か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

ウソはしきりと絶叫する 50

2019年01月20日 | 韓国

<前回のつづき>

このような民主化と産業化の成功は、北朝鮮の民主化の不在、産業化の不在とのあいだに厳然たる対照をなす。北朝鮮に人権はあるのか、政府を批判する自由はあるのか、住民の生活はどうか。しかし、にもかかわらず、「成功した国家」の歴史は「成功した国家」と「失敗した国家」を同一のものとしてとらえ「成功した国家」の成功の評価に極めて否定的でありかえって矛盾と痛ましさをさらけ出している反面、「失敗した国家」には「社会主義の成長」に理解と同情を表明するならそそれは「まじめな史観」であるとか、そうでないなら「自虐史観」であるとか…それは事実にすら忠実ではなかった歪曲した歴史観であり「マゾ史観」であるほかない。民主化を成し遂げ貧困をある程度解決し世界的な韓国企業が浮上しているのも「事実」であり「現実」であるはずだ。産業化と民主化で大韓民国こそが事実成功した国家であり北朝鮮が失敗した国家であるということも「現実」であり「事実」ではなかろうか。


「失敗した国家」に民族的正統性を与え「成功した国家」に民族的正統性を認めないのは民主主義の観点から見ても「変則民主主義」でないにしても少なくとも「健康な民主主義」ではない。バランスを欠いた民主主義をいかにして「健康な民主主義」といえようか。民族共同体の存続と発展を目指すところに定めたならば、民族の病的な部分よりは良好で良質な部分を評価しこれを中心に民族の活力を求めていく努力をしなければならない。もしや病的な部分に希望をかけ民族の活路を求めるなら時代錯誤であるのみならず徒労というものになろう。


Ⅴ    なぜ歴史教科書を書き換えなければならないか

              ソウル大教授の見解  パクヒョージュン教授

『独立60年の「事実主義」と「教科書改正」運動』時代朝鮮(2005 春)通巻28号

 

どんなに「歴史を叙述する」ということがアカデミズムの結晶であるとはいっても「歴史を叙述する」には事実を確認することが厳粛に行われていなければならない。「事実」が歪曲されて「実証主義」が抜け落ちた表層の「歴史叙述」こそ「耐えられない存在の軽さ」ではないか。とくに中高生が学ぶ教科書ではこの厳粛さがいっそう強調されなければならない。大韓民国の未来の世代はいつまで「罪深き国に生まれた」と原罪意識を教室でスポンジのように吸い込まなければならないのか。歴史というのは正しくしたり書き直したりする必要はない。歴史とは我々が生きてきた生き様の足跡であるからだ。しかし間違った歴史観は正さなければならない。この場合、初めて大韓民国の育つ世代の政治性が立派に打ち立てられるだろう。

 

まさにこれが<教科書フォーラム>が始まった理由だ。歴史を作り直すのではなく正しく書くことで中高校の教育現場を正し未来世代を正しく導こうという切迫感が我々を団結させた。青少年たちこそ大韓民国の希望だ。<教科書フォーラム>は大韓民国の過去を美化したりはしないが、卑下したりもしない。当然右にも左のも偏らない。ただありのままをわれらが苛烈な世界を生きてきた過去を澄んだ鏡に映し出すように書いていこうと思う。「事実求是」こそ<教科書フォーラム>が希求するものであり教科書哲学である。

 

<教科書フォーラム>は韓国の近現代史とそれに関連する各種教科書を分析批判して対案を提示しつつ事実を追求する学徒としての誠実性と厳粛性と謙虚さを堅持するのに最善を尽くすつもりだ。この過程で論争と討論も遠ざけるつもりはない。言論と文筆で、講演と本で、また対案となる教科書を執筆することで、一般図書を発刊することで、間違って記された教科書を正そうと思う。またまともな教科書内容を広めようとするのにあたり渾身の力を込めようと思う。小さいスタートではあるが正しいスタートであると信じ結実を見るその日まで努力を続けようと思う「ミネルバの梟(ふくろう)」のように黄昏に飛び立つのだがひるまず飛び立つつもりだ。

 

 

次回用メモ

http://yeoksa.blog.fc2.com/blog-category-63.html 전상인 서울대교수 から

 

                  

 

 


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