク・ゲームが始まつたのある。
クレオイボスと玄慧法印
希臘史に拠るとオリンピツク・ゲームは四年目に一度あつて、其れで年数を計るやうになつて居たのである。そして其第一のオリンピヤ祭に名誉の競技優勝者はクレオイボースKre-oi-bosなるものであつたとのことだが、是れが比叡山開闢の事を物語つて、武人等をやり込めた玄慧法印なるものゝことである。即ち、「玄」は黒、暮即ちクレで、「慧」はウエ、又たオイに当り、「法印」は法師、坊主で、ボースと対訳される。
此通り、本源的オリンピツクは日本(印度・日本)に存したものであるから、其太古の事を研究するには、是非とも日本仏教史を研究せねばならぬ。西洋希臘のエリスにあるオリンピヤの如きは後代になつて、出来たものに過ぎぬ。
(「世界思想の源泉 (一名)“希臘哲学は日本主義及び日本佛教史の西傳”」 木村鷹太郎)