スマート詩吟は面白い

スマート詩吟及び福祉詩吟は私の造語です。それらの普及を図っていきたいと思います。

12年前、脳内出血発症時に、私は何を考えていただろうか?(3分割のその3、最終)

2023-10-21 09:00:00 | エッセー「受容と回復」
  

私は最近難病の海老原宏美(1977年神奈川県出身)さん著書「わたしが障害者でなくなる日」(2019年旬報社発行)に出会った。私が中途障害者になって10年超経過していた。本を開いた途端、衝撃を受けた。誤解無きことを祈りながら、一言で述べると、彼女の主張は、「私は難病なの。でもね、病気と障害は違うのよ。障害はネ、あなたのせいなのヨ」の通りである。
そこで、私が障害者と呼ばれることになった時には、どんな気持ちだったか?当時投稿した原稿を引っ張り出した。私は原稿の中で、「①障害者になったのは自分の不摂生である」、「②障害者は健常時に戻るべく努力しなければならない」というスタンスで一貫していた。その状況で海老原さんの主張に刺激を受けそれ以降「障害理解」について勉強している。
ここでは、10年前に私が考えていたことをエッセーから抜き出して3回に分けて公開します。今回は3分割のその3(最終)です。

エッセー「脳卒中後遺症の受容と回復」(3分割のその3)

ライフワークにしていたボランテアの異業種交流コンサルタントや趣味の詩吟同好会には従来通り参加した。ほぼ毎週定期的に出席することで行動リズムが出来上がり、少しずつ社会参加している実感も得ることが出来た。健常時何の制限も無い活動から真逆の別世界に落ち込んだ訳であるが、私は障害者になって思うことは健常時のままだったら既存の枠を出て自分から別世界に対し「相手の悩みを聞き気持ちを和らげてあげる」ことは多分無かったと思う。身体のどこか一つ不自由があるだけで他人への優しさ・思いやりがこれ程変わるものかということを肌身に感じ、私自身が逆に助けられていることで受容・回復につながっていると思う。
「みんな違ってみんな良い」という金子みすゞのメッセージ「私と小鳥とすずと」を詩吟大会で独吟し、詠い終った際に感無量の中で自然とお礼の言葉が出た。健常時のイメージを常に持ち続けることによって「中小企業再生へのお手伝い」のテーマの実現もレールに乗せることが出来そうである。発症から2年半の一行日記を読み返すと、私は月日の経過と共に少しずつではあるが回復している。6ケ月の壁は必ず越えられると思って行動してきた。今後もそのつもりである。自分への戒めは「健常時のイメージを描き両手両足で行動する」、「積極的に社会参加し全てを共有する」そして「後遺症に負けそうになると自分を鼓舞する」である。

このシリーズはこの3回目で終わります。
この原稿は約10年前の発症して1,2年後の気持ちです。海老原さんの本を読んで、彼女の主張を受け入れながら、障害理解を勉強している現在、まっさらな状態で「障害の受容と回復」でエッセーを書くとどんな作品になるだろうか?
ご感想をこのブログにお待ちします。

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12年前、脳内出血発症時に、私は何を考えていただろうか?(3分割のその2)

2023-09-30 09:00:00 | エッセー「受容と回復」
  

私は最近難病の海老原宏美(1977年神奈川県出身)さん著書「わたしが障害者でなくなる日」(2019年旬報社発行)に出会った。私が中途障害者になって10年超経過していた。本を開いた途端、衝撃を受けた。誤解無きことを祈りながら、一言で述べると、彼女の主張は、「私は難病なの。でもね、病気と障害は違うのよ。障害はネ、あなたのせいなのヨ」の通りである。
そこで、私が障害者と呼ばれることになった時には、どんな気持ちだったか?当時投稿した原稿を引っ張り出した。私は原稿の中で、「①障害者になったのは自分の不摂生である」、「②障害者は健常時に戻るべく努力しなければならない」というスタンスで一貫していた。その状況で海老原さんの主張に刺激を受けそれ以降「障害理解」について勉強している。
ここでは、10年前に私が考えていたことをエッセーから抜き出して3回に分けて公開します。今回は3分割のその2です。

エッセー「脳卒中後遺症の受容と回復」(3分割のその2)

退院翌日から毎日8000歩をノルマに課した。入院中気にならなかった歩行時の左足指の痺れ、物を掴もうとする時の左手指の痺れ、うがいする時の首の痛み等に対して主治医の診察を受けたが「気にし過ぎる!!」と一蹴されたことで、私は反って健常時に一歩近づいたと思い直した。インターネット掲示板の投稿で「痺れ、痛みがあることは良いことだよ!! それは神経が戻っている証拠だ。」に同調した。反面「ネクタイを結ぶ、タオルを絞る、缶ジュースの蓋を開ける等は、健全な手足を使って出来る様に工夫していくことだよ。」という意見には反論していた。マヒ側の手足を健常な時の状態に少しでも近づける努力が大切で、常に両手両足で生活するイメージを持ちながら行動するべきです。最初の段階ではバランスが取れずマヒ側は思う様に動かないので出来なくても良い、一進一退はあるが月日の経過と共に少しずつ出来ていくので諦めないことである。健全な手足にのみ頼ることはマヒ側は廃用になっていくと思っている。最初の理学療法士の言動を強くかみしめた。
先輩から「中途障害になったことで人生を2回送るのですよ!!新しいステージに上ってきなさい!!」のアドバイスにも健常時に戻る努力を続けていきたいと胸を張った。区役所主催の同病会に参加した。参加者の障害程度は千差万別であるが月日を重ねるにつれ本音で話し合える場になっていき、自分たちで運営することで各自積極的になり、コミュニケーションがお互いに内外面のレベルを上げていた。水泳教室、スポーツ教室等に参加しても最初は出来ないことが多かったが習慣にした結果、前回より必ず一歩進んでいた。諦めずに続けていく大切さと、加齢に伴う不具合を先取りしてしまったと考えると少しは気分が楽になった。これも受容の手掛かりと思えた。最近友人が癌で亡くなりお悔やみの際に奥様から「少し位の不自由さを与えられたとしても長生きして下さいね。奥様の為にも!!」と励まされた。どんな状況でも強く・前向きに生きることは義務であると思い直した。

次週に続きます。ご感想をこのブログにお待ちします。
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12年前、脳内出血発症時に、私は何を考えていただろうか?(3分割のその1)

2023-09-16 09:00:00 | エッセー「受容と回復」
    

 私は最近難病の海老原宏美(1977年神奈川県出身)さん著書「わたしが障害者でなくなる日」(2019年旬報社発行)に出会った。私が中途障害者になって10年超経過していた。本を開いた途端、衝撃を受けた。誤解無きことを祈りながら、一言で述べると、彼女の主張は、「私は難病なの。でもね、病気と障害は違うのよ。障害はネ、あなたのせいなのヨ」の通りである。
そこで、私が障害者と呼ばれることになった時には、どんな気持ちだったか?当時投稿した原稿を引っ張り出した。私は原稿の中で、「①障害者になったのは自分の不摂生である」、「②障害者は健常時に戻るべく努力しなければならない」というスタンスで一貫していた。その状況で海老原さんの主張に刺激を受け、それ以降「障害理解」について勉強している。
ここでは、10年前に私が考えていたことをエッセーから抜き出して3回に分けて公開します。今回は3分割のその1です。

エッセー「脳卒中後遺症の受容と回復」(3分割のその1)
 生涯現役を標榜し大手企業の技術者として勤務する傍ら、中小企業診断士として異業種交流コーデイネータのボランテアに精を出し、60歳の定年後も5年間子会社で勤務し、その後関連協会の事務局長に就職した矢先の脳内出血の発症だった。救急病院で65年間の生き様が全て否定された気になった。痛い目に合って人間初めて気付くものだと指摘されたが、全て後の祭りで無念さばかり残り、私の人生は終わったと思わざるを得なかった。殆ど休みなしに走り詰めの日常が急に何も出来なくなった訳で、何をどのように考えれば良いか答えがあるはずは無かった。
何の目標も持たず、悶々として1ヶ月過ごした救急病院から転院したリハビリ専門病院で、主治医との最初の面接で「現在私は全く歩けません。利き腕の右手だけはしっかりしているから、左手・左足は特に要らないのです。」と言ったが、とんでもない間違いに直ぐに気付くことになる。理学療法士の第一声は、全く歩けなかった私に「この訓練室は1周50mです。2周歩いてごらんなさい!!」である。無理と思いつつ、しかし久し振りに自分自身を鼓舞しながらよちよち歩きで歩き始めた。何とか2周歩いた時にはもう全ての蟠り(わだかまり)がなくなったとさえ思った。とてもうれしかった。こうして最初のきっかけから理学療法士と目標を共有することが出来一切を信頼した。そして彼女に「私は現役時代、何事も目標を掲げその目標を達成する為に、毎日・毎週何を成し遂げておかねばならないかを決めていました。どんな高い目標でも辛いリハビリでも構いません。」と訴えた。理学療法士とのやり取りが受容の第一歩であったと思う。3ケ月の退院目標までのマイルストーンが出来上がった。理学療法士と趣味の話になり師範取得している詩吟を披露し、聴き入ってもらったことが自信になり受容の背中を押してくれた様だ。
 退院時、主治医に「私はどの程度まで回復するでしょうか?」という質問を投げかけた。私の最大の関心事であった。主治医から「人それぞれ全く異なるので何も言えない。リハビリには6ケ月の壁というのがあり、それ以上は回復しないので十分理解して生活して欲しい。」と指導を受けた。その時は6ケ月の壁とはそんなものかと頷いたが、自分としては「きっと健常時と同じ位に行動できる迄努力してみる。」と心の中で反復していた。初めて見る身体障害者手帳には「左片マヒ第1種2級」とあった。

次週に続きます。ご感想をこのブログにお待ちします。  
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「 5年目の脳卒中後遺症の受容と回復」(5回連載の5回目)

2015-10-24 09:00:00 | エッセー「受容と回復」

今回は5回の内、第5回目最終です。

健常時何の制限も無い活動から真逆の別世界に落ち込んだ訳であるが、

私は障害者になって思うことは健常時のままだったら

既存の枠を出て自分から別世界に対し「相手の悩みを聞き気持ちを和らげてあげる」ことは多分無かったと思う。

身体のどこか一つ不自由があるだけで他人への優しさ・思いやりが

これ程変わるものかということを肌身に感じ、

私自身が逆に助けられていることで受容・回復につながっていると思う。

趣味に助けられたスマート詩吟が同病者の活力の元になると信じ5年目に一歩進んだ「福祉吟詠」を立ち上げた。

「福祉吟詠」を次の様に定義し同病者数名で楽しんでいる。

定義をそのまま転記すると

福祉吟詠とは自分の出来る範囲で、原作を出来るだけ理解し、作者の気持ちに出来るだけ溶け込み、

自分が感じたままの朗詠(朗読・吟詠)を通して、聴く人にその感動を与えることで、周りを豊かに・幸せにしようとするものです。」

となっています。

だから福祉吟詠では上手下手を問いません。

詩文、朗読そして吟詠に感情を込めた深みを大事にしたいと会員全員で共有しています。

健常時のイメージを常に持ち続けることによって「中小企業再生へのお手伝い」のテーマの実現もレールに乗せることが出来そうである。

発症から5年の一行日記を読み返すと、私は月日の経過と共に少しずつではあるが回復している。

6ケ月の壁は必ず越えられると思って行動してきた。今後もそのつもりである。

自分への戒めは

「健常時のイメージを描き両手両足で行動する」、「積極的に社会参加し全てを共有する」

そして「後遺症に負けそうになると自分を鼓舞する」である。

 

以上で5回連載した「5年目の脳卒中後遺症の受容と回復」は終了です。

ぜひ感想をお聞かせ下さい。

 

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「 5年目の脳卒中後遺症の受容と回復」(5回連載の4回目)

2015-10-17 09:00:00 | エッセー「受容と回復」

今回は5回の内、第4回目です。

 

詩吟大会は毎年2回開催されていたので2年目には一人で吟じる独吟に挑戦した。

舞台上での直立での吟は緊張はしてもそれ以上にこの場に立てた嬉しさが勝った。

私の心構えにしていた自分を鼓舞しながら

「みんな違ってみんな良い」という金子みすずのメッセージ「わたしと小鳥とすずと」を詠い終った際に

感無量の中で自然とお礼の言葉が出た。

詩吟が私を回復・受容に際しまさしく助けてくれていると思い、

詩吟に対し敬意を込め「スマートホン」つまり「賢い電話機」に倣い、

「賢い詩吟」ということで「スマート詩吟」と認識したことは新しい発見であった。

3年目には今回再編集しているこの短編エッセー原作「脳卒中後遺症の受容と回復」が

文芸社発行「闘病記Ⅳ」の中に掲載された。

http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-14527-3.jsp

 

この感動を4年目には長編として文芸社から「スマート詩吟は面白い=趣味の詩吟が脳卒中後遺症を癒してくれた=」

として上梓することが出来た。

http://www.bungeisha.co.jp/bookinfo/detail/978-4-286-15064-2.jsp

 

どうぞ単行本をお手元にとってご覧ください。

ここで第4回は終わりです。次回最終回をお待ち下さい。

 

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