遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『大江戸釣客伝』上・下  夢枕 獏   講談社文庫

2021-02-17 13:40:09 | レビュー
 江戸時代、五代将軍徳川綱吉の治政において、魚釣りに魅せられた人々、つまり著名な釣客たちの生き様を描いた作品である。
 文庫本を購入して長らく書棚に眠っていたのだが、先般『大江戸火龍改』を読んだ時、その中に「首なし幽霊」という短編があった。これが直接のトリガーとなり、積ん読本になっていたこの小説を読む動機づけとなった。『大江戸火龍改』とはジャンルを異にする小説である。こちらは登場する釣客たちの生き方を伝記風に描いている。釣客の幾人かに焦点をあててその半生の要所要所を描き込み、他の釣客たちは点描風に主要な釣客との交流模様の中で彼等の生き様の一端が織り込まれていく。私には魚釣りの趣味はない。しかし、この釣客伝を読み始め、冒頭から関心を抱く人々が登場したので、このストーリーに引きこまれて行った。もう一つこのストーリーがどう進展するのかに興味を抱いたのは、将軍綱吉の時代を背景にしていることと、吉良上野介及び赤穂浪士の討ち入り話が吉良側の視点寄りでエピソードとして組み込まれていく展開にあった。

 この作品の構成がおもしろい。「序の巻 幻談」から始まり、「巻の1 沙魚(ハゼ)」から「巻の23 忘竿堂」、最後に「結の巻」という構成である。この「巻の1」から「巻の23」は各巻がいわば短編小説風でありその巻だけでほぼ一つの区切りがついている。つまり、ある巻だけを読んでもそれなりに一つのエピソードとして読める。その上で、各巻は主な登場人物の半生の生き様を釣りとの関わりで描く一環として有機的に繋がっていく。伝記風ストーリーの時間軸の流れになり、将軍綱吉の治政のうねり及びその影響がその他の釣客にも及ぶ様が独立的な巻として挿入され、全体が描き込まれていく。結果的に綱吉の思いとその時代の異様さをも描いている。

 本作品の冒頭に「『何羨録(カセンロク)』に見える江戸の釣場図」という地図と、『何羨録』の著者津軽采女が「序」に記した文が引用されている。「巻の一 沙魚」でこの津軽采女が登場する。読み始めてわかったのだが、この津軽采女がこのストーリーでの主な釣客の一人となっていく。津軽采女は2年前、17歳の折に父の死により津軽家を継ぐ。旗本で石高4000石だが小普請組という閑職に就いている。19歳の采女は家臣の兼松伴太夫の案内で沙魚釣りに誘われた。鉄砲州での初釣りである。采女はこれで、釣りにはまってしまう。その結果が『何羨録』という釣りの指南書を世に残すことになる。このストーリーには、采女が釣書を書き残したいという願望を抱く元となる一書『釣秘伝百箇條』にまつわる因縁話という側面もあって興味深い。

 さて、私自身がこの小説を読み始めて惹きつけられたのは別のところにあった。
 それは「序の巻 幻談」。ここに宝井其角と多賀朝湖が登場する。船頭仁兵衛の船に乗り、貞享2年(1685)3月に佃島の南の沖合で春鱠残魚(ハルギス)釣りをする場面からこのストーリーが始まる。宝井其角は俳人松尾芭蕉の門人。一方、多賀朝湖は絵師。このとき其角25歳、朝湖34歳だという。朝湖は其角を俳諧の師とし、其角は朝湖を絵の師とする関係だったそうだ。
 多賀朝湖という名前は最初ピンと来なかったのだが、英一蝶のことだとわかり、俄然興味が増していった。英一蝶について、島流しの刑を受けた後江戸に戻ってから英一蝶と改名した絵師ということは知っていて関心がある絵師の一人だった。だが、多賀朝湖という名前だったという記憶がなかったのだ。
 このストーリーでは其角と朝湖が采女と共に主な登場人物になっている。当初は其角に引かれ、まずこのストーリーに興味を抱いた。其角と朝湖が釣りを趣味にしていたことをこの小説で知った。私にとっては知識としての副産物である。

 この序がこのストーリーにとって、後々大きな梃子となっていく。朝湖が屍体を吊り上げるのだ。老人の屍体は右手に竿を握り笑っていた。竿の先には大物が釣れていたのである。その竿は二間半の上物で、野布袋竹(ノボテイダケ)の丸だが軽い。竿尻に近い場所に狂という文字が読み取れるというもの。この老人と竿がこのストーリーの黒子的意味を持ち、大きな役割を果たす伏線となっていく。
 この序の巻「幻談」の背景については著者が「あとがき」に触れている。

 このストーリーが貞享2年から始まるという時代設定は巧みであり、その構成にも多面的な視点が取り入れられている。綱吉は1680年に第五代将軍となる。そして、貞享2年(1685)に「生類憐みの令」を出した。それから1709年までの長期間にわたり様々な形でその内容をエスカレートさせ発令しつづけたという。尚、貞享4年(1687)に「生類憐みの令」が出たのが最初とみる説もある。著者は貞享2年説をとり「知られているだけで135回にも及ぶものとなったのである」(p169)と記している。
 いずれにしても綱吉が生類憐みの令を出したという知識はあったが発令し続けていたとは迂闊にも知らなかった。遅ればせながら認識を新たにした。
 このストーリーは幕府の発令がエスカレートしていく渦中で釣客たちがどのように反応しかつ対応したかが描き込まれていく。リアル感にあふれていておもしろい。

 ストーリーの展開を簡単にご紹介しておこう。
序の巻 幻談 其角と朝湖が佃島沖の春鱠残魚釣りで屍体を引き上げる
巻の1 沙魚 津軽采女が初釣りではまり、帰路大川での「釣勝負」を見物する
      ⇒紀伊国屋文左衛門主催で著名釣客7人が勝負し阿久沢弥太夫が登場する
巻の2 技師 津軽采女が鉄砲州で”つ抜け”をし、ここで阿久沢と出会い会話する
巻の3 安宅丸 安宅丸の祟り及び釣り中の其角・朝湖が流されてきた采女を救助する
巻の4 鯛  采女の鯛釣りと結婚を描く。一方「生類憐みの令」が出て3年を描写する
巻の5 水怪 其角と朝湖が清光庵の池に出る怪の謎解きをする
巻の6 釣心 其角・朝湖・紀伊国屋・ふみの屋の釣り場面。采女の近況・心境を描く
巻の7 密猟者 元禄2年4月、ご禁制の鮒の密漁で9人が死罪となる
巻の8 側小姓 津軽采女は綱吉の側小姓に抜擢され、綱吉の陰の側面を垣間見る
巻の9 無竿 綱吉が将軍となった経緯と光圀の諌言行動。采女が綱吉から刀傷を負う
巻の10 釣り船禁止令 采女が側小姓を辞す経緯に触れる。釣り禁止令が反発を生む
巻の11 釣秘伝百箇條 朝湖が『釣秘伝百箇條』を入手し、釣客仲間が会合をもつ
巻の12 夢は枯れ野を 芭蕉の死の前に、投竿翁捜しが成果を生む。なまこの新造とわかる
巻の13 この道や行く人なしに 元禄7年10月、其角は芭蕉の死に立ち会う
巻の14 其角純情 其角、朝湖、采女。三者三様の心境を語る
巻の15 島流し 一旦はお城坊主となる朝湖だが、後に島流しになる経緯を描く
巻の16 初鰹 三宅島に島流しになった朝湖を描く。朝湖を思う釣客たちが茶会を開く
巻の17 松の廊下 松の廊下事件を吉良視点で描く。吉良上野介は采女の義父にあたる
巻の18 討ち入り前夜 三宅島の朝湖の思いを描く。そして、其角の思いも。
巻の19 討ち入り 赤穂浪士の討ち入りを其角と采女の立場を介して描く
      ⇒其角が吉良邸に隣接する俳諧仲間土屋主税の屋敷に滞在中に討ち入り発生
巻の20 元禄大地震 采女の夢、大地震の状況、投竿翁の娘の語る事実を描き出す
巻の21 霜の鶴 狂える猿 其角の死を描き、其角の死を知った朝湖の決意を描く
     ⇒著者は「声かれて猿の歯白し峯の月」を其角の辞世としておきたいと記す
巻の22 弥太夫入牢 阿久沢は釣りを因に入牢。綱吉が死に急転換。朝湖が江戸に戻る
巻の23 忘竿堂 采女は再び竿を握る。阿久沢、朝湖と再会。釣りの指南書執筆をめざす
⇒忘竿堂とは、采女が己の屋敷に遊び(釣)のためだけに設けた離れ
結の巻 采女の半生を編年風に記す。後に『何羨録』と英一蝶筆「雨宿り図屏風」を語る
 
 この小説のできあがる経緯が「あとがき」に記されている。おもしろい一文である。
 この小説は釣りを趣味としない者でも、釣りの醍醐味をイメージできて興味深くかつ楽しめる。釣り好きは尚更であろう。釣りの奥深さを著者は楽しみながら、蘊蓄話的に記述している個所も多々あるのではないかと想像した。
 
 本書は2011年7月に刊行され、2013年5月に文庫本化されている。
 奥書によれば、2011年に第39回泉鏡花文学賞、第5回船橋聖一文学賞、2012年に第46回吉川英治文学賞を受賞している。ナルホドとうなづける。

 ご一読ありがとうございます。

本書に関連して、関心事項をネット検索してみた。検索範囲での結果を一覧にまとめておきたい。
宝井其角  :ウィキペディア
宝井其角  :「コトバンク」
宝井其角の俳句 30選 -洒落風-  :「ジャパノート」
今泉準一 其角と芭蕉と  :「松岡正剛の千夜千冊」
英一蝶   :ウィキペディア
英一蝶のこと  :「京都国立博物館」
牢屋暮らしに島流しも経験、江戸時代の絵師で芸人さん「英一蝶」の波乱万丈すぎる人生 :「Japaaan」
英一蝶墓  :「東京都教育委員会」
雨宿り図屏風  :「文化遺産オンライン」
浮世絵 英一蝶 トップページ
英一蝶、幻の大作「涅槃図」、月次風俗図屏風、ボストン美術館の至宝展(神戸市立博物館)、その他代表作、とは(2018.1.10) :「歴史散歩とサイエンスの話題(続)」
津軽采女正  :「コトバンク」
何羨録  :ウィキペディア
何羨録  :「水産研究・教育機構 図書資料デジタルアーカイブ」
  ページ毎に全文表示をして閲覧できます。
生類憐れみの令は蚊もNG?発布の理由や真相を解説!悪法は誤解? :「歴史伝」

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著者の作品で以下のものについて読後印象記を書いています。
こちらもお読みいただけるとうれしいかぎりです。
『大江戸火龍改』  講談社
『聖玻璃の山 「般若心経」を旅する』   小学館文庫