『信長公記』には、伊賀国について少なくとも3ヶ所に記載が出てくる。
一つは、巻十二(天正7年年己卯)に載る「北畠中将殿御折檻状の事」の条である。9月17日に、「北畠中将信雄、伊賀国へ御人数差し越され、御成敗のところに、一戦に及び、柘植三郎左衛門討死候なり」と記す。それに対し、信長は上方への出陣を命じているのに、信雄がかってに伊賀に兵を出したことを叱責している。後内書を認め、信雄の許に使者を派遣しているのだ。叱責の文書には自筆でこういう内容を記したという。「・・・・上方へ出兵すれば、伊勢の国の武士や民百姓の難儀が多い。だから、とどのつまりは国内で問題があれば他国まで出兵しないですむであろうというわけで、このことをもっともであるとおまえは同意し、伊賀への出陣をとったのか。いや、もっとありていに言えば、おまえは若気のあまりに、そのとおりだと自分から思い込んで、伊賀あたりへ出兵したのではないか。さてもさても無念の極みである。・・・・・柘植三郎左衛門を始めとして、大事な武将達を討ち死にさせたことは言語道断、けしからぬことである。おまえがそのような心がけでいるのでは、親子の縁も認めるわけにはいかない」と。
そして、巻十四(天正九年辛巳)の「伊賀国、三介殿仰せつけらるる事」において、9月3日「三介信雄伊賀国へ発向。」から始まり、信長軍の諸大将が四方からなだれ込み、9月11日に至りほぼ戦いの決着がつく。『信長公記』に記述はないが、信長は4万4千余の軍勢を伊賀にさしむけたとする。
つづく「伊賀国へ信長御発向の事」の条において、10月9日に「伊賀国ご見物として、・・・其の日、飯道寺へ、信長公御上りなされ、是より国中の躰御覧じ、御泊り。」10月13日「伊賀国一宮より安土に至りて御帰城。」10月17日に、信長は長光寺山で鷹狩りをしている一方で、「伊賀国中切り納め、諸卒悉く帰陣なり」という結末となる。つまり、伊賀国、忍びの国が滅びたのだ。
この作品は、『信長公記』でこのように記される伊賀国の忍びが己の土地で如何に戦い、どのように滅びて行ったかが描かれている。
物語は天正4年(1576)から始まり、主な登場人物のプロフィールが明らかになっていく。
織田信長の次男、織田信雄は伊勢国・北畠具教(きたばたけとものり)の六女・凜を嫁に貰い北畠家の養子に入っている。その信雄が、長野左京亮(さきょうのすけ)、日置(へき)大膳、柘植三郎左衛門という家臣を引き連れ、三瀬谷にある具教の三瀬御所を訪れ、具教を抹殺する。
大膳と左京亮は伊勢侍で、ともに北畠家の譜代の重臣であり、北畠具教は元の主だった。信長と具教が激突した大河内合戦での和睦の結果、信雄の北畠家に婿入りし、大膳と左京亮が信雄を主にする立場になったのだ。左京亮は戦国の世の時勢の変化をやむなく受け入れ、元の主である具教の抹殺の実行に手を染める。最後まで、元の主の抹殺に抵抗心を抱く大膳は、結局左京亮を助ける形で、具教を殺める立場に立つ。大膳に横胴を薙ぎ払われた具教は、死を悟ると大膳に小声で意外なことを語る。「これより伊勢は名実ともに織田家のものとなる。大膳、おのれも家臣を持つ身ならば、その者どもの安寧のみを考えよ。今後は織田家とともにいきるのだ。」と。
柘植三郎左衛門は、『信長公記』にその名が記されている。信長が好んだ男のようだ。三郎左衛門は北畠家の一族にあたる木造家(こつくりけ)の家老だったが、木造家が信長に寝返り伊勢侵攻を推進したのがこの三郎左衛門だった。木造家の裏切りが判明した時点で、具教に差し出されていた三郎左衛門の妻と9歳の娘が具教により殺される。ともに縊り殺された後、串刺しにされ、三郎左衛門の籠もる木造城向けに見せしめとしてさらされたのだ。なお、この男の出自は伊賀だったという。柘植は父祖元来、伊賀国住人弥平兵衛宗清の末裔なのだという。三郎左衛門の時代に伊勢に渡り、木造氏に仕えたのだ。この三郎左衛門が忍びの国との戦いでは、キーパーソンの一人となっていく。
具教に信雄の暗殺意図を事前に告げに行った者がいる。信雄の妻となっていた凜である。凜から直にそのことを聞いた具教は、凜に北畠家秘蔵の名器「小茄子」を守り抜けと託して、三瀬御所から落ち延びさせる。「小茄子」は一城に値するとも一万貫に値するとも称される名器なのだ。この「小茄子」が大きな役割を担っていくことになるから、おもしろい。
一方、この三瀬御所に潜入していた下忍がいる。伊賀国喰代(ほうじろ)の地侍、百地三太夫(ももちさんだゆう)に命じられて情勢を窺う伊賀国石川村の19歳になる文吾である。忍びの国が滅びた折、生きのびそののち石川五右衛門と名乗っていく男だ。このストーリーでは、重要な脇役的存在となる。
この物語では、北畠具教が殺され織田信雄の手中に三瀬館が納まった直後に、信長が現れる。その信長が、信雄はじめ兵を前にして、「隣国伊賀には容易なことでは手を出してはならん。虎狼の族(やから)が潜む秘蔵の国と心得よ」と発する。
その伊賀に、なぜ織田信雄が攻め込んだのか。そして一敗地に塗れる仕儀に立ち至ったのか。そこにこの作品のテーマの一つがあるだろう。
もう一つのテーマは、伊賀国・忍びの国がどんな風土であり、伊賀の忍びの気質がどんなものだったか。忍びの働きが何を動機として、どのような指示・命令で動いていたのか。伊賀の忍びの組織がどのようなもであったか。そんな忍びの国が、なぜ自らの土地を戦場にしたのか。それを描き出すということではないか。
鎌倉幕府滅亡以降、守護不在同然の状態で、小領主(地侍)が乱立し、それぞれが極めて仲が悪く互いに争うという国だったという。その中で忍びの術が磨かれていったのだ。
忍びの側で登場する主な人物が数人居る。
百地三太夫。彼は伊賀国喰代の里を領有する主であり、配下の下忍を自在に操る。己の価値を高め、如何に戦国の世に生き残るかの構想を展開する黒幕的存在として関与していく。三太夫は伊賀国の十二家評定衆に参集を掛けるくらいの権力を有する。
百地三太夫の秘蔵の忍びが「無門」と呼ばれる男。伊賀一国のうちでも「その腕絶人の域」と評される忍びである。だが、主の三太夫の下知を断りさえする男なのだ。この忍びを一つの軸としてストーリーが展開する。一勝したのち殲滅される忍びの国の顛末である。
百地家が下山甲斐の下山砦を攻めている。三太夫は無門に「下山甲斐の次男、次郎兵衛を斬れ」と下知する。無門はその殺し料の額を三太夫と交渉するするのだ。そして、次郎兵衛をあっさりと殺してしまう。その結果、無門は次郎兵衛の兄・下山平兵衛とも闘うこととなる。次郎兵衛の死が伊賀の乱という事態の遠因ともなっていく。そこには思わぬ仕掛けがあった。
この作品でおもしろい点は、無門を行動に駆り立てる動機の一端が、お国という無門の女房との関係性にある。二人の関わり方にはニヤリとせざるを得ない場面や、時にはほほえましい場面すら出てくる。無門は安芸国の千石取りの武将を父に持つお国を巧みにくどいて出奔させ伊賀に連れてきたのだ。「わしは伊賀一の忍びじゃ、それ故お国殿には銭の心配など生涯かけさせぬ。されば伊賀に参り、夫婦になれ」と。
この言が、無門とお国の二人の伊賀での生活と関係を大変微妙にしていく。実におもしろい役回りをお国が果たしていく。
三太夫配下の老忍・木猿、および数年前に死んだ父から鍛冶を仕込まれていて、三太夫に扶持されている少年・鉄が登場する。無門との関わりで木猿と鉄はしばしば登場してくる。料理で言えば、調味料的な役回りと言えるかもしれない。
三太夫が参集した十二家評定は、北畠具教が死に伊勢を織田家が押さえたことで、織田家の軍門に降ると決議する。そして、北畠信雄に十二家評定衆の意向を伝えるために、下山家の嫡男・平兵衛を使者として伊勢に放ち、百地家の下人・文吾を小者を務めさせると決めたのだ。
しかし、下山平兵衛は伊賀を裏切るという行動に出る。使者となって伊勢地口から布引の山中に入ったときに、文吾を斬り傷つけて、喰代に帰らせる。「その傷をもって百地三太夫に伝えよ。下山平兵衛は伊勢軍勢を率いて再び伊賀に舞い戻ってくるとな」と。
百地三太夫の下知で無門が次郎兵衛を斬り殺した。弟の死に対し実父は冷淡な反応をしただけであった。その実父の反応に端を発した伊賀者への憎悪が伊賀者を根絶やしにするという行動へと突き進ませる。その平兵衛が北畠信雄に目通り願いたいとストレートに伊勢側の関所に入っていく。信雄の居城・田丸城に連行されることになり、柘植三郎左衛門との関係ができていく。そこから戦へのストーリーが具体的に展開し始める。
忍びの国での戦である。一筋縄では行かないのがあたりまえ。様々な意図や思いによる関わりと行動が織りなされ、意外な裏の仕掛けが相互に企まれていく。ここが読ませどころである。
領地の拡大・覇権に対する権謀術数のせめぎ合い。登場人物のそれぞれの信条と思いが背景となりそれぞれの行動が展開される。戦国時代の生き様が織りなされていく。伊賀の忍びの戦のしかたが興味深く描かれている。
この作品は天正7年の伊賀国側の戦勝を中心に展開していく。だがその戦勝の結果、無門は伊賀から煙の如く消え去る。それはなぜか? それが本書の読みどころである。お楽しみいただきたい。
最終章は、天正9年の伊賀国の滅亡を伝える。
だが・・・・戦が終焉した段階で、大膳が左京亮に言う。
「斯様なことでこの者たちの息の根は止められぬ。虎狼の族は天下に散ったのだ」と。
終章の末尾のシーンがおもしろい。その結末をどう想像するか。それは読者の想像力に委ねられている。
ご一読ありがとうございます。
注記:参照資料
『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p269-270、p338-342
『原本現代訳 信長公記(下)』 太田牛一原著 榊山 潤 訳 ニュートンプレス p121-122、p229-234
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本書と関連する事項をいくつかネット検索してみた。一覧にしておきたい。
織田信雄 :ウィキペディア
織田信雄 ~織田信長の次男 :「戦国武将列伝β」
北畠具教 :ウィキペディア
丸山城 :ウィキペディア
田丸城跡 :「観光三重」
伊賀上野城 ホームページ
百地三太夫 :「コトバンク」
百地丹波 :ウィキペディア
天正伊賀の乱 :ウィキペディア
百地三太夫 屋敷 :「城と史跡の写真館」
百地三太夫博物館 :「まちかど博物館」
『校正 伊乱記 上』 :「近代デジタルライブラリー」
天正伊賀の乱と名張 pdfファイル 名張史跡顕彰会
伊賀 信長、子の惨敗で大兵力 東海の古戦場をゆく 斉藤勝寿氏
2009年7月21日 :「朝日新聞DIGITAL」
『勢州軍記』 :「古典籍閲覧ポータルデータベース」
二世笠亭仙果著・芳春画/慶応3年
正忍記 忍術秘伝書 :「忍びの館」
万川集海 忍術秘伝書 :「忍びの館」
万川集海 :「伊賀忍者」
『絵本太閤記 上』 :「近代デジタルライブラリー」
岡田玉山 著 成文社 明19.11
『常山紀談 上』 :「近代デジタルライブラリー」
湯浅常山 著[他] 学生文庫 至誠堂
『常山紀談 中』 :「近代デジタルライブラリー」
『常山紀談 下』 :「近代デジタルライブラリー」
『常山紀談』 :「近代デジタルライブラリー」
湯浅元禎 輯[他] 有朋堂文庫 有朋堂 大正15
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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
徒然に読んできた作品の印象記に以下のものがあります。
こちらもお読みいただけると、うれしいかぎりです。
『村上海賊の娘』 新潮社
『のぼうの城』 小学館文庫
一つは、巻十二(天正7年年己卯)に載る「北畠中将殿御折檻状の事」の条である。9月17日に、「北畠中将信雄、伊賀国へ御人数差し越され、御成敗のところに、一戦に及び、柘植三郎左衛門討死候なり」と記す。それに対し、信長は上方への出陣を命じているのに、信雄がかってに伊賀に兵を出したことを叱責している。後内書を認め、信雄の許に使者を派遣しているのだ。叱責の文書には自筆でこういう内容を記したという。「・・・・上方へ出兵すれば、伊勢の国の武士や民百姓の難儀が多い。だから、とどのつまりは国内で問題があれば他国まで出兵しないですむであろうというわけで、このことをもっともであるとおまえは同意し、伊賀への出陣をとったのか。いや、もっとありていに言えば、おまえは若気のあまりに、そのとおりだと自分から思い込んで、伊賀あたりへ出兵したのではないか。さてもさても無念の極みである。・・・・・柘植三郎左衛門を始めとして、大事な武将達を討ち死にさせたことは言語道断、けしからぬことである。おまえがそのような心がけでいるのでは、親子の縁も認めるわけにはいかない」と。
そして、巻十四(天正九年辛巳)の「伊賀国、三介殿仰せつけらるる事」において、9月3日「三介信雄伊賀国へ発向。」から始まり、信長軍の諸大将が四方からなだれ込み、9月11日に至りほぼ戦いの決着がつく。『信長公記』に記述はないが、信長は4万4千余の軍勢を伊賀にさしむけたとする。
つづく「伊賀国へ信長御発向の事」の条において、10月9日に「伊賀国ご見物として、・・・其の日、飯道寺へ、信長公御上りなされ、是より国中の躰御覧じ、御泊り。」10月13日「伊賀国一宮より安土に至りて御帰城。」10月17日に、信長は長光寺山で鷹狩りをしている一方で、「伊賀国中切り納め、諸卒悉く帰陣なり」という結末となる。つまり、伊賀国、忍びの国が滅びたのだ。
この作品は、『信長公記』でこのように記される伊賀国の忍びが己の土地で如何に戦い、どのように滅びて行ったかが描かれている。
物語は天正4年(1576)から始まり、主な登場人物のプロフィールが明らかになっていく。
織田信長の次男、織田信雄は伊勢国・北畠具教(きたばたけとものり)の六女・凜を嫁に貰い北畠家の養子に入っている。その信雄が、長野左京亮(さきょうのすけ)、日置(へき)大膳、柘植三郎左衛門という家臣を引き連れ、三瀬谷にある具教の三瀬御所を訪れ、具教を抹殺する。
大膳と左京亮は伊勢侍で、ともに北畠家の譜代の重臣であり、北畠具教は元の主だった。信長と具教が激突した大河内合戦での和睦の結果、信雄の北畠家に婿入りし、大膳と左京亮が信雄を主にする立場になったのだ。左京亮は戦国の世の時勢の変化をやむなく受け入れ、元の主である具教の抹殺の実行に手を染める。最後まで、元の主の抹殺に抵抗心を抱く大膳は、結局左京亮を助ける形で、具教を殺める立場に立つ。大膳に横胴を薙ぎ払われた具教は、死を悟ると大膳に小声で意外なことを語る。「これより伊勢は名実ともに織田家のものとなる。大膳、おのれも家臣を持つ身ならば、その者どもの安寧のみを考えよ。今後は織田家とともにいきるのだ。」と。
柘植三郎左衛門は、『信長公記』にその名が記されている。信長が好んだ男のようだ。三郎左衛門は北畠家の一族にあたる木造家(こつくりけ)の家老だったが、木造家が信長に寝返り伊勢侵攻を推進したのがこの三郎左衛門だった。木造家の裏切りが判明した時点で、具教に差し出されていた三郎左衛門の妻と9歳の娘が具教により殺される。ともに縊り殺された後、串刺しにされ、三郎左衛門の籠もる木造城向けに見せしめとしてさらされたのだ。なお、この男の出自は伊賀だったという。柘植は父祖元来、伊賀国住人弥平兵衛宗清の末裔なのだという。三郎左衛門の時代に伊勢に渡り、木造氏に仕えたのだ。この三郎左衛門が忍びの国との戦いでは、キーパーソンの一人となっていく。
具教に信雄の暗殺意図を事前に告げに行った者がいる。信雄の妻となっていた凜である。凜から直にそのことを聞いた具教は、凜に北畠家秘蔵の名器「小茄子」を守り抜けと託して、三瀬御所から落ち延びさせる。「小茄子」は一城に値するとも一万貫に値するとも称される名器なのだ。この「小茄子」が大きな役割を担っていくことになるから、おもしろい。
一方、この三瀬御所に潜入していた下忍がいる。伊賀国喰代(ほうじろ)の地侍、百地三太夫(ももちさんだゆう)に命じられて情勢を窺う伊賀国石川村の19歳になる文吾である。忍びの国が滅びた折、生きのびそののち石川五右衛門と名乗っていく男だ。このストーリーでは、重要な脇役的存在となる。
この物語では、北畠具教が殺され織田信雄の手中に三瀬館が納まった直後に、信長が現れる。その信長が、信雄はじめ兵を前にして、「隣国伊賀には容易なことでは手を出してはならん。虎狼の族(やから)が潜む秘蔵の国と心得よ」と発する。
その伊賀に、なぜ織田信雄が攻め込んだのか。そして一敗地に塗れる仕儀に立ち至ったのか。そこにこの作品のテーマの一つがあるだろう。
もう一つのテーマは、伊賀国・忍びの国がどんな風土であり、伊賀の忍びの気質がどんなものだったか。忍びの働きが何を動機として、どのような指示・命令で動いていたのか。伊賀の忍びの組織がどのようなもであったか。そんな忍びの国が、なぜ自らの土地を戦場にしたのか。それを描き出すということではないか。
鎌倉幕府滅亡以降、守護不在同然の状態で、小領主(地侍)が乱立し、それぞれが極めて仲が悪く互いに争うという国だったという。その中で忍びの術が磨かれていったのだ。
忍びの側で登場する主な人物が数人居る。
百地三太夫。彼は伊賀国喰代の里を領有する主であり、配下の下忍を自在に操る。己の価値を高め、如何に戦国の世に生き残るかの構想を展開する黒幕的存在として関与していく。三太夫は伊賀国の十二家評定衆に参集を掛けるくらいの権力を有する。
百地三太夫の秘蔵の忍びが「無門」と呼ばれる男。伊賀一国のうちでも「その腕絶人の域」と評される忍びである。だが、主の三太夫の下知を断りさえする男なのだ。この忍びを一つの軸としてストーリーが展開する。一勝したのち殲滅される忍びの国の顛末である。
百地家が下山甲斐の下山砦を攻めている。三太夫は無門に「下山甲斐の次男、次郎兵衛を斬れ」と下知する。無門はその殺し料の額を三太夫と交渉するするのだ。そして、次郎兵衛をあっさりと殺してしまう。その結果、無門は次郎兵衛の兄・下山平兵衛とも闘うこととなる。次郎兵衛の死が伊賀の乱という事態の遠因ともなっていく。そこには思わぬ仕掛けがあった。
この作品でおもしろい点は、無門を行動に駆り立てる動機の一端が、お国という無門の女房との関係性にある。二人の関わり方にはニヤリとせざるを得ない場面や、時にはほほえましい場面すら出てくる。無門は安芸国の千石取りの武将を父に持つお国を巧みにくどいて出奔させ伊賀に連れてきたのだ。「わしは伊賀一の忍びじゃ、それ故お国殿には銭の心配など生涯かけさせぬ。されば伊賀に参り、夫婦になれ」と。
この言が、無門とお国の二人の伊賀での生活と関係を大変微妙にしていく。実におもしろい役回りをお国が果たしていく。
三太夫配下の老忍・木猿、および数年前に死んだ父から鍛冶を仕込まれていて、三太夫に扶持されている少年・鉄が登場する。無門との関わりで木猿と鉄はしばしば登場してくる。料理で言えば、調味料的な役回りと言えるかもしれない。
三太夫が参集した十二家評定は、北畠具教が死に伊勢を織田家が押さえたことで、織田家の軍門に降ると決議する。そして、北畠信雄に十二家評定衆の意向を伝えるために、下山家の嫡男・平兵衛を使者として伊勢に放ち、百地家の下人・文吾を小者を務めさせると決めたのだ。
しかし、下山平兵衛は伊賀を裏切るという行動に出る。使者となって伊勢地口から布引の山中に入ったときに、文吾を斬り傷つけて、喰代に帰らせる。「その傷をもって百地三太夫に伝えよ。下山平兵衛は伊勢軍勢を率いて再び伊賀に舞い戻ってくるとな」と。
百地三太夫の下知で無門が次郎兵衛を斬り殺した。弟の死に対し実父は冷淡な反応をしただけであった。その実父の反応に端を発した伊賀者への憎悪が伊賀者を根絶やしにするという行動へと突き進ませる。その平兵衛が北畠信雄に目通り願いたいとストレートに伊勢側の関所に入っていく。信雄の居城・田丸城に連行されることになり、柘植三郎左衛門との関係ができていく。そこから戦へのストーリーが具体的に展開し始める。
忍びの国での戦である。一筋縄では行かないのがあたりまえ。様々な意図や思いによる関わりと行動が織りなされ、意外な裏の仕掛けが相互に企まれていく。ここが読ませどころである。
領地の拡大・覇権に対する権謀術数のせめぎ合い。登場人物のそれぞれの信条と思いが背景となりそれぞれの行動が展開される。戦国時代の生き様が織りなされていく。伊賀の忍びの戦のしかたが興味深く描かれている。
この作品は天正7年の伊賀国側の戦勝を中心に展開していく。だがその戦勝の結果、無門は伊賀から煙の如く消え去る。それはなぜか? それが本書の読みどころである。お楽しみいただきたい。
最終章は、天正9年の伊賀国の滅亡を伝える。
だが・・・・戦が終焉した段階で、大膳が左京亮に言う。
「斯様なことでこの者たちの息の根は止められぬ。虎狼の族は天下に散ったのだ」と。
終章の末尾のシーンがおもしろい。その結末をどう想像するか。それは読者の想像力に委ねられている。
ご一読ありがとうございます。
注記:参照資料
『新訂 信長公記』 太田牛一 桑田忠親校注 新人物往来社 p269-270、p338-342
『原本現代訳 信長公記(下)』 太田牛一原著 榊山 潤 訳 ニュートンプレス p121-122、p229-234
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織田信雄 :ウィキペディア
織田信雄 ~織田信長の次男 :「戦国武将列伝β」
北畠具教 :ウィキペディア
丸山城 :ウィキペディア
田丸城跡 :「観光三重」
伊賀上野城 ホームページ
百地三太夫 :「コトバンク」
百地丹波 :ウィキペディア
天正伊賀の乱 :ウィキペディア
百地三太夫 屋敷 :「城と史跡の写真館」
百地三太夫博物館 :「まちかど博物館」
『校正 伊乱記 上』 :「近代デジタルライブラリー」
天正伊賀の乱と名張 pdfファイル 名張史跡顕彰会
伊賀 信長、子の惨敗で大兵力 東海の古戦場をゆく 斉藤勝寿氏
2009年7月21日 :「朝日新聞DIGITAL」
『勢州軍記』 :「古典籍閲覧ポータルデータベース」
二世笠亭仙果著・芳春画/慶応3年
正忍記 忍術秘伝書 :「忍びの館」
万川集海 忍術秘伝書 :「忍びの館」
万川集海 :「伊賀忍者」
『絵本太閤記 上』 :「近代デジタルライブラリー」
岡田玉山 著 成文社 明19.11
『常山紀談 上』 :「近代デジタルライブラリー」
湯浅常山 著[他] 学生文庫 至誠堂
『常山紀談 中』 :「近代デジタルライブラリー」
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『村上海賊の娘』 新潮社
『のぼうの城』 小学館文庫