太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

秋は何処に

2020-10-16 07:34:54 | 日記
急激に寒くなって一足飛びに秋を越えてしまったようである。着るものが追いついていない。特に下着は夏と変わっていないので、勿論毎日着替えてはいるが、余計に寒い。小さい秋すら見かけなかった。そういえば子供が小さい頃、ちーさい秋、ちーさい秋みーつけたを、小さい足、小さい足みーつけたと歌っていた。人のことは言えない。自分もかなり大きくなる迄パラシュートをパラットシューと覚えていた。(順風)満帆はマンポと読んでいた。尚早は漢字が逆でソウショウ、鳥取は取鳥だ。汽車に乗って遠くを並行して走る青いトラックを見て、青いトラックは汽車より速いと幼稚園で言い張った。太陽は月に変わって出て来るので西から昇ると信じていた。その月は歩く速さで動いていると思っていた。思い込んだら中々変えられない性分である。悪いが多少子供にも遺伝している。
 秋の夜長でもないが寝る前は寝床に入って本を読む。ここ暫くは遠近両用の眼鏡が合わなくなって文庫本の字が読み辛く止めていた。もしやと思い100均で老眼鏡を買ってみた。ビックリするくらい良く見えるようになって再び寝床で読み始めた。11時ごろには寝床に入り12時前には眠くなってしまうから睡眠導入剤のようなものだ。副作用もある。面白い本に出合うと逆に頭が冴えて寝られなくなる。本の内容が奇想天外にアレンジされて夢に出て来ることも度々ある。今はホラーサスペンスなので恐ろしい夢になるかも知れない。B級読書であっても無駄な時間を過ごしたとは思わない。何某かは得るところがある。たった一言の表現や知らなかった漢字に出会うこともそうだ。一番辛坊が必要なのは上下とか上中下の長い小説では必ず中弛みがある。何故ここでこんなにページ数を費やすのか、さっさと次の展開にと移れと思ってしまう。それも含めてB級ではあるが作者の意図が全く見えない時はイラついてしまう。有名な作家ではこれ以上捏ねくり回しようが無いというくらい表現に拘る者も居る。最初は新鮮だが何冊か続けて読むと鳥もちのように身にまとわりついてうっとおしいと思うようになる。逆もある。渇いた大地に浸み込む雨のように何の抵抗もなく読み進んでしまう、後味が実に爽やかな文章で綴られたものである。内容が特に印象に残るものではなくてもこの爽快感は堪らない。読書の楽しみ方は様々だ。
 明日の市民講座は現役の研究者が講師になって「地球温暖化問題」がテーマである。今まで誰も言い出さなかったことを質問しようと思っている。「今は間氷期ですが何れ氷期はやってきます。化石燃料は賦存量も在りかも使い方も分かっています。氷期に備えて温存しておけばその時掘り出して使えるのではないでしょうか?」と。

我が身は腐葉土

2020-10-15 07:27:04 | 日記
 サラリーマン時代、身だしなみには一応の注意を払っていた。オシャレという意味ではない。人と会う機会が多く、相手に生理的に不愉快な思いをさせてはならない。ワイシャツの袖口はあくまで白くスーツは皺など入っていてはならない。髪の毛は乱れなく73に、年が行ってから短髪で清潔感をモットーにしていた。それが定年後人に会う機会もめっきり減り、特に気を遣う必要もないのだが頭髪だけは譲れない。横の髪が耳に触れるようになると何だかモゾモゾと虫が這っているような気がする。今では益々短くして坊主に近い。それなら非組の安い散髪屋でも大丈夫でしょうと言われるがそこはプライド、定額料金の散髪屋に今も通っている。店主も年が行って今では髪型に何の説得力もない禿げ頭になっているが相変らず、何時ものように短く?と確認してくれるのは水戸黄門の決め台詞のような安定感がある。昨日は今では贅沢な行為となってしまったその定額散髪に行った。午前に行くと珍しくオバサンが散髪をしていた。赤青白の回転式サインポールがあるので明らかに理容室(散髪屋)なのでパーマを当てているのではないと思うが珍しい。パーマを解いて新しい髪型にしているのか、小一時間掛かるので午後ならと言われて再度午後出かけた。今度はパンチパーマのおっさんが座っている。禿げ頭の店主だが美容師の免許も持っているのかと思ったがやはりパーマをあてているのではない。もう一度来るのも億劫なので待つ事にした。どうも顔そりと乱れたパンチの調髪らしく盛んに生え際の処理をしている。これも1時間くらい待つ事になった。先客のせいでも店主のせいでもないのでイラついてもしょうがない。
 諦めて雑誌と新聞を読破した。やっと順番が来たが最近はバリカンを使って粗方短くする。それまでは鋏だけだったがバリカンを使ってもよろしいですかと聞かれNOという理由もなくOKした。大きな鏡で自分と向き合うのは何だか照れくさく世の中で見たくないものの一つだが床に落ちた切った髪を見るとああ散髪に来てよかったと納得する。現役の頃には当たり前だった行為が今では贅沢な行為となってしまった。さりげなく文章の中に理容室と美容室の違いを盛り込んでおいたのが分るだろうか。
 スーツを着る機会はめっきり減ってチノパンが多いが破れてもあまり気にならない。といっても流行りのダメージパンツはダメで継ぎ当てされていなくてはならない。服装に関して拘りがあるとしたらなるべく楽なサイズで軽いものをという基準である。さらに丈夫で長持ちするに越したことはない。先日の市民講座は雨だった。建物の前通路は苔が生えていて滑りやすい。隣の人が恐る恐る歩いていた。こちらは先日ワークマンで買ったノンスリップの靴を履いていたのでこういう靴なら滑り難いですよと見せたら、アレッ私の靴と同じですよと色もデザインも同じものを見せてきた。ホームセンターで買ったとのこと。こちらは釣りの時スパイク長靴が高かったので選んだのだが、そんな目的は言わず、年が行くと思わぬ所で滑って大けがになることもありますからねえと同類項。そういえば講座に出ている聴講生は皆同じ年代で服装や髪型まで似ている。野球帽もよく見るし100均で買ったビニール手提げも何人かは持っていた。ファッションよりも実利の年代である。困るのは偶に東京へ出なければならない時今サラリーマンはコートを着ているのか。マフラーは、スーツはもう冬用かと悩むことである。実用的ではなくても形式的、虚飾的なものを要求するのが東京である。
 「我一葉 積る枯れ葉に なお積る やがて野になり 若葉のために」。もう後先もわからずそっと社会に紛れ込む、初老を迎えた安堵と寂しさ。その他大勢、目立たぬ一葉であっても春の若葉のための肥やしの一部にはなれるかと微かな自己満足に浸る。素晴らしい句です。拙老作。
大老の声が聞こえそうです。君らの重みでこちらは半分腐葉土になっているのだぞと。お見逸れしました。新参の落ち葉です。

時代の知恵が熟す時

2020-10-13 07:12:44 | 社会観察
 ネット記事でコロナ感染で重症化リスクが高い原因はネアンデルタール人由来の遺伝子にあるというものがあった。昨年はB級読書でも人類の進化に関する本を何冊か読んだ。その中に現代人の数%はネアンデルタール人固有の遺伝子を持つ者がいるというものがあった。ヨーロッパに進出していたネアンデルタール人は後からやって来たホモ・サピエンスに絶滅させられたという仮説に対し交雑もあった証拠だとの解説だった。確かに身の回りにはネアンデルタール人の復元模型かのような人が何人かは居る。遺伝子の追跡はそこまで可能かと驚いたがその後アメリカの犯罪者追跡に膨大な遺伝子データベースを活用し絞り込んで行く操作方法が紹介された。最近の市民講座で生命科学におけるDNA、遺伝子、染色体、ゲノムについて講義があり、つい最近ではノーベル化学賞をゲノム編集技術の開発をした博士が受賞した。これは偶然だが今読んでいる本は絶滅したアマゾンの種族の呪いがDNAを介して復活するというサスペンスである。無意識のうちに興味のある情報を拾い上げているのかも知れないが偶然も度重なると必然かも知れないと思ってしまう。
 思い出すのは50年以上前の高校の生物の授業である。その先生は東大卒で何時も白衣を着て授業を行っていたが、デオキシリボ核酸(deoxyribonucleic acid)について随分難解な授業を行った。こんなことまでは受験には出ないけど流石に頭が良いと言われている君たちでも理解できないだろうとちょっとサディスティックな癖のある先生だった。確かに生物だけはテストの平均点が40点くらいで最高でも70点台と異様に難しかった。私?平均点上の人生。他の教科は平均で70くらい、ほぼ満点の生徒も結構居たのだが。プライドの高い生物の先生もネアンデルタール人から入って貰えればもう少し生物に興味を持って受験でも生物を選択していたかも知れない。もしそうだったら今DNAに興味を持つのも不思議ではないのだが。
 ノーベル賞でもそうだが発明、発見の類は殆ど同時期に多発的に起こる。これは特許などでも良く有ることだ。素晴らしいアイデアで特許出願しても殆ど同時期に先行出願があったりする。これは時代の知恵が熟す時期があるという事だろう。ある特許を出願した時、全く同じ特許が英国の化学会社から出願されており変更を余儀なくされたことがある。その会社の論文を読んだことも無ければ該当特許は公開もされていなかった時である。特許は知らなかったという理由は成り立たない。我々は知らず知らずのうちに関連情報を潜在意識に蓄積しており、殆ど同時期にそれが顕在化するのではないだろうか。全くの独自性ということは希少中の希少である。ノーベル賞をみていても必ず下敷きとなる先行発明・発見がある。一人で出来ることなど殆ど無いと言っても良い。時代が齎す知恵を独自と言い切る傲慢学者は日本学術会議会員にはいないだろう。例えそれが政府の意に添わない考えでも時代を色濃く反映していることを双方は理解すべきである。
 DNAは人体の設計図と言われるが人生の設計図でもある。突然変異か科学の力で設計図が変わることもあり得るが将来自身のゲノムが分る時代になったら半分が失望、半分が希望になるだろう。どこまで行っても平均点である。興味の行き着く先であっても自身のことだけは知りたくないようにも思う。設計図を変える時間も力も残っていないだろうから。

根元(本)の力

2020-10-13 07:12:44 | 日記
 余りと言うか全く個人には関係していないのだがGoToトラベルの割引率が変わる業者が出て来た。知らなかったが業者によって予算配分が決まっており割り当て予算逼迫による業者側の判断のようだ。予約を何処の業者のサイトでやるかで割引率が変わるのは可愛い外人さんが出てやっていたTVCMのホテル予約と変わらないと思うが客にとっては国がやる事業なのにという不公平感は否めないだろう。源資が税金か国の借金なので限度はあるとは思うがご難続きのキャンペーンである。関係していなくも無かった。年金暮らしとは言え所得税が天引きされていた。10万円の国民全員への現金給付が懐かしい。
 せめて医者に掛からぬようにと最近は自転車で散策する頻度を増して運動不足を補うようにしているが都度新しい発見もある。巡回コースの工業団地の中に桜並木があるが今は葉も殆どおちているが結構な大木が並ぶ。その桜の根が歩道のアスファルトを方々で盛り上げている。自転車はここでガクンと衝撃を受ける。根が太くなってアスファルトを押し上げ場所によっては破砕しているから根の圧力は相当なものである。根が太くなる力は知らないが例え小さな力でも長年月力を掛け続けていたらこういうこともあるのかも知れない。それともアスファルトが薄く、夏場に軟化したときに一気に押し上げるかどちらかだろう。ブログを書いていて根元と根本の違いが気になって検索したら以下の説明があった。著作権は分からないが平易な説明で分かり易くそのまま引用させて貰うと、
根本/根元;
「根元」も「根本」も「ねもと」と読む場合には、「植物の根や根のあたり」や「柱・樹木・髪など立っているものの付け根の部分」という同じ意味合いを持っています。「根元」を「こんげん」と読む場合は「物事がそこから始まっている大元・発生源・根源」という意味を持っていますが、「根本」にはその意味がないという違いがあります。「根本」を「こんぽん」と読む場合には「物事が成り立つための基本・基礎・本質になるもの」を意味していて、この意味も「根元(こんげん)」という表現にはありません。ブログを書いているとこのように都度漢字や意味を検索したりするので勉強になることは間々ある。
 書くという行為には副次的効果も多々あると思うが押印にも似たようなところがある。実印以外は何処にでも入手可能なハンコに何の意味があるのかと思いつつ押印するが一応内容は確認する。会社勤めをした人は角印と丸印の使い分けを教えられたと思うがハンコ自体に意味がある場合も多い。一方何処でも手に入るハンコより個人のサインが必要とされる書類も結構ある。パスポートが代表的だが芸能人と違って素人にはこれが結構厄介だ。サインをするたびに微妙に形が変わってしまう。間違わないようにブロック体でするとこれでは誰でも真似できてしまうと言われる。さて脱ハンコはどのような文化を生み出すのか。手続きの簡素化でやり玉に挙がっているがハンコがサインに変わるだけなら意味がない。自民党国会議員による「日本の印章制度・文化を守る議員連盟」(ハンコ議連)なるものがあって驚いた。多分日本記録の数となる押印決済書類なんかあるのかも。一体幾つ、どんな議連があるのか知りたいものだ。昔サンシャイン議員何とかもあった。

おしおき柿

2020-10-12 08:08:56 | 日記
 柿の木は今年は葉っぱばかりで実は生らなかった。いっちょ前に紅葉し散り始めたら庭ばかりか前の道路、しかも側溝に随分落ちた。台風が来たら詰まってしまうので一応掃除した。とって帰しこれはおしおきが必要と殆ど丸坊主になるまで枝を切り落とした。さて来年はどうなるか。庭にイチジクの木もあるが苗木を買って植えたらやたら大きな葉をつけて狭い庭に随分影を作ってしまった。そのせいで何もしなくても育つ紫蘇や獅子唐は大きくならなかった。3年目の今年は2個だけ実が生った。来年は期待できるので坊主にするのはよそう。子供の頃よく食べていた実が大きく熟すと先から割れる花イチジクとちがい小振りの実だが柔らかくなったので食べたら味は子供の頃のままだった。植木鉢に植えたバジルはやたら大きくなったが香草は使ったことがなく伸び放題となった。ミニトマト、きゅうり、ゴーヤに始まり、植物に興味があるかというとそうではない。何せ鑑賞用の花木は一本も無い。全て食べられるものである。ホームセンターで花の苗を買う人を見ると余裕がある生活だなあ、ああでなくっちゃと思う。そう、生活に余裕が無いから食するものを植える。釣りも良く行くが勿論食べるためである。生活の2割くらいは農漁業生活である。
 台風一過の秋晴れとは行かない曇りだったが何時もの自転車コースに出掛けた。『キンモクセイの香りを求めて』である。随分ロマンチックなことを言っているが本当にキンモクセイの香りは誰もが懐かしく大好きだろう。特に子供の頃は名前は知らなかったが生垣に小さな黄色い花を見つけると匂いを嗅ぎに行ったものだ。秋空にキンモクセイは曖昧な甘酸っぱい記憶でもある。何時もの工業団地の中だが何か所か生垣に植わっていたが残念ながら殆ど花は落ちて道路を黄色に染めていた。花が小さいので側溝に詰まることもないだろう。大人になってからは自然の香りより消臭剤の匂いの方が馴染み深い。残念ながらこれでは季節を感じることはない。これからは紅葉の季節であるが確かに紅葉スポットと言うところは美しい。しかし最近はネットの動画で行った気分になってしまう。しかも田舎育ちで紅葉は当たり前、今住んでいる所も郊外でちょっと車で走ればある程度の紅葉は見られるため新鮮味に欠ける。今行きたいとしたら松茸狩りだろうか。子供の頃ガキ大将に連れられて近くの山によく出掛けた。小高い山が連なる地方だったので一日中あっちの山こっちの山と歩き回った。採れるのは大きくて親指くらい、殆どは爪くらいの丸いものだった。食べた記憶はないので食べる習慣は無かった地方かも知れない。その後松茸は人気が出てやたら高価になったので益々食べることは無くなった。松茸の生えそうな山々はシーズンになるとロープを張ったりして入山規制が厳しくなる。子供の頃を思うと育てたわけでも無いのに何とケチ臭いと感じる。自由に駆け回れる山など日本の何処にも無いのだろう。それでも行ってみたいと思うのは採れるかどうか分からない、まさに狩りだからである。その内人工栽培ができるようになると消臭剤と同じで多分興味は失う。釣りも似たようなところがあり、ヘラブナとかアユ釣りとかに興味が無いのは放流しているからである。船釣りをしないのは船酔いするということもあるが魚探で調べて釣れそうなところに竿を出すのが公平性に欠ける気がするからである。どうなるか分からない、自然との闘いこそ狩りであり、好きなのである。多分石器時代に生まれていたら秋晴れの日には洞窟を出て必ず狩りに出かけていただろう。キンモクセイの陰で休憩し、帰り道がわからなくなるくらいまで何処までも鹿を追いかける。ナビは星と太陽。