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『孟子』巻第三公孫丑章句上 第三十節

2016-11-30 10:13:46 | 四書解読
三十節

孟子は言う、
「矢を作る職人は、鎧を作る職人よりも心が不仁であるというはずはない。矢作りの職人は、作った矢が人を傷つけないようでは困ると思うし、鎧作りの職人は、作った鎧が弱くて着た人に傷を与えるようでは困ると思う。巫女が人を活かそうとし、棺作りの職人が人の死ぬのを望んでいるのも亦た同じである。だから職業を選ぶのは慎重にしなければいけないのである。孔子は、『人間は仁の中に身を置くのがよいことだ。それは誰でも選択することが出来るのに、わざわざ仁から離れた所に身を置くようでは、どうして智者といえようか。』と述べておられる。そもそも人々から尊ばれる仁は天の与える爵位のようなものであり、人が安心して暮らせる家のようなものだ。この天が与えてくれた爵位と家である仁に身を置くことを妨げる者は誰もいない。それなのに不仁に身を置くようでは、まことに智者というわけにはゆかない。不仁・不智・無禮・無義の人間は、ただ人に使われるだけの者だ。人に使われていながら、其の事を恥ずかしく思うのは、弓作りの職人が弓を作るのを恥じ、矢作りの職人が矢を作るのを恥じるのと同じことだ。もし人に使われるのを恥じるなら、不仁を去って仁に身を置くにこしたことはない。仁を為す者は、弓の射術を極めようとする者とよく似ている。矢を射る者は先づ己の精神と姿勢を正しくして、それから射る。射て仮に当たらず負けたとしても、勝った人を怨むのではなく、ただ当たらなかった原因を己自身の中に探し求めるだけである。」

孟子曰、矢人豈不仁於函人哉。矢人唯恐不傷人、函人唯恐傷人。巫匠亦然。故術不可不慎也。孔子曰、里仁為美。擇不處仁、焉得智。夫仁、天之尊爵也。人之安宅也。莫之禦而不仁、是不智也。不仁不智無禮無義、人役也。人役而恥為役、由弓人而恥為弓、矢人而恥為矢也。如恥之、莫如為仁。仁者如射。射者正己而後發。發而不中、不怨勝己者。反求諸己而已矣。

孟子曰く、「矢人は豈に函人より不仁ならんや。矢人は唯だ人を傷つけざらんことを恐れ、函人は唯だ人を傷つけんことを恐る。巫匠も亦た然り。故に術は慎まざる可からざるなり。孔子曰く、『仁に里るを美と為す。擇んで仁に處らずんば、焉くんぞ智を得ん。』夫れ仁は、天の尊爵なり。人の安宅なり。之を禦むるもの莫くして不仁なるは、是れ不智なり。不仁・不智・無禮・無義は、人の役なり。人の役にして役を為すを恥づるは、由ほ弓人にして弓を為るを恥ぢ、矢人にして矢を為るを恥づるがごときなり。如し之を恥ぢなば、仁を為すに如くは莫し。仁者は射の如し。射る者は己を正しくて後に發す。發して中らずとも、己に勝つ者を怨みず。諸を己に反求するのみ。」

<語釈>
○「矢人」、矢を作る人、矢師。○「函人」、鎧、甲を作る人、鎧師。○「巫匠」、趙注:「巫」は、祝して人を活かさんと欲す、「匠」は棺を作る。「巫」は巫女、又は医者、病を治して活かそうとする人、「匠」は、棺作りの職人。○「里」、趙注:「里」は、「居」なり。○「簡」、趙注:「簡」は、「擇」なり。○「人役」、服部宇之吉氏云う、人役は他人に使役せらるる者を云う。○「由」、「猶」に同じ、“なほ~のごとし”と読む。

<解説>
この節も前節と同じく孟子の性善説の一端を伺える。人間は誰しも平等に天から仁の心を授けられている。ただそこに身を置き、それを拡充成長させて仁をなすか、それを捨て去って不仁をなすかは、其の人自身に因る。故に人は努力することが大切なのだ。

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