コロナ禍といいロシアのウクライナ侵攻といい世界は大変な惨禍に見まわれている。こんな時に旅行やグルメ、子供やペット、自家菜園の話など呑気なことをブログに書くことは何となく後ろめたい気もするだろう。東日本大震災の時レジャーなどはタブーであった、というより自主規制が働いた。同じような感覚だ。しかし物は考えようである。惨禍の渦中にある人達が安穏と見える生活を見聞きした時、羨ましいと思う次にどうしたらあのようになれるのかと思う可能性もある。これは個人でも国家でも同じである。戦禍に見まわれない国にはどうすればなれるのか。世界全体が喪に服する必要はない。ただ条件がある。平和に暮らしている人達も時々は悲惨な状況にある人達のために自分は何ができるかを考えることである。それは趣味に生きていてもできることである。
ロシアはある日突然撤退するのではないかと思っている。ウクライナがNATOに加盟しようとしたらこれくらいのことはやるぞという威嚇の目的は達成したのではないだろうか。いわば威嚇戦争である。当然撤退の理由は平和のためにというマッチポンプ方式だろう。ウクライナににとっては天災に近い悲劇である。一方でこんなことにならないようにNATO加盟で集団安全保障という意見も出て来る。人間のやることは昔からそう大きく変化はしていない。変化というより進歩はしていない。暖かい春を待つだけという高齢者も世界には沢山居る。その平和が羨ましいと思う人も沢山居る。ニュースにならない日常を有難いと思わなければならない。
ロシアはある日突然撤退するのではないかと思っている。ウクライナがNATOに加盟しようとしたらこれくらいのことはやるぞという威嚇の目的は達成したのではないだろうか。いわば威嚇戦争である。当然撤退の理由は平和のためにというマッチポンプ方式だろう。ウクライナににとっては天災に近い悲劇である。一方でこんなことにならないようにNATO加盟で集団安全保障という意見も出て来る。人間のやることは昔からそう大きく変化はしていない。変化というより進歩はしていない。暖かい春を待つだけという高齢者も世界には沢山居る。その平和が羨ましいと思う人も沢山居る。ニュースにならない日常を有難いと思わなければならない。