遊心逍遙記

読書三昧は楽しいひととき。遊心と知的好奇心で本とネットを逍遥した読後印象記です。一書がさらに関心の波紋を広げていきます。

『櫛挽道守』 木内 昇  集英社

2015-01-29 10:05:42 | レビュー
 中山道の江戸から京を繋ぐほぼ真ん中が木曽である。その木曽十一宿のうち、信濃国の北に位置し、江戸からくると「贄川 ・奈良井 ・ 藪原 ・ 宮ノ越」と続くのが上四宿。この作品は、薮原宿の名産「お六櫛」を製作する父・吾助の櫛挽きに魅了され、父の櫛挽きの技を継承しようと一途に精魂を傾ける長女・登瀬の生き方を克明に描き込んでいく。

 「お六櫛という薮原名産のこの櫛は、飾り櫛とも解かし櫛とも異なり、髪や地肌の汚れを梳(くしけず)るのに用いられている。なぜ『お六櫛』と呼ばれるようになったのかは登瀬も詳しくは知らぬのだけれど、頭垢(おろこ)をとるからだとも、昔お六というおなごが頭の痛んだときにこの櫛を使ったら痛みが消えたからだとも言い伝えられている。」(p14)と著者は記す。お六櫛が一躍世に知られるようになったのは、文化年間(1804~1818)に山東京伝が書いた『於六櫛木曾仇討(おろくぐしきそのあだうち)』という読本が流行したことに一因があるそうだ。

 登瀬の家は代々、薮原宿下町でお六櫛を挽く櫛師の家であり、この櫛挽きで活計(たつき)を立ててきた。父の吾助は薮原では誰もが認める櫛挽きの技量をもつ名人である。当て交いという治具なしに手造りの鋸で櫛を挽くという神業にちかい技の持ち主。朝飯前から板ノ間にこもり、食事など以外は一日中座り詰めて、延々夜更けまで引き続けるという職人生活をおくっている。その父の背を見つめて育った登瀬は、父の神業ともいうべき櫛挽きの技に魅せられて、自分もその技術を習得し、父のようなお六櫛を挽きたいと望み、櫛挽きの仕事を手伝う生活を父の傍で続けていく。
 その登瀬に母・松枝は櫛挽きの技を学んでもしかたがないと諭す。女の仕事は飯炊きと櫛磨きであり、櫛挽きは男の仕事なのだという。料理その他家事仕事を身につけ、年頃になれば嫁ぎ、嫁ぎ先の家の仕事を助けることになるのだからという価値観である。だから母から見れば、登瀬の行動は「おなごの仕事」を外れた行動をしていて困った娘という事になる。そんな登瀬の生き方がこの作品のテーマとなっている。
 とはいうものの、読後印象として、「お六櫛」とは何か。お六櫛はどのようにして作られてきたのかというテーマがこの作品の根底にある気がする。吾助が櫛挽きする作業工程とその櫛挽きの技を、登瀬並びに実幸の目を通して緻密に描いている。著者はお六櫛の伝統的な製作工程を細密に納得のいくまで観察し、思いをこめてそれをこの作品に書き込んでいるように感じる。

 一方で、いくつかのサブテーマがありそうだ。それが登瀬の生き方と際だったコントラストとなり、時代感に溢れた奥行きのあるストーリーとなっていく。
 登瀬は父の背を見て育ち、薮原宿という地域、薮原宿下町を中心とした限定的小世界しか知らない。他所の土地に行ったこともなければ時代の流れともほぼ隔絶した環境の中で生きている。父の神業とも言える櫛挽きの技術を修得したいという一途の思いで「お六櫛」中心の日常生活をおくっている。
 その登瀬に関わってくるのが、江戸時代の末期、幕末動乱を呼び起こすという時代背景である。登瀬の住む木曽の一地域から登瀬という女性との関わりで間接的に江戸時代・幕末の有り様を浮かび上がらせるというサブ・テーマが含まれている。
 嘉永年間(1848~1854)から元治年間(1864~1865)あたりが時代背景となる。それは12歳で亡くなった登瀬の弟・直吉に関わる話の展開という形で、登瀬の心に重要な位置をしめるものとして、ストーリーの中に色濃く織りなされていく。
 直吉は現代風に言えば心臓麻痺で死ぬ。その死後、ひょんなことから、直吉が絵草紙の類いを作成し源治という少年と一緒に旅人に売っていたということが分かる。登瀬は直吉が生前何をどんな思いでしていたのかをすべて知りたいと願うのだ。源治との関わりを通して時代の動きの一端に触れてゆく。源治を介して、登瀬は時代の動きを感じる。そこには、幕末動乱期における地方の人々の感覚が描かれているようにも思う。
 また、当時の女性の立場、「家」「結婚」ということへの価値観やその感覚が、登瀬と接する村の女たち、母・松枝の言動、及び嫁ぐ意識のない姉の陰に置かれていた妹・喜和の生き方を通して、描かれていく。何時までも自ら嫁ぐという意識のない姉にしびれをきらせ、行き遅れることを恐れ、己の人生を考える喜和の言動と強引に見出した嫁ぎ先での生き方を通して語られていく。さらに登瀬が豊彦と結婚し、櫛挽きの道を続けて行く結婚観にも時代の倫理が現れてくる。

 二つ目のサブ・テーマは、その実幸である。吾助に弟子入りし、入り婿になる実幸という男の生き方。
 実幸は鳥井峠で隔たる奈良井宿の脇本陣を営む名家の四男坊である。同宿の解かし櫛職人のもとへ13歳で弟子入りし、独立できる程に技をみにつけたという。その実幸が薮原の櫛問屋・三次屋伝右衞門とともに太吉を訪れる。江戸の蒔絵櫛の蒔絵師・羊遊斎のもとに修業に行くという。その前にお六櫛の櫛師・吾助の仕事を見る機会を得たいという目的だった。実幸は、総髪髷に白い肌と役者絵を思わせる涼しい目元であり、絹物らしい着流し姿で現れたのだ。その実幸が江戸での修業を終えると、吾助のもとに再び現れ、弟子入りするのである。
 そこから実幸がお六櫛製作の技を学びつつ、櫛の流通経路について独自の動きを始める。薮原における櫛問屋と櫛師の因襲的な関係のあり方に一石を投じていくのである。なぜ、江戸まで修業に出て技を磨いた実幸がお六櫛に戻ってきたのか。そこには櫛の世界を見定めた実幸の大きな意図があった。
 一方、実幸の技が天分であると見抜く吾助は、櫛の製作以外のことについては一切口を挟まない。その実幸の才は登瀬にとって一つの脅威を覚える対象にもなっていく。その実幸が薮原に己の基盤を据えると、婿入りを願い吾助夫妻に受け入れられる。父の技を追う櫛挽き一途の登瀬の生活が変化していく。父の跡を引き継ぐのは自分だと精進してきた登瀬の意識が、実幸の婿入りと彼の櫛挽きの技の前で揺らぎ始め、妻となった登瀬の懊悩が始まる。実幸の生き方を父・吾助と対置しながら眺める登瀬には、いつしか実幸の人生について違った側面が見え始めてくる。
 
 江戸幕府が長州征伐を行う矢先に川家茂が身罷り、将軍不在の様相がつづく。一方江戸や大阪で打ち壊しが起こり、勤王派の諸藩の台頭が確かになってきている。
 そのような時代に父・吾助が登瀬に言う。
「われやん夫妻の拍子はとてもええ。銘々の拍子だで、揃ってはないだども、二つ合わさるとなんともきれいだ。こんねにきれいな拍子をおらは聞いたことがないだでな」と。

 著者はまた最終ステージで吾助にこう語らせる。
「おらの技はもう登瀬の内にあるで。すべて登瀬の内にある。だで、登瀬が誰かにそれを授ければ、この技は必ず続いていぐだに。おらはなんも案じとらん」
「先代、先々代からずっと受け継いできたものだげ。おらのこの身が生きとる間、ただ借りとる技だ。んだで、おらの技というこどではねえんだ」と。
 「櫛挽道守」という作品タイトルはこの吾助の言葉に照応していると思う。

 登瀬を軸に、お六櫛に人生を託した人々の小世界が濃密に描き込まれていく。読み応えのある作品である。

 ご一読ありがとうございます。

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本書に関連する事項、出てくる用語について、関心にまかせてネット検索してみた。一覧にしておきたい。

中山道  :ウィキペディア
薮原宿  :ウィキペディア
木曽のお六櫛  KisomuraNet
  お六櫛とは 
  お六櫛の種類と形
  お六櫛の伝統技法(櫛の材料、みねばりについての説明も掲載あり)
木曽のお六櫛 :「源流の里 信州木祖村」
お六櫛の由来 :「お六櫛本舗」

徳川慶富(よしとみ)→ 徳川家茂  :ウィキペディア
徳川慶喜  :ウィキペディア
有栖川宮熾仁親王  :ウィキペディア
和宮親子内親王  :ウィキペディア

天狗党の乱  :ウィキペディア
水戸幕末争乱(天狗党の乱)  鈴木暎一氏  :「茨城大学図書館」
寺田屋事件  :ウィキペディア
寺田屋事件  :「坂本龍馬の背中を追う」
長州征伐   :ウィキペディア
四境戦争(第二次長州征伐)~小瀬川口の戦い(1)~ 「維新史回廊だより」
四境戦争(第二次長州征伐)~小瀬川口の戦い(2)~ 「維新史回廊だより」
四境戦争(第二次長州征伐)~大島口の戦い~ 「維新史回廊だより」


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