か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

目達原基地の軍神  2

2013年01月30日 | 東洋歴史

帝国陸軍大刀洗飛行学校の分校として、昭和18年に目達原飛行場は稼働する。ただし、自殺攻撃のみを目的として。

一時的ではあるがおおもとの大刀洗飛行場は民間機も運行した。じっちゃんの友人は夏休みなどに帰省する時、この民間機を利用した。戦前に飛行機で帰省。朝鮮の金持ちは戦前から桁外れだ。僕が韓国に住んでいるとき大変可愛がってくれた。今はあの世だ。

小日本の貧乏陸軍はその自殺機にさえ事欠くありさまだった。複葉機が爆弾を抱えてヨタヨタ低速で近づいてきたとき、ヤンキーどもは撃つのを忘れて笑ったに違いない。

その自殺機の話は次回にするとして今回は自殺人間爆弾の話をする。カモがネギしょってやってくる。その鴨たるや20歳前後の子供だ。子供は言われれば何でもする。だから子供に無意味なことを「志願」させた。その張本人こそが反省すべきなのである。この絶望的な状況でも神風が吹いて日本は勝つと言いくるめたのが、狂った陸軍と腰ぬけ海軍と弱虫政府だった。

このときから15年ほど前、小日本の軍は、勝ち戦が続くときも同様に、ブレーキのないクルマのように気違いになって国民を叱咤した。

最初はどんな戦も勝ち戦が続く。不意打ちをすればだれでも勝つ。また戦争はそうでなければならない。しかし戦線というものは距離の二乗に正比例して長くなる。三乗に比例して警備地域は広がり、少なくとも四乗に比例して捕虜は増える。実はそれほど勝っていなかったのが上海事変である。

戦線を維持しようにもあったのは兵力だけで軍備は劣悪で且つ不足していた。宣撫(宣伝)工作はほとんどなく最初っからなかった民心はさらに離反した。捕虜に関して言えばバカでも分かる計算をだれもした形跡がない。主計兵はなにをしていたのか。たった1000人の捕虜でも一日3000食が必要だ。

だからここでも神風に吹いてもらわないと困ったことになった。弱い支那兵、強い皇軍、素直な支那人、よいことをしている帝国の陸軍兵、わるさばかりする19路軍。「暴支膺懲」だ。

帝国は日露戦争より多くの死者を出しながら、ことを小さく見せるため事変という言葉を使い国民をだました。第一次上海事変。

なかなか奇怪だ。19路軍がいるかと思えば国民党がいて新四軍の共産党がいる。一番遠い関係の者同士が手を組んだり離れたり、三国志を地で行っているのでとても面白い。

東夷の国が海を越え来た時、ただ一つ気がつかないことがあった。太陽の国はみんなの嫌われ者であったことだ。違うというなら支那に住め。支那人が歓迎するはずだぞ。

江下武二一等兵(戦死後二階級特進、佐賀県神埼郡蓮池)、北川丞一等兵(同、長崎県北松浦郡平戸)、作江伊之助(同、同、佐々)の三名が20キロの爆弾筒を抱え敵の鉄条網を破壊せんと突進した。自爆攻撃ではなく兵は爆弾筒を投げると同時に退避するよう訓練されている。

ところが誤って転んだりして退避する時間をなくした。原始的な導火線に火をつけて進む方式だ。転んだりした時間のミスなど無視して導火線は短くなる。20キロを抱えて退却はできない。体だけ退却しようものなら戦意不足で即銃殺される。

彼ら皇軍の勇士はいかなる行動をとるか。

現在の目達原基地につながる話です。面白くないのは十分わかります。僕は、二百万人の戦死者の代弁者がどこかにいなければならないと思うのです。ウソつきたちに勝手に戦争をねつ造させてはいけないのです。

なを、参考までに申しますと、かの大韓民国の兵の修身の教科書には爆弾十二勇士というのが載っております。十二人で爆弾を抱え赤軍の機関銃の前にヨタヨタ近づく姿は、ただのひき肉志願者だと言ったら、韓国兵たちは、「そうさ、分かりきったことさ。国は俺達をだまそうとしている。」ときわめて健全でした。

                                 写真は靖国神社レリーフ、爆弾三勇士
Posted at 2012/11/28

 

 

 

 


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