太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

もうちょっとの人生

2017-12-31 08:57:33 | 日記

大晦日がやって来た。サラリーマン時代は3,4月の期の変わり目が転換点であったが、今は晦日正月である。この1年を思えば、多少仕事らしき執筆活動もあったが、やはりほぼ毎日ブログを書き続けたことが一番の思い出となった。変化に乏しい生活の中でよくも書くネタがあったものだ。ブログを始めた時に、できるだけ毎日、日記のつもりで書いて見ようと決めていた。書くこと自体が好きなのである。しかし、文章は稚拙で誤字も多いだろう。もう少し教養があれば大晦日だし、故事来歴を披歴して新聞のコラムニストのように軽妙洒脱なことも書けるのだろうが、そこには及ばない。

振り返ってみれば人生何時ももうちょっとの所だったような気がする。勉強も仕事ももうちょっとの所までしか行かなかったように思う。努力や精進が足りなかったと言えばそれまでだが、当時は多分自分なりに頑張っていたのだろう。もうちょっとの所で助かったのは何度か大病の兆しはあり、長生きはしないだろうと勝手に決めていたがこの齢までは辿りついた。今年も自分より若い知人が二人も亡くなった。本人は不慮の死、無念の死であったろう、周りも残念で仕方がない事だろう。彼らには、贅沢な、逆に言えばよくもそんな無為な人生を送っているなと叱り飛ばされるかも知れない。

何も無いことが幸せと思わなければならない歳なのか、何を言っとる、ゴールテープなどあると思うな、全力で突っきれと叱咤される歳なのかまだ良く分からない。確かに定年の時は兎に角退職モードには入らず、前日まで普段通り仕事をしゴールを全力疾走で駆け抜けた。別れの挨拶の後、何人かは本当に退職ですかと訊ねて来た。何も言われないので残るのかと思っていましたと。いえいえ会社には特別ルールはありません。

さて次のテープはどのように切るか。

 

 


日常に戻るということ

2017-12-30 10:04:47 | 日記

 ルーティンと言っても良いかもしれない。これをやれば元の生活パターンに戻るというルーティンを自覚しておくことは重要である。珍しく旅行などしたものだから帰って即は何だか落ち着かなく、ざわつく感じがする。こう言う時はどの様にして平常に戻るか。それは日常の生活パターンでやっている行動をすることである。昨日は戻すために釣り、コンビニ、読書で過ごした。日常が幾分戻った感じがする。これは心のエネルギーの最も安定した状態で、ここに一旦戻ればまた新しいことが始められる基底状態とも言える。冬休みに入ったが風物詩でTVでは空港や新幹線の駅の楽しそうな家族を映す。どれだけの人がどういう気持ちで見ているか疑問である。羨ましいとは思わないが、帰国後、帰宅後彼らも祭りの後の寂しさは必ず感じるだろう。リフレッシュ出来て、仕事でもスパッと日常に切り替えられる人は立派である。勿論そんな人はりフレッシュしようがしまいが仕事は出来る。

こういう思いに至ったのは、メーカーに居ながら海外出張も多く経験したためかも知れない。新しい風景、人に接した後は帰国後も何だか興奮状態は続く。周りもどうだったとか感想を聞いてくる。普段の仕事のペースに中々戻れない。ところが回を重ねるごとに周りは極普通の業務風景であり、感想やエピソードを訊く事も無く、淡々と何時もの業務に勤しんでいる。冷たいほど無関心で、多少寂しいところもあるが社会復帰ではなく会社復帰は容易である。多分日常と非日常の切り替えは多くの場面で必要となる。スポーツ選手の短い動作であってもルーティンは冷静な心のエネルギーを基底状態に戻す作業なのだろう。

釣りは相変わらず顔馴染みの連中が居た。暫く顔を見なかったねえ、その間に全部釣ったから今日はもう魚は居ないよと軽口を叩かれる。それは残念、ちょっと野暮用があって来れなかった、と温泉旅行など口には出さない。ここに集まっている人達は釣りも好きだけど、基本寂しい人達である。遠出をしたり、家族とワイワイ騒ぐ時代は過ぎ、あるいはその家族すら殆ど居ない人達である。他人の温泉旅行など面白いはずがない。釣果は無かったが何時ものように釣り談義で雑談を交わし、帰りの車では完全に日常を取り戻していた。

日常に戻れない相撲界がまだワイドショーを賑わしている。年内に治まるかと思ったが年越しである。貴乃花親方が理事会で降格処分となった(正式には年明けの評議委員会で決定らしい)。理事から役員待遇の2階級下げである。ワイドショーやコメンテーター、頭の悪そうなひな壇芸人のコメントなど概ね、加害者側の伊勢ガ浜親方と同じ処分はおかしい、処分は重過ぎるという理屈を言う。処分が重いのかどうかは分からないが、伊勢ガ浜親方は監督責任であり、貴乃花親方は理事、巡業部長として事件後の対応の問題で処分されている。処分理由が異なるのに、加害者、被害者という立場で処分の重さを比較するのはどうも良く分からない。監督責任ということでの両者の処分なら明らかに軽重はある。事件後の対応の仕方で比較しても違いはあるだろう。貴乃花親方は相撲界の日常を変えようとしているのだったらやはり相当なエネルギーで長期に強い意志と戦略を持ってやる覚悟が必要だろう。改革の成果は「満員御礼」と垂れ幕が続くかどうかで分かる。閑古鳥がなくようになったら神前の奉納相撲で生き残るしかない。暫く相撲から目が離せない。


続 温泉旅行顛末

2017-12-29 09:07:30 | 日記

二日目の宿泊は家内の故郷に宿をとった。勿論ここからは懸賞外である。何年振りかで降り立った駅前は綺麗に再開発され大きなショッピングビルや駅前ロータリー周辺は見違えるほど立派になっていた。新幹線が来ることを期待してとのことである。何処にもある再開発された地方都市の典型のようで「らしさ」は失われている。それでも空は相変わらずどんよりと曇り、時々雪が舞い強い風が吹く。覚えていた通りの暗い空である。再び家内の姉夫婦と娘さんが2台の車でやってきて案内してくれるという。最初はレンタカーを借りて回る予定だったが雪が降ると慣れていないから危ないというので迎えに来て貰ったと家内は言う。勿論私はそれぞれの日常生活を邪魔したくないという理由で遠慮したが家内の方は血縁というか遠慮なく頼んでしまったのだろう。家内の地元と言っても私自身はあまり方々へ足を伸ばしたことはなく初めて丸岡城に行った、昨日行った兼六園や加賀城跡に比べればこじんまりした城だが丁寧に整備された庭園に天守閣が映える。一筆啓上 火の用心で有名な本多作左衛門重次が陣中から妻に宛てた手紙で文中のお仙が初代丸岡藩主本多成重を指している。今では日本一短い母への手紙コンクールで有名である。ここでも我が家の家紋が勝手に使われていた。次が有名な永平寺。勿論始めて行ったがその大きさは順路の印が無ければまず迷子になる。曹洞宗の大本山で修業僧も大勢いる。この日は大変寒く雪も降っていた。山の斜面にこれほど大きな寺を建てようと思った宗教の力は偉大である。建物の外の斜面は雪が積もり、寺内は観光客も少なく森閑とした風情は一瞬のタイムスリップである。昼食を一緒に取った後帰路についた。新幹線はやはり空いておりJRに悪いが快適だった。さらに東京からの在来線は快速が始発で空いていた。

 今回の旅行顛末は以前書いた北海道旅行ほどのハプニングも無く喜怒哀楽の感情が湧かなかった。ガイドブックのような淡々とした語り口にならざるを得ない。理由は二つある。タダ同然の招待旅行だからタダなら仕方がない、しょうがないという気持ちが根底にあり、腹が立つことなど起こらない。もうひとつは何処に行ってもTVやパンフで見た事があるような風景で初めて見たり経験したりの感激があまりない。日頃の激務から解放されるとか、一生懸命貯金をして旅に出るとか日常からの解放が無いと旅を楽しむのは中々難しい。何を贅沢なと言われるかも知れないが、楽をしておいてさらに楽しむということは無理である。時間とか金とか犠牲にしたものの対価と比較して物事を推し測るという貧乏根性が抜けていない。まだまだ修養は足りない。

それとも歳のせいで情緒そのものが鈍麻してきたのかも知れない。残ったのは「ああ其処は行った事がある」と言える経験だけである。


温泉旅行顛末

2017-12-28 11:29:50 | 日記

日課にしていたブログを3日ほど休刊。北陸の温泉に夫婦で出掛けるというJRの宣伝にも出てきそうなシニア旅である。新しく開通した新幹線は車内は美しく座席も飛行機のエコノミーより広いくらい足も伸ばせる。この時期だが御用納め前からか乗客は少なく快適であった。初日は少し乗り継いで家内の実家近くまで行った。姉夫婦が迎えに来ており、申し訳ないと思いながらも車で方々連れて行ってくれた。姉夫婦には何年かぶりに会うのだがお互い様ではあるが随分歳をとった感じがした。まずは墓参りを済ませ、日本海へと車を走らせた。何十年も前に同じ様に連れていって貰った記憶がある。この日は強風で時々霰混じりの雪も降り、観光には適さない日であった。それでも打ち寄せる波は如何にも冬の日本海の様相で、海岸沿いの岩礁に当たって跳ね返に波の花も飛び交う。絵に描いたような怖ろしいような荒れる日本海である。何キロも海岸沿いを走るが普段出掛ける遠浅で静かな砂浜が続く海とは大違いである。もしかしたらこれが最後に見る冬の日本海かも知れないと思いつつしばし窓外を眺める。宿泊予定の温泉宿まで送って貰う。

宿は温泉街でも一番立派なホテルである。部屋に通されると5~6人が泊まれる大きな和室が二つ、小間が一つ贅沢な部屋である。夕食は館内のレストランであった。コース料理だったが愈々楽しみにしていたカニのお出ましであると思ったが違った。全ての料理は美しく小皿に盛られ京都の懐石風にて出てくる。ステーキまでも間に含まれていた。TVの旅番組に出て来る座敷膳に並ぶ大きなカニの姿はない。全て小さくほぐされている。ちょっとカニの期待が外れたので家内が別料金のセイコ蟹を注文する。子供の握り拳大で一杯2500円くらいと高価である。大阪なら客と揉めるだろうと思ったが文句は言わない。サイドメニューのビュッへスタイルのコーナーがやたら品数が多く、地元の食材がどれも美味しく調理されている。期待したズワイガニの姿は見られなかったが死ぬほど色んなものを食べた。食後温泉に。大浴場に人影は疎らで貸し切り状態である。しかし、何時もは風呂の目的は暖まると体を洗うという二つしかない為温泉の楽しみ方など知らない。温めるにも限界がありそう長くは浸かっていられない。パンフレットで見たとおりの風呂だと思いこんなものだろうと思っただけである。今回の旅は期待値のハードルはやたら低い。豪華な宿代も金沢までの往復新幹線代も家内が懸賞で当たったペア旅行、タダである。タダには文句のつけようがない。もし、自腹で来ていたなら感激も不満ももっと激しいものになったであろう。

2日目は金沢近郊の名所を訪ねた。城跡は広大で前田の権勢が偲ばれる。藩老の所蔵品を展示していた博物館にも行った。展示品も素晴らしかったが、出口に来場者がサインをする奉加帳のようなものがあり記念かと思い、書いていると見なりの良い言葉使いの綺麗な初老の紳士が遠くからですかと声を掛けて来る。家紋と苗字が同じなので寄って見ましたと言うと、全国からそのような人が来られますと言う。貌を見てビックリ、亡くなった父親とそっくりである。もしかしてと名前を訊くと同じである。多分所蔵品を寄贈して館長か職員になった人なのだろう。叔母から聞いていた家系は若しかしたら本当かも知れないと思った。有名な市場通りにも寄って見た。カニの店も沢山ある。店頭に並ぶTVやパンフで見るようなズワイガニは一杯1~2万円である。宿で姿を見なかったのも頷ける。美味だと言われているセイコ(ここでは香箱蟹と呼ぶ)も大人の握り拳大なら2~3千円、子供大でも1500~2500円くらい。地元だから格別安いというわけではない。一番高いズワイでは一杯45000円のものもあった。途上国なら家族が1カ月食べられるくらいである。思い出ついでにカニを買う事にした。相当贅沢な買い物で勿論タダの範囲ではない。店頭に足が1本もげたものとか所謂キズものが安く並ぶものがあると聞いたが大概売り切れである。立ち寄ったところで無いかと聞くと売り切れたと言う。それなら親指いがいなら1本でも2本でも良いから折って安くしてくれと言うとあんちゃんはポカンとして冗談が通じない。暫くしてそう言う事は出来ませんと答えた。傍にいた人が大阪の突っ込みやなと言う。次に、何軒かカニの店があるけど、ここならという自慢をしてくれ、納得したらもう他の店に足を運ばないと言うと若い兄ちゃんが必死で説明を始める。最初から決めていたのだが、良し分かったとズワイを1、セイコ(香箱ガニ)4杯頼んで宅配にする。2種類のカニだけど同梱しても良いから送料を半額にしてくれというと益々あんちゃんは冗談が分からなくなった。続きは明日としよう。

 


何が美味しかったか

2017-12-24 08:45:29 | 日記

TVで世界の牛肉の味くらべの番組があった。各国で和牛を育てており、日本の一流シェフがスタジオで同じ肉を同じように焼いて味比べするものである。和牛以外でも現地で食べられている人気の牛肉が登場した。比較するまでも無く何れも美味しそうである。そうであるのは食べたことが無いからそうとなる。スーパーの牛肉すら滅多にテーブルには載らない。精々肉じゃがに入っている堅い肉くらいだろうか。貧しいと思われても困るが豚肉は結構食べている。やっぱり貧しいと言う事か。

 肉食の始まりは200万年くらい前である。最初は屍の肉を石器で削ぎ落したり、骨を石で殴打して中の髄を食べていたとのこと。何百万年を経て辿りついたのが昨晩のレシピである。辺見庸の「もの食う人びと」ほどの示唆は込められないし、食レポが出来るほどの美食家でもないがサラリーマンにしては色んなモノを口にした方であろう。訪ねた国は多いが、殆どはそれを食べざるを得ない状況にあったからだ。自慢では無いが自腹で海外に行ったことは一度もなく、相手先と一緒に食べることが多かったので選択の余地がない。あるいは食べ物の選びようが無い選択肢すら無い途上国の僻地だったので美味しいからという目的は無かった。モンゴルでの食事は初期のブログで書いたことがあるが、それ以外でも食べて見て意外と美味しいと思ったものや、これはと思ったものを幾つか思いだしてみる。

中国は何度も訪れた国の一つである。地方に行っても中華はやはり美味しい。しかし、全て味が濃い為毎日王将で食べるようなもので3日目くらいからは全ての味が似て来る。最初の感激は続かない。北京ダックは値段が安いのに美味しかった(食レポでは無いので美味しいという表現は良く出て来る)。四川で食べた本場の麻婆豆腐は色が大変辛そうで躊躇したが爽やかな後を引かない辛さだった。火鍋は正体不明の歯ごたえというか噛み切るのが難儀な肉片が沢山あり浸すスープは記憶が飛ぶほど辛い。インドのカレーはスープ状で食べにくい。バングラは食後のデザートが桃の缶詰の蜜をさらに煮詰めたような液体に寒天みたいなモノが浮いて日本人の感覚では食後のデザートではない。ネパールは牛の代わりに水牛だったが兎に角堅い。山の上の農家で出されたカレーはそれなりだったが、砂のジャリジャリがあり、ミルクティーは脂を浮かせてあり水溜りのオイルのような干渉縞は抵抗があった。外人が来てくれたので今日は特別に(トリ)肉を入れたというカレーは勿論笑顔で美味しく頂いた。

キリバスやツバルなど南太平洋の島嶼国は海に囲まれさぞ魚が美味しいと思ったがラグーンの中で採れる小魚の素揚げくらいでこれがまた油を直接飲んでいるような味で、多分ヤシ油は代々注ぎ足しの年期モノだろう。住民には大型の魚を採る漁法が無いため仕方がないことか。アメリカではボストンだったかカリフォルニアだったか大きなカニの身をオリーブオイルのようなものに浸して食べる。ある意味残念で勿体ない食べ方である。肉は16文くらいの大きさで食べ残しては勿体ない精神で食べるから最初の一口の美味しさは最後の満腹苦しさで終わる。因みにサラダは飼馬桶のような器、コーラはちょっとしたバケツサイズ。世界が食糧危機になったら多分アメリカ人が最初に滅びる。イタリアは流石にスパゲティは極上、コーヒーも格段に美味い。イギリスは食べ物の記憶が殆どない。珍しいカナリア諸島やマデイラ島にも行ったが記憶はない。スイスは多分美味しいと思ったものは無い。ドイツは客先で食べた鹿の肉はソースも極上で美味しかった。勿論地ビールも。思い起こせばまだあるだろうが、教訓は海外に出ると現地のモノが食べられるかどうかが言葉の障壁より高い。食べられなきゃ仕事どころではない。何処に行っても思ったのは、自分が最も好きな食べ物はお茶漬けに瓜やナスの浅漬けと心の中で断言できた。

(決してその国の食べ物が美味しいとか不味いと言っているのではなく、あくまで個人の経験という狭い範囲のお話である。明日から北陸にカニを食べに行く。どうだ贅沢だろうと言いたいが懸賞にあたった褒美である。客先で出される食事と違った意味で期待外れでも文句は言えない。ブログは3日間休刊となる。後日談は勿論書くつもりだ。)