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『孟子』巻三公孫丑章句上第二十五節

2016-10-08 10:58:11 | 四書解読
二十五節

公孫丑が尋ねた、
「先生が齊の執政の職について先生の道を実行し、それによって齊王を諸侯の覇者や、天下の王者になさったとしても、誰も不思議に思いません。でもこのような責任ある立場に立たれたら、多少は動揺されるのではありませんか。」
孟子は答えた、
「いや、それはない。私は四十を過ぎてからは、心を動揺させることはない。」
「それならば、あの古の勇者である孟賁よりも格段に優れた勇者であられますね。」
「いや、それほど難しい事ではない。あの告子でさえ、私より先に四十にならずして、心を動かさない修業が出来ている。」
「心を動かさないようにする修行の道はございますか。」
「有るとも。勇士の北宮黝が勇気を養うには、剣先が身に迫ってもびくともせず、目先に突き付けられても目玉を動かさず、ほんの少しでも人から辱めを受ければ、まるで市場の公衆の面前で鞭打たれるほどに思う。屈辱を受けることは、相手が粗末な服を着た下層の人であろうが、大国の君主であろうが我慢しなかった。また大国の君主を刺し殺すのも、褐衣を着た下層の人を殺すのと少しも変わらない。天下に恐れ憚る諸侯は一人もいない。もし悪口を言われたら、必ず仕返しをした。また勇士の孟施舎の勇気を養うやり方はこう述べている、『負けると分かっていても、必ず勝つのだという気持ちで戰う。敵の兵力を調べてから進み、勝つと分かれば会戦するというのは、大軍を恐れるというものだ。私とて必ず勝てるとは限らないが、唯だ敵を恐れないだけだ。』この孟施舎のやり方は、孔子の弟子の曾子に似ており、北宮黝は同じく弟子の子夏に似ている。この孟施舎・北宮黝二人の勇気は、どちらが優れているかわからないが、ただ自ら守るという点では孟施舎の方が要を得ている。昔、曾子が弟子の子襄にこう語ったという、『お前は勇気を好むか。私は以前に大勇とはどういうものか孔先生にお尋ねしたことが有るが、自ら反省して正しいと思えない時は、たとえ粗末なだぶだぶの服を着た下層の人に対してさえびくびくするものだが、反省して正しいと思えるなら、たとえ千人や万人でも、私は立ち向かうことが出来るということだ。』こうしてみると孟施舎は曾子に似ているとはいえ、気力を守り通そうとする孟施舎は、道義を守り通す曾子には及ばないのだ。」
「是非お尋ねしたいのですが、先生の不動の心と、告子の不動の心との違いをお聞かせ願えるでしょうか。」
「告子は、『人に善言がなければ、その者の善心を求めようとするな。善心を得られないからと言って、気に助けを求めて怒ってはならぬ。』と述べている。善心がないからと言って、怒ってはならないというのはその通りであるが、言葉に善が無いのに、心にそれを求めても得られない。心が何かを目指しているのを志と謂うのであって、それは気を率いるもので、気は体に充満して喜怒哀楽を表すものである。志が至る所には、気が付き従っていく者である。だから私は言うのだ、志を堅持して、其の気を乱してはいけないと。」
「志が至る所には、気が付き從うとおっしゃりながら、志を堅持して、其の気を乱してはいけないと仰せになられるのは、どうしてでございましょうか。」
「志が一つの事に集中していれば、当然志が気を動かすものだが、逆に気が一つの事に集中していれば、気が志を動かすこともある。たとえば歩いていてつまづけば、その勢いで二三歩走りだすのは、志ではなく気であるが、こんなときは気が反って心を動揺させるものだ。」
「敢ておうかがいしたいのですが、先生は告子と比べてどのような点で優れていらっしゃるのでしょうか。」
「私は人の言葉の真意を知ることが出来、浩然の気を養うことが出来る。」
「それでは何を浩然の気というのでしょうか。」
「言葉で説明するのは難しいが、その気とは極めて大きく、極めて強く、正直でまっすぐなものである。それを損なわないようにして行けば、天地の間に充満して、懼れるものが無くなるほどのものである。しかも、この気は道義と共に存在するものだから、道義がなければその気も衰えてしまう。つまりその気とは、内に義を集積した結果、生ずるものであって、外部より収得した義により、にわかに収得するものではない。行いが正しくなければ、その気は衰えるものなのだ。だから私が、告子は義を分かっていない、と言うのは、それを内のもとせず外部のもと思っているからなのだ。この気は一朝一夕に収得できるものではないので、日々努力をしなければならない。その為には成功を予期せず、心に忘却すること無く、他力を加えて助長しないように心掛けなければならない。たとえばあの宋人のようなことはするな。その宋人は、植えた苗が成長しないのを憂えて、苗のしんを引き伸ばし、すっかり疲れて帰ってきて、家人に、今日は疲れた、苗の成長を助けてやった、と言った。息子が驚いて走って見に行けば、苗はすっかり枯れていたということだ。世の中には苗の成長を助けようとして、無益な事をする者は少なくない。しかし気を養おうとするのは無益だとして棄てて顧みないのは、苗の除草をしないようなものだし、急に気を身につけようとして、無理に助長するのは、苗のしんを引き伸ばすようなものである。このようなことは無益であるだけだでなく、反って害があるものだ。」
「言を知るとはどういうことでございますか。」
「偏った言を聞けば、その人の心が物に蔽われていることを見抜く。気儘で締まりのない言を聞けば、その心が何かに落ち込み溺れていることを見抜く。邪で歪んだ言を聞けば、その心が道理から離れていることを見抜く。言い逃れの言を聞けば、心が行き詰まって窮していることを見抜く。こうして言辭によりその人の本心を知ることだ。為政者の心から生じたこれらの間違った言辭は、その政治に害を及ぼし、その害が政治に及べば、様々な事に害を及ぼしていくものである。たとい今聖人が再び現れたとしても、私のこの言葉を承認なさるに違いない。」
「孔子の弟子の宰我、・子貢は言葉に優れ、冉牛・閔子・顏淵は徳行に優れ、公子はこの二つとも兼ね備えておられますが、自分は、言辭については彼らに及ばないと述べておられます。それならば徳行は勿論、言葉の奥を見抜くことが出来る先生は、聖人の域に達しておられるのでございますね。」
「ああ、何ということを言うのか。昔、子貢が孔子に、先生は聖人でいらっしゃいますか、と尋ねたら、孔子は、聖人にはとても及ばない。私は唯だ学んで厭きること知らず、人を教えて倦むことを知らない者である、とお答えになられると、子貢は、学んで厭きずとは智者のことであり、教えて倦まずとは、仁者であります。智者であり且つ仁者であれば、先生はやはり既に聖人の域に達しておられます、と言ったそうだ。聖人の域に達するなど、孔子でさえお認めにならなかったのだ。それを私が聖人などと、お前は何ということを言うのか。」
「昔、それとなく聞いたことですが、子夏・子游・子張は皆聖人孔子の一面を受け継いでおり、冉牛・閔子・顏淵は全体を受け継いでいるが、微小であったと言われております。そこで失礼ながらお尋ねしたいのですが、先生は、これらの人たちと比べてどのあたりに居られるのでしょうか。」
「まあその話はしばらくやめておこう。」
「伯夷・伊尹はいかがでしょうか。」
「彼らはそれぞれ生き方が違う。自分が仕えるにふさわしい君で無ければ仕えない。使ってもよい民で無ければ使わない。太平の世であれば仕えるが、乱れていれば隠遁する。これが伯夷の生き方である。君の良し悪しに関係なく仕え、どんな民でも使うし、太平の世でも進み仕え、乱れた世でも進み仕える。これが伊尹の生き方である。これなら仕えてもよいと思えば仕えるし、これ以上止まるべきでないと思えば去る、久しく留まるべき時は留まり、そうでない時は速やかに去る。これが孔子の生き方である。この三人は皆古の聖人であり、彼らのような生き方はどれ一つ私にはできないが、できれば孔子を学びたいものだ。」
「皆聖人だということですが、伯夷・伊尹は孔子と同列と謂えるほどの者でしょうか。」
「いやそうではない。人間始まって以来、孔子ほどの人物はいない。」
「それでは何か共通点があるのでしょうか。」
「あるとも。わずか百里四方の領土でも、それを得て君主と為れば、三人とも諸侯を朝せしめ、天下を治めることが出来る。しかし一つの不義を行い、又一人の罪無き者を殺してまで天下を得るようなことは三人とも決してしない。この点はみな同じだ。」
「それでは是非彼らの異なる点をお聞きしたいのですが。」
「宰我・子貢・有若は、聖人を見るに十分な才智を持っており、孔子に比べれば、人物は多少小さいとしても、その人が好きだからと言ってその人にに阿ったりしない。そこでこの三人が孔子についてどのように述べているかを見て、その違いを示そう。宰我は『私から見れば、先生は堯・舜よりもはるかに賢っておられる。』と言い、子貢は、『その人の禮を見れば、その人の政治の様子もわかるし、音楽を聞けば、その人の徳がどの程度か分かる。それ故百代の後からでも、禮や樂によって歴代の王を品評すれば、その真の姿は間違いなくはっきり分かる。まさにその点に於いて、人間始まって以来、先生ほどの人はいない。』と言い、有若は、『同類であっても甚だしい差異が有るのは人間だけではない。走獣における麒麟、飛鳥における鳳凰、丘やアリ塚における泰山、路上の水たまりにおける黄河や東海、皆それぞれに同類なのだ。聖人と人民も亦た同類なのだ。その同類から飛びぬけているのが聖人で、その聖人の中でも更に飛びぬけているのが先生である。人間始まって以来、孔子よりも盛徳のある人物はいないのである。』」

公孫丑問曰、夫子加齊之卿相、得行道焉、雖由此霸王不異矣。如此、則動心否乎。孟子曰、否。我四十不動心。曰、若是、則夫子過孟賁遠矣。曰、是不難、告子先我不動心。曰、不動心有道乎。曰、有。北宮黝之養勇也、不膚橈、不目逃。思以一豪挫於人、若撻之於市朝。不受於褐寬博、亦不受於萬乘之君。視刺萬乘之君、若刺褐夫。無嚴諸侯。惡聲至、必反之。孟施舍之所養勇也、曰、視不勝猶勝也。量敵而後進、慮勝而後會、是畏三軍者也。舍豈能為必勝哉。能無懼而已矣。孟施舍似曾子。北宮黝似子夏。夫二子之勇、未知其孰賢。然而孟施舍守約也。昔者曾子謂子襄曰、子好勇乎。吾嘗聞大勇於夫子矣。自反而不縮、雖褐寬博、吾不惴焉。自反而縮、雖千萬人、吾往矣。孟施舍之守氣、又不如曾子之守約也。曰、敢問夫子之不動心、與告子之不動心、可得聞與。告子曰、不得於言、勿求於心。不得於心、勿求於氣。不得於心、勿求於氣、可。不得於言、勿求於心、不可。夫志氣之帥也。氣體之充也。夫志至焉、氣次焉。故曰、持其志,無暴其氣。既曰志至焉、氣次焉、又曰持其志無暴其氣者、何也。曰、志壹則動氣、氣壹則動志也。今夫蹶者趨者、是氣也。而反動其心。敢問夫子惡乎長。曰、我知言。我善養吾浩然之氣。敢問何謂浩然之氣。曰、難言也。其為氣也、至大至剛以直、養而無害、則塞于天地之閒。其為氣也、配義與道。無是餒也。是集義所生者、非義襲而取之也。行有不慊於心、則餒矣。我故曰、告子未嘗知義。以其外之也。必有事焉。而勿正。心勿忘。勿助長也。無若宋人然。宋人有閔其苗之不長而揠之者。芒芒然歸、謂其人曰、今日病矣,予助苗長矣。其子趨而往視之、苗則槁矣。天下之不助苗長者寡矣。以為無益而舍之者、不耘苗者也。助之長者、揠苗者也。非徒無益、而又害之。何謂知言。曰、詖辭知其所蔽。淫辭知其所陷。邪辭知其所離。遁辭知其所窮。生於其心、害於其政。發於其政、害於其事。聖人復起、必從吾言矣。宰我子貢善為說辭、冉牛閔子顏淵善言德行。孔子兼之。曰、我於辭命則不能也。然則夫子既聖矣乎。曰、惡、是何言也。昔者子貢問於孔子曰、夫子聖矣乎。孔子曰、聖則吾不能。我學不厭而教不倦也。子貢曰、學不厭、智也。教不倦、仁也。仁且智、夫子既聖矣。夫聖孔子不居。是何言也。昔者竊聞之。子夏子游子張皆有聖人之一體。冉牛閔子顏淵則具體而微。敢問所安。曰、姑舍是。曰、伯夷伊尹何如。曰、不同道。非其君不事、非其民不使。治則進、亂則退、伯夷也。何事非君、何使非民。治亦進、亂亦進、伊尹也。可以仕則仕、可以止則止、可以久則久、可以速則速、孔子也。皆古聖人也。吾未能有行焉。乃所願、則學孔子也。伯夷伊尹於孔子、若是班乎。曰、否。自有生民以來,未有孔子也。曰、然則有同與。曰、有。得百里之地而君之、皆能以朝諸侯有天下。行一不義、殺一不辜而得天下、皆不為也。是則同。曰、敢問其所以異。曰、宰我子貢有若智足以知聖人。汙不至阿其所好。宰我曰、以予觀於夫子、賢於堯舜遠矣。子貢曰、見其禮而知其政、聞其樂而知其德。由百世之後、等百世之王、莫之能違也。自生民以來、未有夫子也。有若曰、豈惟民哉。麒麟之於走獸、鳳凰之於飛鳥、太山之於丘垤、河海之於行潦、類也。聖人之於民、亦類也。出於其類、拔乎其萃。自生民以來、未有盛於孔子也。

公孫丑問いて曰く、「夫子、齊の卿相に加わり、道を行うことを得ば、此に由りて霸王たらしむと雖も異(あやしむ)まず。此の如くんば、則ち心を動かすや否や。」孟子曰く、「否。我四十にして心を動かさず。」曰く、「是の若くんば、則ち夫子、孟賁に過ぐること遠し。」曰く、「是れ難からず。告子(人名)は我に先だちて心を動かさず。」曰く、「心を動かさざるに、道有りや。」曰く、「有り。北宮黝(ユウ)の勇を養うや、膚橈(フ・トウ)せず、目逃せず。一豪を以て人に挫(はずかしめらる)めらるるを思うこと、之を市朝に撻(むちうつ)たるるが若し。褐寬博にも受けず、亦た萬乘の君にも受けず。萬乘の君を刺すを視ること、褐夫を刺すが若し。嚴(はばかる)る諸侯無し。惡聲至れば、必ず之を反す。孟施舍の勇を養う所や、曰く、『勝たざるを視ること猶ほ勝つがごとし。敵を量りて而る後進み、勝を慮って而る後會す。是れ三軍を畏るる者なり。舍豈に能く必勝を為さんや。能く懼るる無きのみ。』孟施舍は曾子に似たり。北宮黝は子夏に似たり。夫の二子の勇、未だ其の孰れか賢れるを知らず。然り而して孟施舍は守り約なり。昔者、曾子、子襄に謂いて曰く、『子、勇を好むか。吾嘗て大勇を夫子に聞けり。自ら反して縮からずんば、褐寬博と雖も、吾惴れざらんや。自ら反して縮くんば、千萬人と雖も、吾往かん。』孟施舍の氣を守るは、又曾子の守の約なるに如かざるなり。」曰く、「敢て問う、夫子の心を動かさざると、告子の心を動かさざると、聞くことを得可きか。」「告子は曰く、『言に得ざれば、心に求むること勿かれ。心に得ざれば、氣に求むること勿れ。』心に得ざれば、氣に求むること勿れとは、可なり。言に得ざれば、心に求むること勿かれとは、不可なり。夫れ志は氣の帥なり。氣は體の充てるなり。夫れ志至り、氣は次ぐ。故に曰く、『其の志を持し、其の氣を暴すること無かれ。』」「既に、志至り、氣は次ぐと曰い、又、其の志を持し、其の氣を暴すること無かれと曰うは、何ぞや。」曰く、「志壹なれば則ち氣を動かし、氣壹なれば則ち志を動かせばなり。今、夫れ蹶く者の趨るは、是れ氣なり。而るに反って其の心を動かす。」「敢て問う、夫子惡にか長ぜる。」曰く、「我、言を知る。我善く吾が浩然の氣を養う。」「敢て問う、何をか浩然の氣と謂う。」曰く、「言い難きなり。其の氣為るや、至大至剛以て直、養いて害すること無ければ、則ち天地の閒に塞がる。其の氣為るや、義と道とに配す。是れ無ければ餒うるなり。是れ集義の生ずる所の者にして、義襲うて之を取るに非ざるなり。行い心に慊からざること有れば、則ち餒う。我故に曰く、『告子は未だ嘗て義を知らず』と。其の之を外にするを以てなり。必ず事とする有れ。正(あらかじめ)めすること勿れ。心に忘るること勿れ。助けて長ぜしむること勿れ。宋人の若く然すること無かれ。宋人に其の苗の長ぜざるを閔えて、之を揠く者有り、芒芒然として歸り、其の人に謂いて曰く、『今日病れたり。予、苗を助けて長ぜしむ。』其の子趨りて往きて之を視れば、苗は則ち槁れたり。天下の苗を助けて長ぜしめざる者は寡し。以て益無しと為して之を舍つる者は、苗を耘らざる者なり。之を助けて長ぜしむる者は、苗を揠く者なり。徒に益無きのみに非ず、而して又之を害す。」「何をか言を知ると謂う。」曰く、「詖辭は其の蔽わるる所を知る。淫辭は其の陷る所を知る。邪辭は其の離るる所を知る。遁辭は其の窮する所を知る。其の心に生ずれば、其の政を害し、其の政に發すれば、其の事を害す。聖人復た起こるとも、必ず吾が言に從わん。」「宰我・子貢は善く說辭を為し、冉牛・閔子・顏淵は善く德行を言う。孔子は之を兼ね。曰く、『我、辭命に於いては、則ち能わざるなり。』然らば則ち夫子は既に聖なるか。」曰く、「惡(ああ)、是れ何の言ぞや。昔者、子貢、孔子に問いて曰く、『夫子は聖なるか。』孔子曰く、『聖は則ち吾能わず。我、學びて厭わず、教えて倦まざるなり。』子貢曰く、『學びて厭わざるは、智なり。教えて倦まざるは、仁なり。仁且つ智なり。夫子既に聖ならん。』夫れ聖は、孔子も居らず。是れ何の言ぞや。」「昔者、竊かに之を聞けり。子夏・子游・子張は、皆聖人の一體有り、冉牛・閔子・顏淵は、則ち體を具えて微なり、と。敢て安んずる所を問う。」曰く、「姑く是を舍け。」曰く、「伯夷・伊尹は何如。」曰く、「道を同じうせず。其の君に非ざれば事えず、其の民に非ざれば使わず。治まれば則ち進み、亂るれば則ち退くは、伯夷なり。何れに事うるも君に非ざらん、何れを使うも民に非ざらん。治まるも亦た進み、亂るるも亦た進むは、伊尹なり。以て仕う可くんば則ち仕え、以て止む可けんば則ち止め、以て久しかる可けんば則ち久しうし、以て速やかなる可けんば則ち速やかにするは、孔子なり。皆古の聖人なり。吾は未だ行うこと有る能わず。乃ち願う所は、則ち孔子を學ばん。」「伯夷・伊尹の孔子に於けるは、是の若く班たるか。」曰く、「否。生民有りて自り以來、未だ孔子有らざるなり。」曰く、「然らば則ち同じき有るか。」曰く、「有り。百里の地を得て之に君たらば、皆能く以て諸侯を朝せしめ天下を有たん。一不義を行い、一不辜を殺して天下を得るは、皆為さざるなり。是れ則ち同じ。」曰く、「敢て其の異なる所以を問う。」曰く、「宰我・子貢・有若は、智は以て聖人を知るに足る。汙なるも其の好む所に阿るに至らず。宰我曰く、『予を以て夫子を觀れば、堯舜に賢ること遠し。』子貢曰く、『其の禮を見て、而して其の政を知り、其の樂を聞きて、而して其の德を知る。百世の後由り、百世の王を等するに、之に能く違うこと莫きなり。生民自り以來、未だ夫子有らざるなり。』有若曰く、『豈に惟だ民のみならんや。麒麟の走獸に於ける、鳳凰の飛鳥に於ける、太山の丘垤に於ける、河海の行潦に於けるは、類なり。聖人の民に於けるも、亦た類なり。其の類より出でて、其の萃に抜く。生民自り以來、未だ孔子より盛なるは有らざるなり。』」

<語釈>
○「孟賁」、古の勇者として知られている。○「告子」、孟子と同時代の人、名は害。○「北宮黝」、『正義』によれば、齊の人。○「不膚橈」、趙注:人、其の肌を刺すも、橈郤を為さず。剣で肌を傷つけられてもびくともしない意。○「不目逃」、趙注:其の目を刺すも、精を轉じて之を逃避せず。目先に剣を突きつけられても、目玉を動かさない意。○「褐寬博」、「褐」は粗末な服、「寬」はゆったり、だぶだぶ、「博」は夫に同じ意で男のこと、だぶだぶの粗末な服を着た男。○「縮」、正義:「縮」は「直」なり。○「惴」、趙注:「惴」は「懼」なり。○、「不得於言、勿求於心。不得於心、勿求於氣」、解釈が分かれる箇所である、趙岐は、「言」も「心」も他人のものとし、人に不善の言があれば、これに善心を求めるなと解釈し、朱子は、「言」は他人のもの、「心」は己のものとし、人に不善の言があっても、納得できないからと言って其の理を己の心に求めるなと解釈する。わが国では朱子説を採用する学者が多いが、私は敢て趙岐の説を採用する。○「至大至剛以直養而無害」、「以直」を至大至剛に続けて読む説と、養而無害につけて読む説とがある。趙注は至大至剛は正直の気と述べ、続けて読んでいる。趙注に從う。○「義襲而取之」、服部宇之吉云う、義襲而取之とは、一時に外部より収得する義なり、浩然の気は道義内に盈ちて、其の勢力の自然に外に発動するものなり、決して一朝一夕に遽かに外部より収得するものに非ず。○「詖辭」、朱熹云う、「詖」は偏陂なり。偏った言。○「伯夷・伊尹」、伯夷は弟の叔齊とともに清廉潔白の代名詞のように言われている人。周に仕えていたが、武王が紂王を伐つことを潔しとせず、山に隠れて餓死した。伊尹は殷の湯王の名宰相。○「汙」、趙注:「汙」は「下」なり。識見が低い事。○「班」、息軒云う、班は等列なり。ほぼ等しい事。○「等」、服部博士云う、「等」は品評の意。○「莫之能違」、解釈の分かれる所である。趙岐は、孔子の道に違う者はいないとし、朱熹は、その実情から免れることはできない、乃ちその実態が間違いなくわかるとする。朱熹の説を採用した。○「垤」、音はテツ、アリ塚。○「行潦」、路上の水たまり。○「拔乎其萃」、「萃」は「聚」、ここでは優れた聖人の集りを言う、その中から更に優れている事、抜萃の語源である。

<解説>
この節は長文なだけでなく、難解な個所が多く、かなりの時間を要し、解読に苦労した。趙岐・朱熹・『正義』・安井息軒・服部宇之吉等先人の解釈を讀み比べ、自分が一番納得のできる説を採用した。
この節は、有名な浩然の気と知言について言及されている。浩然の気については、我々も浩然の気を養うという使い方をするが、それはこせこせしない大らかな気持ちを養うという意味で使っている。しかしこの気の大切な所は、道義と共に在り、道義がなければその気も衰えてしまうということだ。しかもその道義は外から得るものでなく、自ら内に修養して蓄えるものであると、孟子は述べている。我々はこの言葉を使うとき、道義の修養こそ大事であるということを失念している。この事を忘れずに浩然の気を養っていきたいものである。
知言とは、まさに言は心なりということであり、言葉はその人の心の鏡であり、その本心を表している。政治家が失言で、謝罪会見をしたとき、本心で無く、つい失言したのだと述べたりしているが、それはその政治家の本心であり、其の失言の内容通り性根が腐っているのだ。故に我々は言葉からその人の本質を見抜く能力を高めなければならない。そうすれば選挙の時でも、少しはましな人物を選ぶことが出来るかもしれない。

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