遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『蝉しぐれ』  藤沢周平  文春文庫

2021-12-10 22:28:25 | レビュー
 奥書を読むと、「山形新聞」夕刊に連載された後、昭和63年(1988)5月に単行本が刊行され、平成3年(1991)7月に文庫化された。
 海坂藩では次期藩主の継承をめぐって密かな抗争が進行していた。それを知っているのはほんの一部の人々だけである。藩内にはその継承問題に関連して派閥が形成され、それもまた密かに暗躍していた。このことを背景にしながら、30石以下の軽輩が固まっている普請組屋敷の一軒に住む牧文四郎が主人公となる。彼の人生ストーリーである。

 ストーリーの冒頭は普請組の組屋敷が所在する環境の描写。そして組屋敷の裏を流れる五間川の傍で、隣家の娘、12歳のふくが物を洗っている時に蛇に指を噛まれ、15歳の文四郎が助ける場面から始まる。文四郎はこのふくに対し、恋に至る前の淡い思いを抱いていた。しかし、それは遠く手の届かぬ隔たりができる状況の出現により断絶されてしまう。その断絶がストーリーの底流となり、文四郎の生き方に関わっていく。そこが読ませどころとなる。又四郎の思いが一つの重要なテーマとなっている。表層的には、海坂藩の後継藩主を巡るお家騒動、派閥争いの顛末がテーマと言える。

 文四郎は牧家の養子となっていた。実父の妹、つまり叔母が母親となる。文四郎は血の繋がらない父親・牧助左衛門を寡黙だが男らしい人間として敬愛していた。
 秋が深まり、颶風が来た夜に五間川が城下町で氾濫するのを防止する目的で川の堤防を上流で切開する工事に普請組が出動する。直前にある事情で不在だった父の代わりに文四郎が代理となり出動に加わる。だが、遅れて駆けつけた助左衛門が当初の切開予定場所を更に少し上流に変更するよう進言し、十町歩の田圃が潰れるのを防ぐ行動を取った。その気骨ある父が、その翌年、藩の監察に捕らえられ取り調べを受け、切腹させられる立場になる。文四郎は父が殿のお世継ぎの世子をだれにするかの争いにかかわり合っていたと聞かされる。これが最初の文四郎の人生の転機となる。牧家は取り潰しにはならなかったが、家禄を四分の三減じられ、普請組を免じられて、葺屋町の荒ら家ともいうべき長屋に移転させられる。つまり、文四郎と母は、藩から飼い殺し的な境遇に落としめられることに。少年文四郎の人生は、いわばお家騒動に連なる藩内の派閥抗争に起因する余波として、生活環境と武家社会での人間関係が一転し、その変貌に翻弄される。家名存続のために自重という対応を優先し行動する文四郎の姿が坦々と描き込まれていく。文四郎の悲運、悲哀に読者が引きこまれていくことになる。

 父助左衛門の切腹を転機に周りから冷ややかな目で見られながらも、文四郎は石栗道場で剣術を、居駒塾で学問を学ぶという生活を続けて行く。文四郎の剣の腕は上がって行き、それが彼の人生を変える一つの要因になっていく。
 文四郎には生涯の友となる友人が2人いる。ひとりは小和田逸平。10歳の時に父を亡くし、100石の小和田家の当主である。文四郎よりひとつ年上の16で、元服を済ませている。後に小姓組の役目で出仕することになる。もうひとりは与之助である。彼は居駒塾の秀才で、居駒先生から江戸の葛西塾を紹介されて学問で身を立てる決心をする。この2人が文四郎との絆を深め、強固にしつつ、文四郎を支えていくことになる。3人の友情の繋がりが、このストーリーの展開で重要な要素となっていく。
 3人がそれぞれの道を歩み始める。世子継承の問題と派閥抗争に関わる情報を共有するプロセスで、彼等の結びつきは一層緊密なものへと変化していく。

 助左衛門から頼み置かれたことだと言い、番頭の藤井宗蔵が烏帽子親となり、文四郎は元服を迎えた。前髪を落とし、重好と名乗ることに。元服後、冬が来た頃に文四郎は次席家老の里村左内から屋敷に来るようにとの使いの口上を受ける。文四郎は2年後の20になるのを機に、郡奉行支配を命じられ、郷方勤めとなることを言い渡される。家禄は旧録に復すという。
 だが、ここからが本当の試練の始まりとなっていく。里村家老は派閥の一方の雄であり、文四郎の父助左衛門は里村に対抗する派閥に属していたのだ。

 剣の修行に精進した文四郎はその腕を上げ、松川道場との間で行う秋の熊野神社の奉納試合に石栗道場代表のひとりとして出る。さらに、道場主の弥左衛門に見込まれ、対戦者の興津新之丞に勝てば、秘伝を授けると伝えられる。興津に勝てば師匠から秘伝を受けるのは二人目になるのだ。この奉納試合が、さらに文四郎の転機となる。

 そして、文四郎に縁談が持ち込まれるという転機も訪れる。
 更に、最大の転機は、文四郎自身が予期せぬうちに、藩主を継承する世子に関わる派閥抗争に巻き込まれて行くことになる。里村家老の仕掛けた罠に嵌められることに・・・・。そこには、かつての隣家の娘おふくが、今では藩主の側妾お福さまであり、懐妊し、江戸藩邸から帰国後に出産しているという密かな事実も関連していた。窮地に立たされた文四郎の行動が読ませどころとなっていく。

 本書のタイトル「蝉しぐれ」は、最終章の名称である。里村家老との抗争が終結した後、二十年余の歳月が過ぎ去った後の場面に触れられてこのストーリーが終わる。文四郎の人生に余韻を刻み込むことになる。著者は意外な結末を読者に示した。お楽しみいただきたい。勿論、読者にも同様に余韻が残ることだろう。

 ご一読ありがとうございます。

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