花耀亭日記

何でもありの気まぐれ日記

東京国立博物館「対決 巨匠たちの日本美術」

2008-07-21 14:47:42 | 展覧会
先週、東京国立博物館で「対決 巨匠たちの日本美術」「六波羅蜜寺の仏像」「フランスが夢見た日本―陶器に写した北斎、広重」を観てきた。今回もチケットを頂いたokiさんに感謝!

東博で朝から晩まで過ごしたのは初めてかもしれない。足が本調子で無いのでずっと立っていると辛くなる。レストランで食事し、日差しを避けながらアジアン・カフェでぼーっとする。定朝の地蔵菩薩はなんて美しいのだろう?などと、観たばかりの作品の数々が脳裏に蘇る。いつも急ぐように帰ってしまうが、こんな過ごし方もたまには良いものだね。

さて、「対決 巨匠たちの日本美術」はどの対決も興味深く面白かったが、そのなかでも特に楽しみにしていた対決があった。「長次郎 対 光悦」。

     
「黒楽茶碗 銘 俊寛」長次郎      「黒楽茶碗 銘 時雨」本阿弥光悦

無駄なものをそぎ落とした長次郎茶碗の簡素な佇まいは光悦の洗練された美意識とはやはり対照的であった。この対決に甲乙付けがたくも、煌めく巨匠たちの中にぽつねんと寡黙な長次郎茶碗がなにやら愛おしい。たとえ、現代人が利休の「職人」として捉えようと、茶碗に残る指跡からは小さな器から大きな宇宙へと向う作家の魂が見えてくる。

対する光悦の美の世界は豊かだ。サンリツ服部美術館で観た白楽「不二山」の姿は今でも鮮烈な印象を残している。利休の「冷・凍・寂・枯」の世界を体現し、今焼き普及という使命を担った長次郎と違い、光悦は京に培われた美を体現するアート・ディレクターとしての多彩な活動の傍ら、悠々と興の趣くまま作陶を楽しんでいる。

今回の展示でも、長次郎が口部分を内に滑らかに用の美を追求する時、光悦は「時雨」や「七里」に見るような、ヘラで削りながら自身の造形を追及して行く。「時雨」の釉薬を掛け残し荒い地の出現する景色の妙の作為…。長次郎が「無一物」で無作為(渦巻き兜布は別として)に徹した姿とは異なる。

     
「赤楽茶碗 銘 加賀光悦」本阿弥光悦   「赤楽茶碗 銘 無一物」長次郎

長次郎と光悦の対決は、二人の美意識が凝縮した小さな樂茶碗から、それぞれの向かう世界の違いを再認識させてくれた面白い対決だったと言える。

蛇足だが、長次郎の全てを吸い込むような黒にベラスケスの黒を見、当代樂吉左衛門の焼貫茶碗に走る黒にベラスケスの黒を見るのは私の気の迷いだろうか?