花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

シエナ大聖堂「ピッコローミニ図書館」。

2022-07-26 00:34:44 | 西洋絵画

ラファエッロが《三美神》を描くにあたり、直接に着想を得たかもしれない「ピッコローミニ図書館」の《三美神》群像彫刻の写真を、懐かしくも掘り返してみた

「ピッコローミニ図書館」は、1492年にシエナの大司教フランチェスコ・トデスキーニ・ピッコローミニ枢機卿(後の教皇ピウス3世)によって、叔父の教皇ピウス2世が収集した豊かな蔵書遺産を保存するために建てられた。

そこに設置されたのが、ピッコローミニ枢機卿が所有していた《三美神》彫刻である。オリジナルはヘレニズム期(紀元前4-2世紀)であるが、古代ローマ時代にコピーされた作品である。

「ピッコローミニ図書館」では、1502年から1507年頃に、ピントゥリッキオと助手たちによってフレスコ画が描かれ、その助手たちの中にはボローニャのアミーコ・アスペルティーニや若きラファエッロ・サンツィオもいた。

手前左がラファエッロ、その隣がピントリッキオ。ラファエッロの視線の先に《三美神》がいるような気もする

ちなみに、ラファエッロと共に助手を務めたアミーコ・アスペルティーニ(Amico Aspertini)もなかなかに興味深い画家である。2008年のボローニャ国立絵画館での展覧会「 Amico Aspertini (1475-1552)」を観たが、折衷的な画風が奇妙で面白くもあり、不思議に印象に残る画家だった。

ご参考:https://www.exibart.com/bologna/fino-al-26-i-2009-amico-aspertini-bologna-pinacoteca-nazionale/



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4 コメント

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むろさんさん (花耀亭)
2022-08-06 01:53:23
ピントリッキオについて色々と調べていただき、ありがとうございました!! ヴァザーリの列伝の影響って大きいですね(^^;
美術家列伝はフィレンツェ(トスカーナ)芸術の優位性を示すためのストーリーですから、ウンブリア派は立場が弱いかも(汗)。でも、ピントリッキオは多分ペルジーノからフィレンツェ情報は得ていたと思われるし、それなりに勉強はしていたような気がします。
ちなみに、私がピントリッキオを、意外に良いかも💛と見直した(?)のはローマの聖ポポロ教会《幼児キリストの礼拝》(1490年頃)でした(;'∀')
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:SMPopPinturicchio.jpg
https://blog.goo.ne.jp/kal1123/e/3b1e8b73bddc79644940d2935dc4d777

で、石鍋先生の本は8/29発売予定になったのですね!貴重な情報をありがとうございます!!期待が膨らみますね(^^)
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ピントリッキオのこと(ついでに石鍋氏の本も) (むろさん)
2022-08-04 00:16:07
ピントリッキオについては、ローマやシエナ、スポレートなどでいくつかの作品を見ているのですが、今まであまり深く考えてこなかったので、この機会に資料を見直して何故評価が低いのか等を考えてみました。

結論としては、①ヴァザーリがペルジーノをはじめウンブリア地方の画家を評価していないこと、②金やラピスラズリ、盛り上げ彩色などの多用がレオナルド・ダ・ヴィンチやヴァザーリに絵画の本質から外れていると見なされたこと、③ピントリッキオはフィレンツェを訪れたことがないため、1500年頃の絵画の動向を無視したような上記の手法になっていること などが考えられます。

①については、ヴァザーリは列伝の1550年版を出した後に初めてペルージアなどのウンブリア地方を二度訪れてカンビオなどを見ているため、1568年版ではペルジーノとピントリッキオの評価も多少は改善しているそうです。

②については、ヴァザーリの列伝では、ピントリッキオがカネに汚いことと金や盛り上げ装飾を多用していることを述べていますが、レオナルドも名指しはしていませんが、「金やラピスラズリの美しさに隠れて生きざるをえない一群の画家がいる」「この愚かな人々を見るがいい」(パリ手稿A、1492頃、レオナルド・ダ・ヴィンチ絵画の書 岩波2014)と述べていて、ケネス・クラークによればこれはピントリッキオのことを指しているそうです(レオナルド・ダ・ヴィンチ 芸術家としての発展の物語 法政大学出版局2013)。ヴァザーリの列伝はどこまでが事実かを慎重に判断することが必要ですが、ヴァチカンのボルジアの間などの作品を見た限りでは、金や盛り上げ装飾のことは事実だと思います(カネに汚い話については絵の印象からの作り話のようです)。なお、ペルジーノについても「強欲画家ペルジーノの優美」「商魂たくましいペルジーノ」(芸術新潮2004年6月号ペルジーノ回顧展紹介記事)といった言葉が使われているので、事実かどうかは別として、ヴァザーリの列伝の影響は大きいようです。

③については、ピントリッキオはローマやウンブリア地方の各地で仕事をした後、晩年はシエナのピッコローミニ図書館の仕事でシエナに住んでいますが、フィレンツェでは一度も仕事をしていないようです。これがフィレンツェという先進的で競争の激しい美術界の動向とはかけ離れた作品を作り続けた原因の一端と考えます。ただし、タブローの聖母子画ではトンド形式というフィレンツェ特有の形を採用したり、レオナルドのブノワの聖母の影響を受けているようで、フィレンツェ派の動向にも一定の注意はしていたようです(永井裕子 ピントリッキオの円形聖母子画におけるフィレンツェ芸術伝統の受容 美術史182号2017)。

ローマでは1481年からのシスティーナ礼拝堂壁画装飾でペルジーノの助手を勤めた後に、1482~84年にサンタマリア・イン・アラチェリ教会のブファリーニ礼拝堂壁画を手掛けていますが、(フランチェスコ会とドメニコ会の対立構造もあり)その後の1489年頃にフィリッピーノ・リッピにより描かれたサンタマリア・ソプラ・ミネルヴァ教会のカラファ礼拝堂壁画と好対照を示すそうで、ペルジーノ、ボッティチェリ、ギルランダイオらによるシスティーナ礼拝堂側壁の装飾以降、この二人がこういった大規模な壁画装飾を行うのにふさわしい画家として評価されていたことを示す出来事だと思います(ヴァザーリがピントリッキオを酷評していても、これが1480~90年代頃の適正な評価だと思うし、その後のシエナでのピッコローミニ図書館の仕事にもつながっていくと思います―作品の出来というだけではなく、ブファリーニ礼拝堂がフランチェスコ会の聖人シエナのベルナルディーノに捧げられていることも関係した?)。
(荒木文果 ブファリーニ礼拝堂装飾壁画研究 ローマ、サンタ・マリア・イン・アラチェリ教会におけるシエナの聖ベルナルディーノの称揚について 九州芸術学会デアルテ27号2011及び下記URL)
https://www.bijutsushi.jp/c-zenkokutaikai/pdf-files/11-5-21-pm-2-2_araki.pdf

ついでに、石鍋真澄著「カラヴァッジョ ほんとうはどんな画家だったのか」の発売時期ですが、さらに延びてAmazonによれば8/29となっています。ページが増えた分、値段もアップ。目次も出ていますので内容が推定できます。事前に聞いていた通り、ロンバルディア時代に1章を取っていて、さらにローマ時代で3章、南イタリアとマルタへの逃亡時代は1章のみで、このへんは宮下氏の著書にまかせるということなのでしょう。付録資料のガスパレ・チェーリオの「カラヴァッジョ伝」とカラヴァッジョの家財目録は日本語訳では初めてだと思います。作品一覧もあるので、初期作品の編年も書かれていると期待しています。
https://www.heibonsha.co.jp/book/index.php?book_no=607005&changeview=pc
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山科さん (花耀亭)
2022-07-26 23:59:24
シエナは私も再訪したい都市です。でも、何を食べたのか思い出せませんが(;'∀')
で、美しい図書館を見ていると、確かにムーセイオン以来の伝統のように思われますね。それに、昔は本自体が美術品のような写本が多かったですしね。
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シエナ (山科)
2022-07-26 06:33:33
「ピッコローミニ図書館」の写真ありがとうございました。また、シエナにいきたいなあ。チーズがおいしかったし。しかし、ヨーロッパでは「図書館」といっても、美術館をかねているようなところが多いのは、アレクサンドリアのムーセイオン以来の伝統ですかね。
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