遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『命もいらず名もいらず』(上/幕末篇、下/明治篇) 山本兼一  NHK出版

2013-06-06 11:00:55 | レビュー
 本書は、山岡鉄舟の伝記小説である。本書末尾に「本作品は、史実をもとにしたフィクションです」と明記されている。客観的な史実だけを記した本を読んだことがないので、どの辺りから著者の想像力が羽ばたき、読者の想念をかき立ててくれているのかは判然としない。しかし、山岡鉄太郎高歩(たかゆき)、号を鉄舟という人物の生き様を垣間見させてくれる書として得難い本の一つだと思う。

 幕末から明治初期を本気で駆け抜けた傑物だ。本気で行動した人、「生きるとは、ただひたすら、目の前のことを、全身全霊の力をふりしぼってなし遂げることだ。」(上・p307)を実行した人として描かれている。6尺2寸(約188cm)という巨漢だった人。20歳頃は、体重28貫(105kg)だったとか。

 江戸生まれだが、少年時代を郡代として赴任した父親の任地・飛騨高山の陣屋で過ごしたという。父・小野朝右衛門高福(たかよし)は徳川将軍家の旗本。家禄600石。飛騨国11万石を支配する重職だった。鉄太郎は高福の後添えの長男であり、父と先妻との間での次男である兄・鶴次がいる。
 11歳の時「いつも本気で、思いこんだらひたすらまっすぐ突き進む少年」のエピソードが冒頭に出てくる。習った字をすべて清書せよと父に言われて、たった一刻(約2時間)で63枚の美濃紙に千字文をすべて清書したとか。
 15歳で元服したのだが、その時に鉄太郎がおのれの身をどうやって修めればよいかを考え、修身二十則を書き並べたという。この話が第2章鬼鉄ででてくるが、15歳でこんなことを考えていたということに、恐れ入る。だが、この鉄則がその後の鉄太郎の生き方をやはり象徴しているようである。逆に言えば、元服の時に考えたことを、本気で実行して行った人である。

 鉄太郎という人間を形成して行く行動上の軸となる柱が3つある。
 第1は少年時代四書五経の素読と共に始めたという習字、書を書くという行為である。高山では入木道(じゅぼくどう)という弘法大師流の岩佐一亭という書の師匠につく。そして「熱心に書をならい、のこらず相伝をさずかって入木道52世を許されるまでに」なるのだ。飛騨高山時代においてである。

 第2は、9歳のとき本所大川端にあった真影流の稽古場への入門から始めた剣術である。そして16歳の頃から、父が江戸から招聘した北辰一刀流免許皆伝の井上清虎を師とするようになる。この井上清虎との出会いが剣の道で、鉄太郎のその後を方向づけたのだと思う。撃剣の道をまっしぐらに突き進むことになるのだ。井上清虎は鉄太郎にとって、人生の師の一人にもなる。著者は井上清虎にこう語らせている。
 「人は、器量に応じたしごとしか為せない。器量に応じた人生しか送ることができない。器量を広げたいと願うなら、目の前のことをとことん命がけでやることだ。人間の真摯さとはそういうことだ」(上・p46)
 「人のまわりには、そもそも垣根なぞあるものか。垣根をつくるのは自分。こわすのも自分だ。自分でがんじがらめにめぐらせた垣根は、自分でこわさねばならぬ」(上・p54)
 山岡靜山の刃心流槍術に入門し、槍の稽古も始める。講武所(後述)では、数稽古1日200面、7日間で1,400面達成という偉業の実施。
 井上清虎からもはや教えることはないと言われた鉄太郎は、師に教えられた一刀流浅利又七郎義明の門を叩く。試合の場に臨み、剣を使う人間の器の違いに気づかされ、入門する。浅利又七郎が鉄太郎にとって後半人生、剣の道での超克すべき対象、生涯の師となる。浅利又七郎は鉄太郎に語る。「死にたくない、打たれたくないなどという心は、捨て去るがよい。世の中、さように都合よくはいかぬ。われは死ぬ。しかし、ただ無駄に死にはせぬ。相手を殺してわれも死ぬ。その覚悟をそだてよ」(上・p356)と。
 そして、鉄太郎は、講武所でかまえを見ただけで敵の動きがわかる境地にどうすれば達せられるか尋ねられ、「朝から日暮れまで、倦むことなく道場で汗をながしなさい。二十年つづければ、おのれの力も、敵のちからも、すべて見抜けるだろう」(下・p10)と答えるようになる。
 鉄太郎が、鉄舟の号を使い始めるのは、浅利に入門して2年、浅利から借りた一刀流の兵法書を筆写し終えたときだという。鉄太郎31歳の冬である。

 第3は、参禅、坐禅である。
 撃剣にこだわり、強くなりたいと望む鉄太郎が、一方で、「放下せよ。執着するな」という禅家の王道の道を歩む。武州芝村長徳寺の願翁和尚、三島龍澤寺の星定和尚につき参禅する。日々の坐禅の日課に勤しみ、公案の梯子を登って行く。鉄太郎にとって、星定和尚との出会いは得難いものになる。まさに人生の師である。星定和尚から「よし」と言われ、允可を授かったも同じになるが、それでも尚、鉄舟は参禅する老師を求めたようだ。そして、滴水和尚に参禅する。大悟して滴水和尚から允可を受ける。鎌倉円覚寺住持の今北洪川にも参禅する。この洪川は鉄舟の出家希望に反対する。そこで鉄舟は最晩年に出家の代わりに禅寺を建立し、全生庵と名付ける。この全生庵についても、おもしろいエピソードが本書で語られている。そして、越中国泰寺の越叟禅師を住持に招く。
 この3つの柱が、鉄太郎の生涯を通して、日常生活の中に修養、日課として組み込まれていく。
 
 鉄太郎の人生ステージという観点で眺めると、飛騨郡代として最後に盛大な陣立てを催した父は、任地の飛騨高山で病没する。異母兄の鶴次が小野家の跡目相続を継ぐことになる。父が鉄太郎に言い残した言葉が、「おまえの信じる道を歩め。おまえは、人と違う・・・・。おまえ自身のためになることをしろ。それが、天下の役にたつ。おまえは、そういう男だ」(上・p30)そして、3,500両。だがこれは鉄太郎と5人の弟たちの今後の生活資金として。だが、そのうち500両を兄・鶴次に渡す羽目になる。
 父の没後小野一家は江戸に戻る。ここから鉄太郎の人生が変転していく。

 まず、江戸では兄の屋敷に部屋住みの居候として、一部屋に弟たちと一緒に生活する立場になる。兄からすれば、鉄太郎以下の弟は厄介ものにしかすぎない。鉄太郎の人生における忍従の修練のはじまりだ。そこで「自分のためになって、人のためになること」として、手習いの教授を始める。
 井上清虎が高山から江戸に帰ってきて以降に、千葉周作の道場玄武館に入門し、再び剣術を学び始める。ここでの鍛練での様々な修業エピソードが鉄太郎の人生折々の行動の軌跡として書き込まれていく。この箇所を読み継いでいくだけでも、鉄太郎という人物像の一局面が彷彿とする。おもしろいところだ。
 入門時点で、井上清虎の引き合わせで流祖・千葉周作に面談でき、その初対面の場で、どうすれば人の気を見抜けるか、質問してのける。入門そうそうで、清河八郎との練習試合、同年齢の先輩門弟20人ばかりから連続での「祝いの稽古」という試練を経験する。

 19歳のとき、異母兄の小日向の屋敷を出て、井上清虎の世話で小石川同心町の小さな屋敷で一家を立てる。弟たちを引き連れて、独立するのだ。飛騨高山時代からの下男・三郎兵衛が鉄太郎についていく。この転居が、鉄太郎の人生を変える。近くの屋敷で槍術鍛練に励む山岡紀一郎との出会いである。号は靜山。刃心流の槍術である。鉄太郎は早速、入門する。鉄太郎は剣術と槍術の稽古を並行して始めていくことになる。山岡家の隣が高橋兼三郎、号・泥舟宅だった。鉄太郎は泥舟とここで出会う。生涯の関わりが出来ていく。泥舟兼三郎は靜山の弟で、跡継ぎのいなかった母の実家の養子となっていたのだ。
 靜山の死後、鉄太郎は山岡家に英子(ふさこ)の婿として入り、小野鉄太郎から山岡鉄太郎となる。祝言の媒酌人は剣の師・井上清虎、鉄太郎20歳の冬。
 英子は婚礼の日、初めて花婿を見たらしい。「今日のお嬢さんが、こんな人をご覧なされましたならば、さだめて異様な感が湧き出でて、こころよく夫婦にはなりますまい」と明治になって、語ったという。

 嘉永6年(1853)6月に黒船4隻の来航。安政3年(1856)に筑地鉄砲洲に講武所が出来る。山岡鉄太郎は、井上清虎が剣術教授方に就任、その推挙により、21歳で剣術世話心得になる。ここで、様々な剣術流派との練習試合を経験し、一層腕を磨いていく。
 この頃は、講武所や玄武館の稽古を終えて帰宅すると、食事後、まず何百枚かの書を書き、その後で坐禅をかならず丑の刻(午前2時)まで組む。就寝後、朝は夜明けとともに起きる。そういう生活だったようだ。なんと凄まじいことか。
 さらに、剣術に夢中になると新婚の妻のことは念頭に無い。百俵五人扶持(年49石の蔵米支給)なのだが、鉄太郎は金や衣食にこだわらない。困っている者がいれば、家に少しでも銭があると惜しまず与える。つきあいが広がり、大勢の客が家に出入りするようになり、酒・晩飯のふるまい・・・・・。売れそうなものは全て売り、夏冬通して、夫婦ともに一枚の着物しかない状態。焚きつけにするものがなくなると、畳を燃やし、建物の板なども引き剥がしていく。母屋は居間にぼろ畳が三枚あるだけの状態までになったとか。この生活自体もなんと凄まじい。そういう生活に対応していった英子夫人も破格の人だったような気がする。とてつもない夫婦が存在したのだ。旗本でありならがの極度の貧乏生活。だが、そこで平然としている二人なのだ。
 
 安政5年(1858)、尊皇攘夷の熱が急激に高まって行く中で、徐々に鉄太郎の行動の人の本質が出てくる。著者はそのうねりを克明に描いていく。日々の生活は、剣術修練、坐禅を繰り返しながら、宇宙、国家、幕府と帝、己、などの様々な関係を観念し解明せんとする。
 23歳 己の考えを図にまとめ、井上清虎に見せる。
 清河八郎との関わりから、尊皇攘夷党づくりに関わって行く。談合の後の吉原へのくりだしが、鉄太郎に本気で色の道の修行にはげむ契機にもなったという。
 安政7年(1860)年3月、大老井伊直弼が暗殺される。尊皇攘夷発起という点で、清河八郎に同意できても、八郎の考えと合わない側面にも気づき出す。つまり、鉄太郎は、尊皇攘夷も徳川家を前提にして常にまず考えていく。攘夷については、独自の行動を取る立場になっていく。できること、できないこと、やってはならないことなど、己を基軸に峻別していく。このあたり、独自の価値観で行動を貫いて行った経緯がよくわかる。
 攘夷について、軽挙妄動はしない。尊皇ではあるが、徳川家には誠実に忠義を尽くすという立場である。その結果、様々な人びととの関わりが広がって行く。

 本書の第1章・第2章は鉄太郎の自己形成のための行動期を描くことに重点があるが、第3章あたりから、鉄太郎の行動が多彩になっていく。つまり、「己のためになることが、国のためになる」という行動、つまり国に関わる-具体的には尊皇攘夷及び徳川家-行動に関わって行く。それはある意味で、鉄太郎の本気の行動を第三者が眺めて、彼を巻き込んでいく過程でもある。ほとんど表に現れないが、それを支えているのが妻・英子でもあったと読み取ることもできる。鉄太郎の背後にはすごい女性がいたのだ。
 第3章あたりから、国のため、徳川家のため、天皇のため、一般庶民の苦難をできるかぎり防ぐために、本気で行動し、東奔西走する鉄太郎の姿が、ダイナミックに描き出されていく。本書の読みどころである。その中で、上記3つの行動の柱は常に坦々と基軸にあるのだ。

 トピック的に鉄太郎の行動の軌跡を列挙してみよう。その行動が具体的にどう展開されていくかは、本書で楽しみ、味わっていただくとよい。そこに本書を読む醍醐味がある。
 14代将軍家茂の京都への上洛前に、攘夷を志す浪士組(新徴組)を率いて京都へ先行。だが、20日ばかりの滞在で、残留を決めた浪士を除き残りの浪士と江戸に立ち戻る。
 慶長4年正月、京都での戦争の勃発。陸軍所に詰め、江戸城警備にあたる。将軍慶喜の恭順謹慎を軸に鉄舟の己の行動と判断基準が動き出す。慶喜の身辺警護を任される。
 箱根を超えて江戸に迫る東征軍(官軍)の動きの中で、勝海舟の意を受けて、駿府の大総督府に居る西郷隆盛に単独交渉に行く。江戸総攻撃中止と慶喜への処分回避である。この過程で、清水次長と西郷隆盛に関わりが生まれる。西郷から7ヶ条の交渉条件が出てくる。
 江戸城開城が進む中で、彰義隊による上野戦争。鉄舟は無駄な戦の回避に奔走する。 徳川宗家の駿府への移動という大総督府の命に対し、徳川家家臣その他の大移動の手配とその取り扱いの中心となって行動する。それは仮寓先の確保、仕事の開発に繋がっていく。己の家族は妻任せで、人びとの生活基盤確保・新天地開拓への本気の行動である。
 勝海舟に開拓費用捻出の交渉することがきっかけで、新政府の宮内省出仕を要請される。明治天皇の侍従になり、身辺警護と天皇の人間形成に関わりを持てという。それは西郷の意見でもあるという。一旦は固辞するが、出仕することになる。このことが、鉄舟の人生後半の生き様をさらに大きく変えて行く。鉄舟38歳。おもしろい展開である。
 新政府での鉄太郎の職務の変遷を抜き出せば、次のように順次管掌範囲が拡大し、昇進していくのだ。侍従となり身辺警護、侍従番長、宮内少丞、庶務課長、宮内大丞、行幸中の宮内卿代理、出納課長兼務、宮内大書記官、内庭課長兼務、靜寛院宮華頂宮家政取締、御巡行御用掛、宮内少輔などである。
 皇城炎上の際に鉄舟の取った行動もすさまじい。そして、征韓論を契機に帰郷した西郷と対面するために鹿児島に行くことにもなる。西郷とのやりとりはまさに阿吽といえよう。世俗の思惑を離れた境地である。
 銀座四丁目の木村屋が創意工夫したあんパンを鉄舟が明治天皇に食べさせたという行動も興味深い。鉄舟はそこに和魂洋才を見、感得してもらいたいと感じたのだろう。
 そして、明治15年(1882)5月、47歳のとき、当初の10年という約束だったと、辞表を書いたという。
 それに対する宮内省の対応が、勅命による勲三等の勲章授与らしい。だが、それを返上した上で、翌日参内し、賞罰が公平たるべきことを天皇に進言しているようだ。
 その五年後、鉄舟の死ぬ1年前、子爵に列せられることになる。
 その時の鉄舟は、こんな狂歌を詠むる
   食うて寝て働きもせぬご褒美に 蚊族となりてまたも血を吸う
 名もいらないという鉄舟の信条躍如である。鉄舟の辞表は受け入れられず、再出仕し、二等官に昇進、御用掛を命じられることになる。

 鉄舟は、7月19日午前9時15分、絶命する。葬儀の22日は篠突く大雨だったという。鉄舟の生き様の一端を象徴するようだ。

 最後に、印象深い文をいくつか列挙しておきたい。

著者の記した鉄舟像の一端:
「いのちが、そこにあって息をしている。それを、大きな両の手のひらで、そっとやさしく包むのが、鉄太郎の生きる姿勢である。その命を助けることに、どういう理があるのかなどとは考えない。考えるよりも、先に体が動いている。」 p279

「鉄舟という人は、世間とのかかわりがどうあれ、ひたすらおのれを磨き高めることに熱心だった。そのことにおいてだけでも、特筆に値する人物であるだろう。」 下・p320
そして印象深い文:

*よいか。人というのは、骸骨にすぎぬ。まずは、そのことをわきまえよ。
 一休やら、白隠やら、むかしの偉い坊さんたちが言うておる。どんな美人も骸骨にすぎんとな。人はみな骸骨。敵がわれよりも強く見えるとすれば、それはおまえの心がそう見ているだけだ。ただ骸骨に皮をかぶせ、心をいれたものだと思え。その心を槍で突き通すつもりで戦うのだ。敵の動きにかまわず突進し、槍をしごいて敵の胸板を突き通すのだ。  上・p143 (山岡静山の言として)

*運命の扉は、その人間が求めたとおりに開く--。
 こころを研ぎ澄まし、強く求めていればこそ、またとない出会いにもめぐまれるのだ。
 なにも求めていない人間には、すばらしい出会いなど望むべくもない。  上・p126

*昔の人は、自分の芸を、始終自分の本心に問うて修業したものだ。しかし、いくら修業しても、落語家なら、その舌を無くせぬかぎり、本心は満足しない。俳優なら、その身を無くせぬかぎり、本心は満足できない。  下・p330 (三遊亭円朝との逸話)

*撃剣は、人格と人格のぶつかり合いだ。   下・p340

*いずれの道も、究めようと思ったら同じなんでございましょう。わたしは、大損をしてからというもの、まず、自分の気持ちがすっきりしているときに、しっかりと方針を思い定めておいて、あとは、そのときの小さな値の動きなんかに拘わらず、ずんずんと商売を進めました。そうするようになってから、わたしも一端の商人になれた気がします。  下・p343  (平沼専蔵氏の言として、会話文に)



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本書に関連する語句をいくつかネット検索してみた。一覧にしておきたい。

山岡鉄舟 :ウィキペディア
全生庵 山岡鉄舟ゆかりの寺 ホームページ
山岡鉄舟 年譜

『鉄舟言行録』 安部正人編 :「国立国会図書館デジタル化資料」

千葉周作 :ウィキペディア
千葉周作の墓 :「法華宗本妙寺」 
  山手線「巣鴨駅」下車 徒歩10分

山岡静山 デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説 :「コトバンク」
高橋泥舟 :ウィキペディア
高橋泥舟墓 :「ぶらり重兵衛の歴史探訪2」

山岡鉄舟  「山岡鉄舟」についての研究会 ホームページ

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 以前に、次の読後印象を掲載しています。お読みいただければ幸です。

『いっしん虎徹』 文藝春秋
『雷神の筒』  集英社
『おれは清麿』 祥伝社
『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社
『まりしてん千代姫』 PHP
『信長死すべし』 角川書店
『銀の島』   朝日新聞出版
『役小角絵巻 神変』  中央公論社
『弾正の鷹』   祥伝社