百五十三節
孟子は言う。
「両手や片手でつかめるほどの太さの桐や梓の木も、これを育てようと思えば、誰でもその育て方を知っている。人は仁義を以て心を養うものなのに、わが身になると、それを忘れて養う方法が分からなくなってしまう。なんとわが身を愛することは、桐や梓にも及ばないのだろうか。事の軽重を知らないにもほどがある。」
孟子曰、拱把之桐梓、人苟欲生之、皆知所以養之者。至於身、而不知所以養之者。豈愛身不若桐梓哉。弗思甚也。
孟子曰く、「拱把の桐梓も、人苟くも之を生ぜんと欲せば、皆之を養う所以の者を知る。身に至りては、之を養う所以の者を知らず。豈に身を愛すること桐梓に若かざらんや。思わざるの甚しきなり。」
<語釈>
○「拱把」、趙注:「拱」は、両手を合わすなり、「把」は、一手を以て之を把るなり。両手や片手でつかめるものという意味。○「至於身~」、趙注:身を養うの道に至りては、當に仁義を以てすべし、而るに用うるを知らず。
<解説>
前節では、目に見えないものをおろそかにすることを述べているが、それは心であり、この節では、目に見えるものの養い方は知っているのに、見えないもの、乃ち心の修養はおろそかにされがちであることを誡めている。
百五十四節
孟子は言う。
「人は自分の体のあらゆる部分を愛する。あらゆる部分を愛するから、あらゆる部分を大切に養う。一尺一寸の皮膚でも愛さぬことはないので、一尺一寸の皮膚でも大切に養う。だがその養い方の良し悪しを判断する方法は、ほかにあるわけではない。その養い方が、自分の体にとっての良し悪しを判断するだけである。そもそも人の体には、尊い部分と卑しい部分とがあり、つまらぬ部分と大切な部分とが有る。つまらぬ部分を重んじて、大切な部分を損なうことなく、賤しい部分を重んじて、尊い部分を損なうようなことをすべきでない。つまらぬ部分を養うことばかり考えていては、結局つまらぬ人間になってしまう。それに対して大切なものを養うことに務めるものは、大人となるのだ。今、かりに植木屋がいたとして、桐や梓を棄ておいて、バラやイバラばかりを育てていたら、それは未熟な植木屋と言われるだろう。指一本の病気ばかりに気を取られて、肩や背中の病に気づかない医者は、藪医者と言われるだろう。飲食の事ばかり考えている人は、世間から軽蔑されるだろう。それは飲食という小さなものに気を取られて、より大きなものを見失っているからだ。しかし飲食を重んじる人も、より大切なことがあることを忘れさえしなければ、口腹の養いは一尺一寸の皮膚を養うだけにとどまらない。」
孟子曰、人之於身也、兼所愛。兼所愛、則兼所養也。無尺寸之膚不愛焉、則無尺寸之膚不養也。所以考其善不善者、豈有他哉。於己取之而已矣。體有貴賤、有小大。無以小害大、無以賤害貴。養其小者為小人、養其大者為大人。今有場師。舍其梧檟、養其樲棘、則為賤場師焉。養其一指、而失其肩背而不知也、則為狼疾人也。飲食之人、則人賤之矣。為其養小以失大也。飲食之人無有失也、則口腹豈適為尺寸之膚哉。
孟子曰く、「人の身に於けるや、愛する所を兼ぬ。愛する所を兼ぬれば、則ち養う所を兼ぬ。無尺寸の膚も愛せざること無ければ、則ち尺寸の膚も養わざること無きなり。其の善不善を考うる所以の者は、豈に他有らんや。己に於て之を取るのみ。體に貴賤有り、小大有り。小を以て大を害すること無く、賤を以て貴を害すること無かれ。其の小を養う者は小人為り、其の大を養う者は大人為り。今場師有り。其の梧檟(ゴ・カ)を舎てて、其の樲棘(ジ・キョク)を養わば、則ち賤場師と為さん。其の一指を養いて、而も其の肩背を失いて知らざれば、則ち狼疾人と為さん。飲食の人は、則ち人之を賤む。其の小を養いて以て大を失うが為なり。飲食の人も失うこと有る無ければ、則ち口腹豈に適だ尺寸の膚の為のみならんや。」
<語釈>
○「於己取之」、朱注:其の養う所の前否考えんと欲する者は、惟だ之を身に反りて、以て其の軽重を審らかにするに在るのみ。○「場師」、植木屋。○「梧檟」、趙注:「梧」(ゴ)は、桐、「檟」(カ)は、梓。○「樲棘」、服部宇之吉氏云う、「樲」(ジ)は、酸棘、「棘」は、いばら。酸棘はバラ。○「狼疾人」、趙注:醫、人の疾を養うに、其の一指を治めて、其の肩背の疾有るを知らず、以て此を害うに至る、此れ狼籍の亂を為し、疾を治むるを知らざるの人なり。指に気を取られて肩背の病に気づかない藪医者の意。
<解説>
些細な事に気を奪われ、大事な事を見失ってしまうことはよくある。しかし些細なことだからと言って、それをおろそかにしてよいものだろうか。要はバランスだと思う。
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