「上杉本 洛中洛外図屏風」という六曲一双の屏風絵が、国宝として米沢市上杉博物館に所蔵されている。この洛中洛外図は狩野永徳が描いた作品であり、天下統一を狙う織田信長が、天正2年(1574)に上杉謙信へ贈ったといわれるものだ。そのことは、米沢藩の正史である「歴代年譜 謙信公」(元禄9年・1696:国宝上杉文書)に記録されている。(資料1)
プロローグは、右半身が白、左半身が黒の片身合わせというかぶき者が好む装束で、狩野永徳が織田信長の引見に臨むという場面から始まる。冒頭、信長の背後にある屏風が、「とてつもない若作でお恥ずかしいかぎり」と述べる。信長には、「屏風の中で吠える虎は見るこちらを身震いさせるほどの迫真でもってこちらに迫ってくる」(p10)ものに感じられるのだ。永徳はその屏風が粉本を元に作った絵であり、「粉本で描かれた絵にはまるで魂がこもりませぬ」と信長に答える。そして、献上品を持参したと告げる。献上品と一緒にさる物語も献上すると伝えてあるという。「この絵の様は、尾張の田舎領主であったお方が、気付けばこうして天下に号令をしている様とも似ていましょうや」
この永徳の不遜とも言える挑発的な言いざまに、信長はその話に受けて立つと肚を決める。そして、源四郎(永徳)が6歳、天文17(1548)年のことから己と献上品に関わる話を始めるのだ。
源四郎の語る長い話は、永禄11(1568)年7月、足利義輝の弟義昭を伴い、尾張の国主・織田信長が上洛した時点で終わる。つまり、源四郎の話は6歳から26歳頃までの物語である。永徳が没するのは天正18(1590)年9月14日、享年48歳なので、前半生の物語といえる。
エピローグは、献上品が六曲一双の屏風であること。つまり、冒頭の屏風であることが明らかになる。そして、信長と永徳の会話シーンが印象深い。
「で、なぜこれをわしのところへ持ってきた?」
「天下に、一番近いお方ゆえにございます」
「ほう、新たな天下人へのおもねりか」
「まさか。新たな天下人であるあなた様に挑みに来たのです」
このあと、対話が続くが、会話の終わりがおもしろい。
「わしにとって貴様は未だ凡百の絵師の一人よ。貴様ごとき小者が政を語る不遜もあれど、それもまた、此度の公方様との合作により赦免する。・・・」
「次に、これ程度の腕で天下に対する絵師と自負し、政を語るとしたら--。貴様を斬るぞ。
「越えなければならぬ壁が目の前に立っていることが、なんと面白き事だと思いました。天下のみならず、まずはあなた様を越えなければならぬのですね」
実におもしろい壮大なやりとりではないか。
最後の永徳の独白が良い。「もしも独りになってしまったとしても進む。それが、わしなのだから」
さて、源四郎が信長に献上した物語である。それは、洛中洛外図をでんと中軸に据えて、若き日の狩野源四郎(永徳)像を描き出していく。源四郎の祖父・元信が絵師・狩野家の土台を確立した。そして、狩野家とその一門、つまり狩野家の工房を発展させていくために、粉本(=見本絵)を基本に絵を描くことを確立する。源四郎の父・狩野松栄(しょうえい)は、父・元信の確立させた路線を発展させて、狩野家工房の総領となっている。粉本を種本にして、求められた絵を描きあげていくという手法である。
松栄は「実物を見て描く。それは魔境に入る元ぞ」という小言を決まり切って源四郎に言う。実物を書くためには基礎技術が必要で、粉本をなぞることが描く物の「かたち」を頭の中に入れることだというのである。
そして、狩野の工房は、幕府から扇絵を描く許可を得て、それを扇屋に引き渡している。それが工房運営の日常業務でもあるのだが、その扇絵は粉本を元に、注文の絵を描くことになる。それが狩野派の描いた扇絵ブランドで売られていくことになる。粉本を元に絵を描くことに、6歳の源四郎は早くも疑問を感じ、粉本を元に扇絵を描くことに懊悩している。独自の絵を描くと、父松栄から叱責されるのだ。「何度言ったらわかるのだ。我らが参考にするのは粉本だ」と。
そして、この物語は洛中洛外図に描き込まれている市中の賭け闘鶏の場面から始まる。それは、6歳の源四郎が祖父元信に連れられて市中で目にした闘鶏だ。その場は、年の頃はあまり変わらないが、「侍風の髷をこしらえ、白い直垂姿の少年」を目にする場でもあった。その少年は腰に煌びやかな金で縁取りされた小太刀をぶらさげていたのである。源四郎は、祖父から懐紙を得る。元信に肩車してもらい闘鶏を見ている状態で、墨がないために己の鼻の奥をひっかいて、鼻血を使い絵を描く。貴人の少年は、源四郎の絵を見て、見事な絵と評価する。その絵を偶然に見た町衆は単なる落書きとしか感じていないのだ。
そのシーンは、源四郎と後に将軍となる足利義輝との出会いだった。
冒頭の洛中洛外図からその場面を引用させてもらおう。
この物語、絵師としての源四郎の絵についての懊悩・葛藤のストーリー展開でもある。メインの流れは、足利義輝の求め、与えられた課題に対して、源四郎独自の絵を描くプロセスを語っていく。
一方、狩野家の工房において、元信が引退し、父・松栄の許で、元服した源四郎は若総領の立場に置かれる。粉本を許にした扇絵、注文絵を描き、工房の人々を束ねていかねばならないのだ。それは懊悩の始まりである。魂のない絵を描く事への憤懣、懊悩。だがやらざるを得ない。
扇絵を描く許可を幕府から得ていても、それを売るのは狩野家の仕事ではない。市中の扇屋の仕事であり、扇屋が狩野家の扇として売ってくれる。それは狩野家の工房の生業ともなっている。大きな収入源の一つなのだ。
狩野の扇絵を商う美玉屋の安は源四郎に言う。
「その絵はいかん。なにせあんたの絵は--新しすぎる。この絵を町衆が欲しがるまでに、あと三十年はかかるのと違いますかな」と。また、「馬鹿おっしゃいますな。わしはずっと、あんたのことを褒めてきましたよ。けど、あんたの描きたいものは、町衆には売れん。だから商売人として見た時、あんたの描きたい絵はいらん。それだけのことですわ。」(p311)とも。
時代の先を歩む画家は洋の東西を問わず居るのだ。著者は、将軍義輝が永徳にとって、その理解者の最初の一人だと描いて行く。否、永徳の本来の絵を引き出す役割を果たした人として描き出されているようにも感じる。源四郎の語るのは、公方様との関わりの中で花開いてきた永徳独自の画境についてである。
洛中洛外図には、ちゃんと扇屋の店まで描かれている。
6歳の時に、源四郎は父・松栄にこう問う。
「師匠、本当に、粉本を学ぶことがいい絵につながりましょうや?」(p18)
祖父、元信にも扇子に描いた絵について、どう思うかと聞かれ、
「ただ、きれいな色を並べただけのように思えます」(p16)と答えるのだ。
己の才能を知り、父元信の確立した粉本で絵を描く工房組織の維持発展に注力した源四郎の父松栄の絵画思想と、源四郎は対立して行かざるをえない宿命である。それはまさに、祖父の才能の隔世遺伝と言えるのかもしれない。元信は源四郎の能力を認め、それが花開くことを楽しんでいるように思える。著者は、物語の始まり近くで元信にこう語らせている。
「そうか、ならば、お前がこの扇を、いつか面白う変えてみよ。そしてそれは、わしを超えることぞ。実に楽しみなことだのう。源四郎」(p16)
「源四郎は、狩野を創るか。それとも、壊すか」(p35)と。
父・松栄との絵画上での価値観の対立は深い。松栄は天文21(1552)年、10歳頃の源四郎に言う。「考えなど不要と前から申しておろうが。なぜお前はいつもそうなのだ。粉本を見よ、先人たちの仕事を見よ。定石を踏め。さすれば何も思い煩うことなく扇絵の一つや二つ描けようぞ」(p37)と。
父子の絵に対する姿勢の対立は、徐々に先鋭化していかざるを得ない。
「父上。わしは越える。狩野を。否、目の前にあるすべてを。そうでなくばわしは、わしではなくなる」(p319)とまで言わせるに至る。
なぜ、「画狂伝」なのか? 著者は、父・松栄に「魔境に入る」と表現させ、源四郎には、彼の思いを累々と語らせ、反語的に己の気持ちをすら告白させていく。このスト-リー展開がおもしろい。絵に対する思想の違い、それが渦巻いていく。一方、天文21年に源四郎を引見した公方様・義輝は、松栄とは対極的な位置に居る。源四郎の画狂の局面を開化させる梃子の役割を果たしていく。この二極の狭間で苦闘し、懊悩しながら、源四郎が己の画境を開いていくプロセスが読ませどころである。
物語の副次的な流れがある。これも興味深い側面であり、それらがメインの展開に大いに関わり、織り交ぜられていく。
その1つは、源四郎が元服し若総領となった以降に、狩野家に家事見習いとして預けられた廉という少女である。元信が源四郎にこの廉を引き合わせ、土佐家の当主の依頼で預かったと告げるところから、始まっていく。源四郎はその廉が実は許嫁であることを知らぬまま、廉との関係がはじまる。「これが、あの狩野源四郎の描く絵なの? この程度の絵、うちの若い絵師でも描けるんじゃないかしら」と廉が遠慮なく言う事から話が進展していくというおもしろさ。実は廉は源四郎本来の絵が好きで、理解者でもあるのだ。二人の関係の在り方と進展具合が、興味深く読ませるところである。
2つめは、源四郎が将軍義輝に引見された以降に、松永弾正との関わりができていくことでのエピソード。このストーリーに深く関わるのだが、興味深い弾正の言、源四郎に語る一節がある。
「世の中には、自分にしか見えぬ己が正解がある。少なくとも、わたしにはそう思える。だが、そうやって見える正解は、いつも世間の連中を驚かせるものばかりらしい」(p120)
「きっとそちは、依頼人の言葉に『はい、はい』と従うような作り手ではないだろう。--これまで、多くの作り手を見てきた。だからこそ、判ることもある。・・・そちは、言うなれば、わしら好事家が求める作り手なのかもしれぬ」(p215)
その松永弾正にも関係しているのだが、得たいの定かでない日乗という男と源四郎とのの出会いであり、両者の関わりの深まりである。源四郎は義輝に引見され、その場で日輪を描いて持ってくるようにと所望される。狩野屋敷の一隅の膠小屋で膠を溶かす仕事に従事する老人から、京界隈に評判の陰陽師がいて日蝕のおこる時を予言していることを源四郎は聞く。源四郎がその陰陽師に会いに行く。それが日乗である。日乗はいつからか比叡山で修行する坊主になっていく。生臭坊主と自認しながら、源四郎との関係は継続していく。その日乗が、時折源四郎に義輝や松永弾正との関わり方について助言したり、世の中の動きをそれとなく教えたりする役割を果たす。だが、そこには日乗の裏の意図があった。ただ単に己の打算だけで源四郎との人間関係を進展させていくだけでないのが、おもしろいところでもある。そして源四郎に己の立場を種証しするところまでに至る。
この日乗という生臭坊主は著者の創作なのだろうか? 最後に正体の一端を明かすとはいえ、実在の人物を踏まえて書き込んだのか、単なるフィクションとして組み込まれた人物なのか。この時代、歴史的には、朝日日乗という日蓮宗の僧が実在しているのだが・・・・。この点もわたしには興味深いところである。
3つめは、膠小屋の老人と、そのじいさんが5歳になるかならないかの孫・平次を源四郎の許にある日連れてくる。そして、源四郎に使ってやってくれと依頼する。この平次が源四郎の手伝いとして身近な存在になる。源四郎が平次を供にして、洛中洛外に出て絵の材料を描きに出歩くことになる。その平次が身の回りの手伝いから、絵師の端くれになっていく様子の中で、狩野家の工房の一端が描き込まれていくことにもなる。
ストーリー展開での山場という点で眺めていくと、いくつかの観点で意味合いを深める場面が積み重なっていく。
賭け闘鶏(1章軍鶏)の場、義輝と源四郎の対面の場(1章軍鶏)、松永弾正の催した連歌会の後での弾正と源四郎の対話場面(2章錆色)、廉に誘われて源四郎が紅葉を見に出かけた場面(2章錆色)、源四郎が元信になぜ粉本などを作ったのか問う場面(3章魔境)、担当分の扇絵を源四郎が描いていないことに対する松栄との対立場面(3章魔境)、松永弾正邸での源四郎・元秀兄弟の競絵と後日譚の場面(4章競絵)、疫病に罹り死亡した平次の代わりに元秀が源四郎に洛中洛外図の完成を促し助けて仕上げる場面。
個々に読み応えがあるとともに、それらが呼応してストーリーを充実させていく。
下絵から遂に洛中洛外図を完成させる最後の段階がこの物語の始まりに照応させられている。始まりの箇所から絵を飛躍させるところがおもしろい。
それがこの賭け闘鶏の図の部分に潜んでいる。何がおもしろいかは本書をお読みいただきご理解願いたい。それは事実の世界から絵の創作世界へ飛躍させたことにある。
本書のこんな章句もご紹介しておきたい。
*錆びついても動く、そういう魂が大事なのかもしれぬな。 p150
*絵はいい。そこには何の嘘も腹の探り合いもない。絵にあるのは、天と地、そして自分のみではないかえ。 p176
*お前の絵の力は、お前のものぞ。お前という人間の持つ強さ。それが絵を輝かせているのだと思うた。 p304
*これまでずっと、自分はずっとはるか高みを目指していたような気がしていた。しかし、それは違った。高みを目指しているのは、源四郎の魂ではない。源四郎の手だった。筆を取った源四郎の手は、源四郎の体を魂ごとひきずってどんどん高みへと引っ張っていってしまう。そのせいで、源四郎自身も、自分が高みに上りたいのだと誤解していた。しかし、心の命じるままに口を動かしてみて初めて目の前に自分の心が目の当たりになってみると、一職人として終わりたい、とすら願っている自分の姿が顔を出した。 p319
*世の中には普通の人間には見えない才能があって、それを見ることができる人間は簡単にその才覚の持ち主を見出すことが出来るものなのかもしれない。 p208
最後に、著者は本書で源四郎が洛中洛外図を完成させるようにと、元秀に手伝うと言わせ後押しさせている。その時、元秀はこう語る。
「あの競絵の時。兄上が即興で描かれた絵に、思わずわしは見惚れておりました。確かにその絵は粉本から大きく逸脱したものでございましょう。しかし、わしは、あの絵を美しいと思った。その瞬間から、兄上の絵を支えよう、そう決めたのです」(p358)と。
京都国立博物館開館100周年記念での特別展覧会図録『黄金のとき ゆめの時代 桃山 絵画賛歌』が手許にある。冒頭文「祭の終り-桃山時代絵画の眺望-」(狩野博幸氏)を読むと、永徳の弟・狩野宗秀つまり元秀について、『本朝画史』(狩野永納著)に載る評価が引用されている。「画法専学家兄、能守規矩、然不及父兄」つまり、「永徳に画法を学んで狩野家らしい作品を作ったが、松栄にも、ましてや永徳にも及ぶものではなかった」と。
また、特別展覧会図録『狩野永徳』(京都国立博物館、2007年)の冒頭文「狩野永徳の生涯」(山本英男氏)を読むと、「上杉本 洛中洛外図屏風」は図の景観年代と贈与の時期に大きなズレが認められることから、作期と注文主についての論争がさまざまに繰り広げられてきたそうであり、足利義輝が描かせたというのが現在の最も有力な説だとする。つまり、この著者はこの有力説をベースに本書を構想したといえる。山本氏によると『(謙信公)御書簡集』の記載により、作期は永禄8年(1565)9月3日に描き終えたことが明らかになったという。
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ネット検索してみた内容を一覧にまとめておきたい。
狩野永徳 :「Salvasty.com」
主要作品の解説と画像が掲載されています。
狩野永徳 :ウィキペディア
No. 58 狩野永徳展の物語/中部義隆 :「京都国立博物館」
足利義輝 :ウィキペディア
足利家と足利義輝 :「足利家武将名鑑」
宗養 美術人名辞典の解説 :「コトバンク」
朝日日乗 :ウィキペディア
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)
狩野永徳に関連して、拙ブログでは以前に、山本兼一著
『花鳥の夢』(文藝春秋刊)について読後印象を記しています。
こちらもご一読いただけるとうれしいです。
山本兼一氏が去る2月13日に肺腺がんで逝去された。享年57歳。
これからますますすばらしい作品が創出されることを期待していたのに・・・・嗚呼。
山本兼一作品について、この「遊心逍遙記」を書き出して以降に徒然に読んできた作品について記しただけですが、以下の通りです。作家を追悼するのは、その作品に触れるのが何よりだと存じます。そのきっかけになるようであればうれしいです。
『利休の風景』 淡交社
『命もいらず名もいらず』(上/幕末篇、下/明治篇) NHK出版
『いっしん虎徹』 文藝春秋
『雷神の筒』 集英社
『おれは清麿』 祥伝社
『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社
『まりしてん千代姫』 PHP
『信長死すべし』 角川書店
『銀の島』 朝日新聞出版
『役小角絵巻 神変』 中央公論社
『弾正の鷹』 祥伝社
次作は・・・と作品を期待していた作家の予期せぬ逝去を惜しみます。合掌。
狩野永徳というキーワードの接点で、ここに付記することをご寛恕ください。
(なぜか、2月時点では報道を知らず、昨日ある記事で知り、愕然としたのです。)
プロローグは、右半身が白、左半身が黒の片身合わせというかぶき者が好む装束で、狩野永徳が織田信長の引見に臨むという場面から始まる。冒頭、信長の背後にある屏風が、「とてつもない若作でお恥ずかしいかぎり」と述べる。信長には、「屏風の中で吠える虎は見るこちらを身震いさせるほどの迫真でもってこちらに迫ってくる」(p10)ものに感じられるのだ。永徳はその屏風が粉本を元に作った絵であり、「粉本で描かれた絵にはまるで魂がこもりませぬ」と信長に答える。そして、献上品を持参したと告げる。献上品と一緒にさる物語も献上すると伝えてあるという。「この絵の様は、尾張の田舎領主であったお方が、気付けばこうして天下に号令をしている様とも似ていましょうや」
この永徳の不遜とも言える挑発的な言いざまに、信長はその話に受けて立つと肚を決める。そして、源四郎(永徳)が6歳、天文17(1548)年のことから己と献上品に関わる話を始めるのだ。
源四郎の語る長い話は、永禄11(1568)年7月、足利義輝の弟義昭を伴い、尾張の国主・織田信長が上洛した時点で終わる。つまり、源四郎の話は6歳から26歳頃までの物語である。永徳が没するのは天正18(1590)年9月14日、享年48歳なので、前半生の物語といえる。
エピローグは、献上品が六曲一双の屏風であること。つまり、冒頭の屏風であることが明らかになる。そして、信長と永徳の会話シーンが印象深い。
「で、なぜこれをわしのところへ持ってきた?」
「天下に、一番近いお方ゆえにございます」
「ほう、新たな天下人へのおもねりか」
「まさか。新たな天下人であるあなた様に挑みに来たのです」
このあと、対話が続くが、会話の終わりがおもしろい。
「わしにとって貴様は未だ凡百の絵師の一人よ。貴様ごとき小者が政を語る不遜もあれど、それもまた、此度の公方様との合作により赦免する。・・・」
「次に、これ程度の腕で天下に対する絵師と自負し、政を語るとしたら--。貴様を斬るぞ。
「越えなければならぬ壁が目の前に立っていることが、なんと面白き事だと思いました。天下のみならず、まずはあなた様を越えなければならぬのですね」
実におもしろい壮大なやりとりではないか。
最後の永徳の独白が良い。「もしも独りになってしまったとしても進む。それが、わしなのだから」
さて、源四郎が信長に献上した物語である。それは、洛中洛外図をでんと中軸に据えて、若き日の狩野源四郎(永徳)像を描き出していく。源四郎の祖父・元信が絵師・狩野家の土台を確立した。そして、狩野家とその一門、つまり狩野家の工房を発展させていくために、粉本(=見本絵)を基本に絵を描くことを確立する。源四郎の父・狩野松栄(しょうえい)は、父・元信の確立させた路線を発展させて、狩野家工房の総領となっている。粉本を種本にして、求められた絵を描きあげていくという手法である。
松栄は「実物を見て描く。それは魔境に入る元ぞ」という小言を決まり切って源四郎に言う。実物を書くためには基礎技術が必要で、粉本をなぞることが描く物の「かたち」を頭の中に入れることだというのである。
そして、狩野の工房は、幕府から扇絵を描く許可を得て、それを扇屋に引き渡している。それが工房運営の日常業務でもあるのだが、その扇絵は粉本を元に、注文の絵を描くことになる。それが狩野派の描いた扇絵ブランドで売られていくことになる。粉本を元に絵を描くことに、6歳の源四郎は早くも疑問を感じ、粉本を元に扇絵を描くことに懊悩している。独自の絵を描くと、父松栄から叱責されるのだ。「何度言ったらわかるのだ。我らが参考にするのは粉本だ」と。
そして、この物語は洛中洛外図に描き込まれている市中の賭け闘鶏の場面から始まる。それは、6歳の源四郎が祖父元信に連れられて市中で目にした闘鶏だ。その場は、年の頃はあまり変わらないが、「侍風の髷をこしらえ、白い直垂姿の少年」を目にする場でもあった。その少年は腰に煌びやかな金で縁取りされた小太刀をぶらさげていたのである。源四郎は、祖父から懐紙を得る。元信に肩車してもらい闘鶏を見ている状態で、墨がないために己の鼻の奥をひっかいて、鼻血を使い絵を描く。貴人の少年は、源四郎の絵を見て、見事な絵と評価する。その絵を偶然に見た町衆は単なる落書きとしか感じていないのだ。
そのシーンは、源四郎と後に将軍となる足利義輝との出会いだった。
冒頭の洛中洛外図からその場面を引用させてもらおう。
この物語、絵師としての源四郎の絵についての懊悩・葛藤のストーリー展開でもある。メインの流れは、足利義輝の求め、与えられた課題に対して、源四郎独自の絵を描くプロセスを語っていく。
一方、狩野家の工房において、元信が引退し、父・松栄の許で、元服した源四郎は若総領の立場に置かれる。粉本を許にした扇絵、注文絵を描き、工房の人々を束ねていかねばならないのだ。それは懊悩の始まりである。魂のない絵を描く事への憤懣、懊悩。だがやらざるを得ない。
扇絵を描く許可を幕府から得ていても、それを売るのは狩野家の仕事ではない。市中の扇屋の仕事であり、扇屋が狩野家の扇として売ってくれる。それは狩野家の工房の生業ともなっている。大きな収入源の一つなのだ。
狩野の扇絵を商う美玉屋の安は源四郎に言う。
「その絵はいかん。なにせあんたの絵は--新しすぎる。この絵を町衆が欲しがるまでに、あと三十年はかかるのと違いますかな」と。また、「馬鹿おっしゃいますな。わしはずっと、あんたのことを褒めてきましたよ。けど、あんたの描きたいものは、町衆には売れん。だから商売人として見た時、あんたの描きたい絵はいらん。それだけのことですわ。」(p311)とも。
時代の先を歩む画家は洋の東西を問わず居るのだ。著者は、将軍義輝が永徳にとって、その理解者の最初の一人だと描いて行く。否、永徳の本来の絵を引き出す役割を果たした人として描き出されているようにも感じる。源四郎の語るのは、公方様との関わりの中で花開いてきた永徳独自の画境についてである。
洛中洛外図には、ちゃんと扇屋の店まで描かれている。
6歳の時に、源四郎は父・松栄にこう問う。
「師匠、本当に、粉本を学ぶことがいい絵につながりましょうや?」(p18)
祖父、元信にも扇子に描いた絵について、どう思うかと聞かれ、
「ただ、きれいな色を並べただけのように思えます」(p16)と答えるのだ。
己の才能を知り、父元信の確立した粉本で絵を描く工房組織の維持発展に注力した源四郎の父松栄の絵画思想と、源四郎は対立して行かざるをえない宿命である。それはまさに、祖父の才能の隔世遺伝と言えるのかもしれない。元信は源四郎の能力を認め、それが花開くことを楽しんでいるように思える。著者は、物語の始まり近くで元信にこう語らせている。
「そうか、ならば、お前がこの扇を、いつか面白う変えてみよ。そしてそれは、わしを超えることぞ。実に楽しみなことだのう。源四郎」(p16)
「源四郎は、狩野を創るか。それとも、壊すか」(p35)と。
父・松栄との絵画上での価値観の対立は深い。松栄は天文21(1552)年、10歳頃の源四郎に言う。「考えなど不要と前から申しておろうが。なぜお前はいつもそうなのだ。粉本を見よ、先人たちの仕事を見よ。定石を踏め。さすれば何も思い煩うことなく扇絵の一つや二つ描けようぞ」(p37)と。
父子の絵に対する姿勢の対立は、徐々に先鋭化していかざるを得ない。
「父上。わしは越える。狩野を。否、目の前にあるすべてを。そうでなくばわしは、わしではなくなる」(p319)とまで言わせるに至る。
なぜ、「画狂伝」なのか? 著者は、父・松栄に「魔境に入る」と表現させ、源四郎には、彼の思いを累々と語らせ、反語的に己の気持ちをすら告白させていく。このスト-リー展開がおもしろい。絵に対する思想の違い、それが渦巻いていく。一方、天文21年に源四郎を引見した公方様・義輝は、松栄とは対極的な位置に居る。源四郎の画狂の局面を開化させる梃子の役割を果たしていく。この二極の狭間で苦闘し、懊悩しながら、源四郎が己の画境を開いていくプロセスが読ませどころである。
物語の副次的な流れがある。これも興味深い側面であり、それらがメインの展開に大いに関わり、織り交ぜられていく。
その1つは、源四郎が元服し若総領となった以降に、狩野家に家事見習いとして預けられた廉という少女である。元信が源四郎にこの廉を引き合わせ、土佐家の当主の依頼で預かったと告げるところから、始まっていく。源四郎はその廉が実は許嫁であることを知らぬまま、廉との関係がはじまる。「これが、あの狩野源四郎の描く絵なの? この程度の絵、うちの若い絵師でも描けるんじゃないかしら」と廉が遠慮なく言う事から話が進展していくというおもしろさ。実は廉は源四郎本来の絵が好きで、理解者でもあるのだ。二人の関係の在り方と進展具合が、興味深く読ませるところである。
2つめは、源四郎が将軍義輝に引見された以降に、松永弾正との関わりができていくことでのエピソード。このストーリーに深く関わるのだが、興味深い弾正の言、源四郎に語る一節がある。
「世の中には、自分にしか見えぬ己が正解がある。少なくとも、わたしにはそう思える。だが、そうやって見える正解は、いつも世間の連中を驚かせるものばかりらしい」(p120)
「きっとそちは、依頼人の言葉に『はい、はい』と従うような作り手ではないだろう。--これまで、多くの作り手を見てきた。だからこそ、判ることもある。・・・そちは、言うなれば、わしら好事家が求める作り手なのかもしれぬ」(p215)
その松永弾正にも関係しているのだが、得たいの定かでない日乗という男と源四郎とのの出会いであり、両者の関わりの深まりである。源四郎は義輝に引見され、その場で日輪を描いて持ってくるようにと所望される。狩野屋敷の一隅の膠小屋で膠を溶かす仕事に従事する老人から、京界隈に評判の陰陽師がいて日蝕のおこる時を予言していることを源四郎は聞く。源四郎がその陰陽師に会いに行く。それが日乗である。日乗はいつからか比叡山で修行する坊主になっていく。生臭坊主と自認しながら、源四郎との関係は継続していく。その日乗が、時折源四郎に義輝や松永弾正との関わり方について助言したり、世の中の動きをそれとなく教えたりする役割を果たす。だが、そこには日乗の裏の意図があった。ただ単に己の打算だけで源四郎との人間関係を進展させていくだけでないのが、おもしろいところでもある。そして源四郎に己の立場を種証しするところまでに至る。
この日乗という生臭坊主は著者の創作なのだろうか? 最後に正体の一端を明かすとはいえ、実在の人物を踏まえて書き込んだのか、単なるフィクションとして組み込まれた人物なのか。この時代、歴史的には、朝日日乗という日蓮宗の僧が実在しているのだが・・・・。この点もわたしには興味深いところである。
3つめは、膠小屋の老人と、そのじいさんが5歳になるかならないかの孫・平次を源四郎の許にある日連れてくる。そして、源四郎に使ってやってくれと依頼する。この平次が源四郎の手伝いとして身近な存在になる。源四郎が平次を供にして、洛中洛外に出て絵の材料を描きに出歩くことになる。その平次が身の回りの手伝いから、絵師の端くれになっていく様子の中で、狩野家の工房の一端が描き込まれていくことにもなる。
ストーリー展開での山場という点で眺めていくと、いくつかの観点で意味合いを深める場面が積み重なっていく。
賭け闘鶏(1章軍鶏)の場、義輝と源四郎の対面の場(1章軍鶏)、松永弾正の催した連歌会の後での弾正と源四郎の対話場面(2章錆色)、廉に誘われて源四郎が紅葉を見に出かけた場面(2章錆色)、源四郎が元信になぜ粉本などを作ったのか問う場面(3章魔境)、担当分の扇絵を源四郎が描いていないことに対する松栄との対立場面(3章魔境)、松永弾正邸での源四郎・元秀兄弟の競絵と後日譚の場面(4章競絵)、疫病に罹り死亡した平次の代わりに元秀が源四郎に洛中洛外図の完成を促し助けて仕上げる場面。
個々に読み応えがあるとともに、それらが呼応してストーリーを充実させていく。
下絵から遂に洛中洛外図を完成させる最後の段階がこの物語の始まりに照応させられている。始まりの箇所から絵を飛躍させるところがおもしろい。
それがこの賭け闘鶏の図の部分に潜んでいる。何がおもしろいかは本書をお読みいただきご理解願いたい。それは事実の世界から絵の創作世界へ飛躍させたことにある。
本書のこんな章句もご紹介しておきたい。
*錆びついても動く、そういう魂が大事なのかもしれぬな。 p150
*絵はいい。そこには何の嘘も腹の探り合いもない。絵にあるのは、天と地、そして自分のみではないかえ。 p176
*お前の絵の力は、お前のものぞ。お前という人間の持つ強さ。それが絵を輝かせているのだと思うた。 p304
*これまでずっと、自分はずっとはるか高みを目指していたような気がしていた。しかし、それは違った。高みを目指しているのは、源四郎の魂ではない。源四郎の手だった。筆を取った源四郎の手は、源四郎の体を魂ごとひきずってどんどん高みへと引っ張っていってしまう。そのせいで、源四郎自身も、自分が高みに上りたいのだと誤解していた。しかし、心の命じるままに口を動かしてみて初めて目の前に自分の心が目の当たりになってみると、一職人として終わりたい、とすら願っている自分の姿が顔を出した。 p319
*世の中には普通の人間には見えない才能があって、それを見ることができる人間は簡単にその才覚の持ち主を見出すことが出来るものなのかもしれない。 p208
最後に、著者は本書で源四郎が洛中洛外図を完成させるようにと、元秀に手伝うと言わせ後押しさせている。その時、元秀はこう語る。
「あの競絵の時。兄上が即興で描かれた絵に、思わずわしは見惚れておりました。確かにその絵は粉本から大きく逸脱したものでございましょう。しかし、わしは、あの絵を美しいと思った。その瞬間から、兄上の絵を支えよう、そう決めたのです」(p358)と。
京都国立博物館開館100周年記念での特別展覧会図録『黄金のとき ゆめの時代 桃山 絵画賛歌』が手許にある。冒頭文「祭の終り-桃山時代絵画の眺望-」(狩野博幸氏)を読むと、永徳の弟・狩野宗秀つまり元秀について、『本朝画史』(狩野永納著)に載る評価が引用されている。「画法専学家兄、能守規矩、然不及父兄」つまり、「永徳に画法を学んで狩野家らしい作品を作ったが、松栄にも、ましてや永徳にも及ぶものではなかった」と。
また、特別展覧会図録『狩野永徳』(京都国立博物館、2007年)の冒頭文「狩野永徳の生涯」(山本英男氏)を読むと、「上杉本 洛中洛外図屏風」は図の景観年代と贈与の時期に大きなズレが認められることから、作期と注文主についての論争がさまざまに繰り広げられてきたそうであり、足利義輝が描かせたというのが現在の最も有力な説だとする。つまり、この著者はこの有力説をベースに本書を構想したといえる。山本氏によると『(謙信公)御書簡集』の記載により、作期は永禄8年(1565)9月3日に描き終えたことが明らかになったという。
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ネット検索してみた内容を一覧にまとめておきたい。
狩野永徳 :「Salvasty.com」
主要作品の解説と画像が掲載されています。
狩野永徳 :ウィキペディア
No. 58 狩野永徳展の物語/中部義隆 :「京都国立博物館」
足利義輝 :ウィキペディア
足利家と足利義輝 :「足利家武将名鑑」
宗養 美術人名辞典の解説 :「コトバンク」
朝日日乗 :ウィキペディア
インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。
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その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
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狩野永徳に関連して、拙ブログでは以前に、山本兼一著
『花鳥の夢』(文藝春秋刊)について読後印象を記しています。
こちらもご一読いただけるとうれしいです。
山本兼一氏が去る2月13日に肺腺がんで逝去された。享年57歳。
これからますますすばらしい作品が創出されることを期待していたのに・・・・嗚呼。
山本兼一作品について、この「遊心逍遙記」を書き出して以降に徒然に読んできた作品について記しただけですが、以下の通りです。作家を追悼するのは、その作品に触れるのが何よりだと存じます。そのきっかけになるようであればうれしいです。
『利休の風景』 淡交社
『命もいらず名もいらず』(上/幕末篇、下/明治篇) NHK出版
『いっしん虎徹』 文藝春秋
『雷神の筒』 集英社
『おれは清麿』 祥伝社
『黄金の太刀 刀剣商ちょうじ屋光三郎』 講談社
『まりしてん千代姫』 PHP
『信長死すべし』 角川書店
『銀の島』 朝日新聞出版
『役小角絵巻 神変』 中央公論社
『弾正の鷹』 祥伝社
次作は・・・と作品を期待していた作家の予期せぬ逝去を惜しみます。合掌。
狩野永徳というキーワードの接点で、ここに付記することをご寛恕ください。
(なぜか、2月時点では報道を知らず、昨日ある記事で知り、愕然としたのです。)