遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『光圀伝』 冲方 丁  角川書店

2013-06-23 11:34:00 | レビュー
 書名が示す通り、水戸徳川家、頼房の三男として生まれ世継ぎとなった光圀の伝記小説である。世に水戸黄門として知られる人物だが、映画やテレビでシリーズものになった黄門様は実像とはほど遠い創作のようである。小説仕立てとは言いながら、私は本書で水戸徳川光圀がどういう人物だったのか、やっと知った次第である。史実に基づきながら、作者の想像力が奔放に羽ばたいた作品ではないかとは思う。751ページという長編だが、一気に最後まで飽きさせずに読ませてしまう。読み応えがある。

 まず本書の構成が面白い。2つの軸が並行して進みながら絡み合っていく。一つの軸は「明窓浄机」という見出しで、水戸の西山に隠居した光圀が己の思念を独白していく形式で語り継がれていく。もう一つの軸は、「天の章」「地の章」「人の章」という見出しの連なりでストーリーが展開する。7歳になった光圀(字は子龍)が父の指示で、父・頼房が手討ちにした能役者・永野九十郎(脱藩した元家臣)の首を、馬場から引きずりながら父の許へ持ち帰るというシーンから「天の章」が始まる。そして、地、人の章に引き継がれて、光圀が西山へ隠居するに至るまでを人生の時間軸で描き出して行く。この2軸は、本文では違うフォントで書き綴られていく。光圀の生き様の変転、行動の展開が、己の為したことを回想し再検証するという時間軸を逆行する語りと絡まりあっていくのである。

 さらにこの2軸は、起点として観点の違うテーマを基盤に話が進行する。それらが必然的に接点を見出し、結合していくのだ。
 「明窓浄机」の最初に、光圀がその生涯で隠居するまでに48人の命を殺めたとある。そして西山に隠居して後、さらに1人、49人目の男を光圀の信義により、自ら粛粛と殺めざるを得なかったという。「書は”如在”である。・・・・もういない者たち、存在しないものごとを、あたかもそこにあるかのごとく扱い、綴ることをいう」と作者は光圀に語らせる。「大義なり。紋太夫」と優しく囁きかけて、膝下に捕らえた家老たる男を特異なやり方で刺殺するのだ。このとき光圀67歳だった。なぜ、この49人目の男を殺めたのか。そのなぜを自ら再確認、検証していくという展開になる。なぜ、自らがその将来を嘱望し、家老にまで取り立てた男を殺めたのかの謎解きである。そこに、読者を引きこむ大きな動因がある。そして、この特異な刺殺法を光國は、若い頃、宮本武蔵から膝下に押さえつけられて、体験しているのだ。この体験に至る経緯は、「天の章」で語られる。光國と武蔵が交差した機会があったとは・・・初めて知った。
 一方、「天の章」は、「なぜ、己が世子なのか」という疑問・自問に対して、その答えを見出したいという思いがベースにあって、光圀の生き様が展開する。幼少で疱瘡を患い病弱であったというものの、光國には母を同じくする実の兄が健在でいるのだ。その兄を差し置いて、第三子の光國が世子にされた。そこから光國の懊悩が始まるのである。9歳のとき、子龍は江戸城中において元服し、三代将軍家光の「光」の一字をいただき、「光國」という諱を得る。その「光國」が「光圀」と改名するに至る転機にも大きな意味があることを本書で知った。
 この2つのなぜ? というテーマがこの伝記小説に一種、推理小説風の趣きを持たせる。それを読者に意識させながら、ストーリーが展開し、両者が結合していくところに、本書を読む面白さがある。

 光國の生き様について、時間軸でのエピソードあるいは光國を特徴づけている行動事象を抽出してみよう。その具体的な描写と展開の面白さ、興味深さは、本書で楽しんでいただくとよい。それらが統合され、渾然一体となり、光圀となるのだ。

*12歳の時、死病である疱瘡に罹る。実兄も幼少時に疱瘡を患っている。兄との関わりがそのことで一層深まる。
*疱瘡から快癒してしばらくしたころ、”寛永の大飢饉”前夜という時期である。父に従い浅草川(隅田川)の”内三ツまた”と呼ばれる岸辺に行く。餓死者・病死者の死体が絶え間なく流れる川を「我が子ならば泳げる」と父の断言で泳ぐ。父・頼房も泳ぐ。
*17歳の時から自由な外出を許される。血気の日々の中に突っ込んで行く。”奇の字の付く暴れ馬”、傾奇者(かぶきもの)の行動に走る。「江戸という都市が、光國を沸騰させた」(p79)のだ。谷”助左衛門”左馬之助と称して遊蕩の世界にも入り込む。
*悪仲間にはめられて、無宿人を試し斬りする羽目になる。だが、それが晩年の宮本武蔵との偶然の出会いにもなる。それが沢庵宗彭と面識を持ち、殺めた町人の供養という名のもとに、光國が鍛えられるきっかけになっていく。また、それは山鹿素行との交わりができる契機でもある。浪人山鹿素行は光國の生涯の知友の一人になっていく。
*徳川幕府も三代、泰平の世に入っている。もはや戦場で天下を取る時代ではない。内心の気概がそこにあっても、現実の世は異なる。光國は<詩で天下を取る>ということを内心の目標にし始める。試し斬りの場から逃げたとき、紛失した習作の手帖に、武蔵から朱筆で添削されたというから、面白い。
*日本が泰平の世を迎えた頃、中国大陸の明国は勃興してきた清に脅かされ危機に瀕する。明が日本に義援を求めてきたという。光國の血が騒ぐ。叔父・尾張徳川義直との繋がりが父の命を介してできはじめる。本心は義援し戦をしたいと思う義直なのだが、「戦など起こりはせん」と言下に断言する。義直は自ら史書編纂事業を起こしていた。光國にこの事業に加われと薦める。光國はこれを固辞する。しかし、光國が後年史書編纂事業に自ら乗り出した淵源がここにあったのだ。光國に参画を呼びかけた義直は事業を成就できずに没してしまう。このころ、武蔵が光國にネズミを飼ってみろと助言する。実際に試す場を設けてやるのは、試し斬りの一件を打ち明けられた実兄である。このネズミの飼育観察がこの兄弟に大きなインパクトを与える。この頃、実兄は水戸徳川家を出て、松平”讃岐守”頼重と名乗り、讃岐高松12万石の藩主になっている。
*あるとき、光國は居酒屋で頭巾坊主を論破する。これがきっかけで幾人もの坊主がこの居酒屋で光國に論争を挑む。9人目の時に、坊主頭の先客が光國に挑むはずの坊主を既に論破していた。そこでこの僧服を着た隻眼の優男と光國が論争することになる。この優男、実は儒者だった。後ほど、徳川義直を介して、光國は林羅山の講義聴講に同席することになる。そして、この優男が林家の四男、林守勝、号は読耕斎だと知る。この読耕斎との関係が、生涯深まっていくことになる。
 光國が隠居した西山は、読耕斎が薦めた名称である。西山とは伯叔が隠れたという首陽山の異名なのだ。光國と読耕斎は「義」について伯仲の論議をする間柄となっていく。
*林羅山の講義聴講がきっかけで、光國の詩が羅山の添削を受けることになる。また、読耕斎との会話から光國は己の詩を藤原惺窩の子息、細野為景に贈ることになる。そこから光國の名が京の高貴に伝わっていく。細野為景は、いったん血が絶えた下冷泉家を再興する人である。為景との親交が深まっていく。それは詩で天下を取る夢を抱いた光國の足がかりになるのだが、逆にそこから詩の道の遙けさを実感していくことにもなる。
 「詩が全てだった」(p268)と光國が感じ、為景に詩を送り返歌を得たのは、19歳のときである。20歳になる節目から、光國は毎年元旦詩を書く習慣になったのだとか。
 光國25歳のとき、朝廷使節団の一員として江戸に下向した冷泉為景と生涯に一度となる対面をしたそうだ。そこで、為景から後水尾院が詩作したという文字鎖、”蜘蛛手の歌”を伝えられる。光國はその詩作力に驚嘆し、畏敬の念を覚える。そこに詩のきわみを見るのだ。「亡き徳川家康が、時代の激変において政治的な神になろうとしているこのとき、後水尾上皇は、文化文芸の神として生き、朝廷の精神的支柱になろうとしていたのである」(p288)と作者は記す。
*光國は、叔父徳川義直から己の出生の秘密を明かされる。それは、父・頼房の生き様を表すものでもあった。この語りの箇所が興味深い。これが作者の想像力のはばたきなのか。確実な史実であるのか。おもしろいところである。[地の章(一)]
 義直は光國に「わしが知るのは、これだけだ」と語り、ふた月後に世を去る。
 そして、義直の死が光國を史書編纂の意義に導いていく。
*光國は、玉井助之進という下級武士の娘・弥智との間に初めての子を成す。だが、その子を水にせよと傅役の伊藤玄蕃に命ずる。そう命じる光國には、内奥に秘めた義への謀があったのだ。しかし、玄蕃の裁量で、弥智とその身籠もった子の問題は、実兄・松平頼重に託すことになる。これが将来、思わぬ形に展開していく。この辺りは光國の「義」への懊悩と絡み合いながら、読者を引きこみ、読み応えのあるところとなっていく。
*光國は、近衛家から江戸に下向してきた17歳の泰姫と、承応3年(1654)4月14日に婚儀をとり行い、妻に迎え入れることになる。この年、光國27歳である。光國は最初に己の不義について泰姫に語るのだ。おもしろい展開である。泰姫という人の不思議さが鮮やかに描かれている。光國は、泰姫から「私はただ、正直でありたいだけなのです」(p394)という信念の有り様を学んでいく。泰姫が病を得て亡くなるのが万治元年(1658)12月、21歳だった。泰姫との間に子は成さなかった。
 この泰姫の付き人として水戸家に入ってきた左近という女性。光國の生涯において、己の本心を語れる身近な唯一の存在となっていく。光國にとっては、光國の思い、懊悩の吐露に対して、精神的な受け皿になった女性として描かれている。ここは作者の創作なのだろうか。それとも・・・・興味深いところである。
*光國が史書編纂事業に乗り出すのは、江戸の大火の後、火から逃れて移り住んだ駒込の水戸藩邸に書楼「火事小屋御殿」を完成させてからのようだ。明暦3年(1657)8月である。読耕斎が光國に”史局”と喩えた事業の始まりが、やがて拡大されていく。史書編纂活動の梃子入れのために、朱舜水が長崎から招請されてくる。この朱舜水は史書編纂に留まらず、領国経営において、光國に様々な助言を与える恩師という存在になっていく。史書編纂の組織が脱皮し成長していく基となる。だが、この事業、あくまで光國が創始し、史書編纂の一段階としての成果をまとめる。光圀の感慨は深い。そしてその後営々と歴代藩主に引き継がれていく事業となったのだ。それが水戸学の核となっていくのだろう。結果的に、光國の播いた種が、尊皇攘夷の一原動力になり、天皇親政をもたらすことに繋がって行ったのだ。光國が生きていたとすると、この事実をどう評価したことだろう。本書読後にはそんな事に思いが馳せる。
*光國が頼房の遺領水戸藩28万石を継ぐ旨の将軍台命を拝受するのが寛文元年(1661)8月19日である。水戸藩二代目となる。最初にしたことが、弟たちに一部領地を割って分与し、御三家として面目を保てるぎりぎりの石高、25万石を下回る程度にしたことだったようだ。
*36歳の夏、光國は、念願の水戸入りを果たす。しかし、それは己の意図や予想と現実のギャップを体験する場でもあった。ここから光國が己の信条、思念に合う領国経営を実質的に始める契機となる。だが、それはある意味で苦難を伴う長い道のりとなる。水戸藩の特産品として、西ノ内紙などと呼ばれ、全国に売られる製品に結実するのは、二十年余を経た元禄元年(1688)として描かれていく。
*第5代将軍綱吉は、世に有名な生類憐憫令を発する。これに対して、光國の取った行動がエピソードとして描かれている。実に面白い。
*水戸藩を第3代藩主として綱條に引継ぎ、既に光圀と改名していた時点で水戸の封地に戻る。それは、隠逸の志と大義成就の祝意を心に抱いての帰還だった。しかし、光圀は単に隠居した訳ではないようだ。西山に隠居してから、水戸に彰考館を造っている。
*だが、最後に光圀が己の義からなし遂げねばならぬと決断したのが、自ら家老に引き立て、第三代藩主綱條の強力な補佐役になることを願っていた藤井紋太夫徳昭を殺めることだった。徳川幕府も第5代将軍の下で、その官僚が主体に経世を行う泰平の世である。その認識を前提とした、義の信念との相克だった。

 光圀の不義、義が何であったか。光圀流に「義」を如何に貫いたのか。2つの軸が最後に結びつく。この「義」については、本書のストーリー展開を読みながら、楽しみかつ味わっていただきたい。

「明窓浄机」の章から、少し長くなるが、2ヵ所引用させていただこう。
 一つは、(九)からである。
 藩主としての宣言は、余にとって不自由さの受領であった。胸中にいかなる展望があろうとも、実現するのは藩主自身ではない。命を受け、事業を託された者たちなのである。藩主とは、託す者である。事業が成されたとき、褒め称えられるべきは託された側であって、余のような、託した者ではないのである。託した者は、託された者の働きを賞賛せねばならず、我が着想のありしを黙して、ただ事業の成就を喜びとすべきなのである。そうした託すことの重さこそ、宣言の重さであろう。・・・・史書は、宣言の軽薄を教えるのではない。宣言ののちに到来する、人の世の重みを、いかにして背負うかを教えるのである。
 もう一つは、巻末となる(終)の文だ。
 史書は人に何を与えてくれるか。
 その問いに対する答えは、いつの世も変わらず、同じである。
 突き詰めれば、史書が人に与えるものは、ただ一つしかない。それは、歴史の後にはいったい何が来るか、と問うてみれば、おのずとわかることだ。
 人の生である。
 連綿と続く、我々一人一人の、人生である。

 「なぜ、世子がおれなのだ」という問いを突き詰めていき、不義から義に至った光圀の生き様。傾奇者が傾奇者に沈没せず、庶民の人の世を学び、己の治世に活かし、一方、詩で天下を取ることを夢見て、研鑽・切瑳琢磨し、詩の道の遙けさを実感できる力量を持っていた光圀の生き様。実に読み応えがある。

ご一読ありがとうございます。

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本書に出てくる語句に関連してネット検索したものを一覧にしておきたい。

義公年譜(黄門様の一生がわかる):「常磐神社 水戸黄門ホームページ」
徳川光圀の治世 :「水戸市」
黄門さま :「常陸太田市」
大日本史の完成とその歴史的意義  但野正弘氏

瑞龍山 
水戸徳川家墓所とは :「徳川ミュージアム」
水戸徳川家墓所 :国指定文化財等データベース
朱舜水 :ウィキペディア
水戸黄門と朱舜水 :「歴史放談」
東アジアの視野から見た朱舜水研究 徐 興慶氏

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後水尾天皇が詠んだ[蜘蛛手]という和歌 :「レファレンス協同データベース」
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冷泉為景 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」
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