遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『清明 隠蔽捜査8』  今野 敏   新潮社

2021-02-07 15:43:53 | レビュー
 今野敏さんの作品群の中で、この隠蔽捜査シリーズが私は特に好きなものの一つである。キャリア警察官の竜崎伸也は警察官として原理原則に従うのが当然であるという信条のもとに行動する。著者は彼の行動とその姿勢を描き出す。このプロセスが私を惹きつける。
 「隠蔽捜査8」となっているが、『初陣』と『自覚』がそれぞれ3.5、5.5として刊行されているので実質的にはシリーズ第10弾である。奥書を見ると、「小説新潮」(2018年9月号~2019年8月号)に連載発表され、2020年1月に単行本化されている。

 この「隠蔽捜査8」で、竜崎はそれまでの警視庁大森警察署署長から神奈川県警察本部刑事部長に異動となる。竜崎にとってはいわばしごく当然のやりかたで神奈川県警察本部に向かい、警察本部長に着任の報告をするという行動をとる。その場面からストーリーが始まって行く。まずこの行動自体がそれまでの慣行からすれば異常な行動になっている。その一騒動を描写するところから始まるのだからおもしろい。この小さなハプニングの経過がまず読者を惹きつける。実にストーリーテラーとして手慣れたものだ。
 辞令を受け着任してきたという竜崎に対し、総務部の係員は怪訝な思いを抱き、総務課長は戸惑う。竜崎は早速彼等を慌てさせてしまう。神奈川県警の佐藤警察本部長を含めて「偉い人はそれらしく振る舞う」「格式ってのがあって」という発想がまず最初にあり、それが彼等の行動を律している。のっけから、竜崎は佐藤本部長に言う。「公務員の仕事においては、意味のないことだと思います。偉い人の顔色をうかがうよりも他に、やるべきことがたくさんあると思います」と。もう、ここでのやり取りから楽しく感じ始める。

 「清明」というタイトルにまず触れておこう。横浜中華街にある老舗「梅香楼」で竜崎は、滝口という警察官OBの仲介により、その店のオーナーであり中華街の要人の一人である呉博文と食事を共にしながら面談する。竜崎はその部屋のテーブルガラスの下の木材に文字が刻まれていることに気づく。呉はそれが杜朴の詩であり、七言絶句の漢詩だと語る。その最初の一行は「清明時節雨紛紛」である。p207にその四行の七言絶句が出てくる。
 このストーリーのタイトルはこの「清明」に由来する。そして、この言葉が神奈川県警の刑事部長として最初に臨んだ殺人事件の捜査本部において、竜崎の行動姿勢を表すことを象徴しているといえる。殺人事件の被疑者に対する竜崎の警察官としての姿勢がその言葉に重なるのである。竜崎の姿勢が「私がやった」という自白を引き出す動因になる。伊丹警視庁刑事部長の質問に対し、被疑者が言う。竜崎のことを「そちらの人は信用できると」。原理原則で行動し、警察官としての己の信条を貫こうとする竜崎の姿勢に被疑者は「清明」を感じ取ったのではないか。私はそんな読後印象を持った。

 このストーリーに触れておこう。竜崎の着任時点でマル暴と不動産絡みの殺人事件の捜査本部が立っていた。しかし、この事件、自供は時間の問題のところまで来ていた。竜崎の着任から山手署に立つこの事件の捜査本部に竜崎が顔を出すまでの経緯は、まあ神奈川県警の内部組織とそのメンバーを読者に知らしめ、速やかに馴染ませていくプロセスにもなっている。いわば、大森署と警視庁という警察組織でのストーリーに馴染んできた読者を神奈川県警とその組織にソフトランディングさせるステップと言える。

 警視庁の伊丹俊太郎刑事部長から竜崎に携帯電話で連絡が入ることから、このストーリーが実質的に始まって行く。沢谷戸自然公園で遺体が発見されたという。死体遺棄事件が発生したのだ。この自然公園は東京都町田市にある。しかしその一帯は、神奈川県の川崎市と横浜市との間で境界線が複雑に入り組んでいる地域だった。そこで、伊丹は神奈川県警に手伝ってもらい合同捜査本部を立てて事件を捜査したいというのだ。
 ここで伊丹が竜崎に「こちらが主導。それでいいんだな?」という問いかける。竜崎は発見現場は都内だからそれでいいと即答する。だが、伊丹は竜崎に本部長の確認をとれと言う。そんなやり取りから始まる。警視庁と神奈川県警の日常関係が新たに竜崎の背景に被さってくるという暗示でもある・・・・。読者にとってはおもしろくなりそうという予感が生まれるだろう。

 事件に関わる要点を少し箇条書きでご紹介しておこう。
*東京都の町田署に警視庁と神奈川県警の合同捜査本部が立つ。
*伊丹と竜崎が合同捜査本部のトップとして本部に詰める。二人の立場が異なることに。
*警視庁主導の事案という竜崎の発想に正面から異議を言う阿久津参事官が登場する。
 警視庁と神奈川県警との力関係、常にパワーバランスを考える必要があると主張する。
 刑事部組織内の阿久津参事官が竜崎にとり、どういう存在になっていくのか・・・・。
*警視庁は、田端課長、岩井管理官が担当し、捜査に20人から30人が加わることに。
*県警からは、板橋捜査一課長を筆頭に10名ほどが合同捜査本部に加わることになる。
 板橋課長はかつて竜崎と合同捜査の経験があり、竜崎に好意を寄せている警察官である。
*被害者は男性。年齢は30代後半から40代。やせて日に焼けている。
 死因は頸椎の損傷。検視官の見立ては他殺。頸部を急速に捻られた結果だと言う、
 
 この捜査過程にはいくつかの要因が絡んでいく。阿久津参事官の発言を契機に、神奈川県警に着任したばかりの竜崎が、警視庁と神奈川県警との関係を意識せざるをえなくなること。その渦中で如何に竜崎流を行動に移していくかが、読者にとっては竜崎の思いに関心を抱くことになる。
 被害者の下着の特徴から、被害者が外国人の可能性が浮上してくる。神奈川県では外国人同士の事件も日常的に発生する。中国人が関わるなら事件捜査過程で華僑の壁という障害もあるという。勿論、東京都でも外国人絡みの事件は増加傾向にある。
 解剖の結果、被害者の死因が確定する一方、耳寄りな参考情報が報告される。被害者はセレン欠乏症の疑いがあるという。中国の黒竜江省や江蘇省でよく見られる症状だという。日本人ではほとんど報告例がないという。被害者は中国人という可能性が大となる。
 神奈川県側での捜査を拡大する必要性が高まっていく。

 このストーリーに、サブストーリーが織り交ぜられていく。それは竜崎の妻・冴子に絡んでいる。東京から横浜の官舎に転居。そこは他の県警幹部も住むマンションになるが、まわりは坂道だらけで、近所にスーパーもないという立地。冴子はペーパードライバーだったので、自動車教習所で運転の練習をすることから始めて、生活環境に対応するという。だが、その教習所に通い始めて、教習所内で軽度な事故を起こした。着任間なしの竜崎に、警察絡みの事故処理問題が発生したのだ。冴子は南署で事情を聴取されているという。竜崎は南署に行く羽目になる。原理原則で考える竜崎には、その事故処理になぜ時間がかかるのかわからない。読者にとっては、脇道でのおもしろさが加わることになる。
 教習所側が物損に対する補償を要求しているという。その教習所の所長が警察官OBの滝口だった。竜崎は滝口との間で一悶着のやり取りをする。だが、竜崎は後にその滝口の力を捜査に活用するという方策に出た。竜崎らしさの発揮が功を奏してしていく。
 このサブストーリーの展開は、メインストーリーとの絡みでなかなかおもしろい役割を果たすことになっていく。竜崎の人を見る目が活きていくのだから。そして、板橋課長に次いで、竜崎は警察官OBの滝口を結果的に竜崎のシンパにすることに・・・・・。

 元弁護士の経歴を持ち、今は横浜で手配師をしているという山東が、情報提供者として竜崎の前に現れてくる。山東の情報は事件の捜査とその解決に大きく寄与していく。竜崎との会話で「あなたのような方が警察幹部にいらっしゃるのが、奇跡のような気がします」と著者は山東に語らせている。

 被疑者をどのように扱うか。それが今回のストーリーの重要な落とし所になっている。それは日本国内における殺人事件をどのように扱うかの根本問題に関わることでもある。ここがこのストーリーの最後の読ませどころとなる。

 隠蔽捜査シリーズは、ここからまた一つ新たなステージに転換した。神奈川県警を舞台に刑事部長となった竜崎がどういう状況に今後投げ込まれていくか・・・・・楽しみが増えたといえる。隠蔽捜査9を心待ちしたい。

 ご一読ありがとうございます。

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『オフマイク』  集英社
『黙示 Apocalypse』 双葉社
『焦眉 警視庁強行犯係・樋口顕』  幻冬舎
『スクエア 横浜みなとみらい署暴対係』  徳間書店
『機捜235』  光文社
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『プロフェッション』  講談社
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=== 今野 敏 作品 読後印象記一覧 === 更新6版 (83冊) 2019.10.18