か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

とんでもないことの後始末

2013年01月07日 | 社会・経済

原子炉を見学に行ったとき、はたしてこんなに頑丈なモノが壊れることがあるのかと思った。ところが今やまともに動いているモノはほとんどない。じゃあそんなにいい加減なモノを作ったのか。

そうではない。正常に稼働しているときはこれほど安価な発電システムはない。ただ原発はブレーキをはずしたフェラーリだ。いずれブレーキをかけて停止解体する日が来る。つまり日本は廃炉にする技術のないままフェラーリのセルをまわしてしまった。

運転中や廃炉にしたときの核廃棄物は、青森県に埋めるから大丈夫か。そんなに安全ならなぜ千葉県に埋めない。というとすぐゴマすり御用学者が出てきて地質がどうのと言いやがる。じゃあ京都府に埋めろ。舞鶴湾原発銀座から近いぞ。青森県の人はなぜ反対しなかったのかな。お金吊り上げるための形だけの反対をして、金額を見てころっと転んじゃったわけだ。

1000年保管するから大丈夫か。プルトニウムの半減期は24000年だ。1000年前は祖先がなにをしていたか分かる人は少ない。なにしろ鎌倉幕府の時代だ。ならば1000年後に責任を持てる人もいない。

こう述べてくると頭が弱いのは、それじゃあ国のエネルギーが足りなくなる、とのたまう。自分の頭が弱いから国の意見に同調し、ていちような意見を持っていることを示したいのかな。じつはそういうのが国は一番迷惑だ。核分裂型の原発に見切りをつけているのは当の国だ。

真の狙いはこうだ。20日に成立した原子力規制委員会設置法の付則に原子力基本法の改正が盛り込まれ「我が国の安全保障に資する」との目的が追加された。自民・公明が野合し「安全保障」の一句を入れた。つまり高い核開発能力を示しプルトニウム爆弾の製造能力をもって戦争の抑止力にしようというものだ。

そのためには原発は稼働していなければならない。みすぼらしい庶民の居間に原子力の電気が灯ろうとそうでなかろうと政府の関心事ではない。限界が見えたウランの埋蔵量になぜ執着するか考えるべきだ。

原子力基本法は原子力の憲法の役割を果たしてきた。自民・公明はこっそり附則をつけることでこの基本法の一角を壊した。

強国になろうとするあまり核武装の道を歩んではならない。戦後、冷戦の愚かしさを我々は身を持って学習した。核兵器は土人が我々と対等になろうとする最貧国の兵器と言われる。そういった結局共倒れになる兵器は狂った、失うもののない土人が持ちたがるものであり、核の被害国たる日本が志向すべき方向ではない。

犬を食う国が盛んに核開発をしている。だから我々も負けじと核開発すべきか。それは土人と同列に並んで殴り合いをすることだ。核開発競争は人間を60回も殺せる膨大な核兵器を作った。恐怖の競争だ。

そんなことに頼らずとも交渉はいくらでもでき、また思わぬほどの活路が開ける。戦前、近衛や広田によってせっかく交渉成立か、と思ったところで軍に委縮したとき日本はどうなったか。

Posted at 2012/06/22
 
 
 
 
 

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