太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

ちぐはぐな質疑

2017-11-30 09:13:06 | 社会観察

国会中継を見ているとアレッと思ったりさすがと思う質疑が有る。当然そう答えるだろうと言う無駄な質問は大概ヨイショである。安倍首相のシンパである山本議員の質問は与党議員であるが結構面白かった。同議員は弁舌に長けており私のブログにも登場する。

総理は北朝鮮の核保有をお認めになりますか、という質問に対して、北朝鮮の核保有は断じて容認するころはできないと紋切形の答弁だった。広辞苑を引くまでもなく「認める」という言葉には幾つか意味がある。「見て判断する」と「構わないとして許す」などである。質問は明らかに現在の情勢判断からして北朝鮮が核兵器を持っていると思いますか、という流れだったと思う。ところが答えは容認する訳には行かないという従来の答弁のまますり替えてしまった。正直に答えれば、「持っていると思うがそれを許す訳には行かない」だろう。

これも山本議員の質問だったと思うが、アメリカが軍事行動に踏み切る場合、世界の首脳で最も親密な間柄である安倍総理は国益を考えてやめるようアドバイスすることはあるか(アドバイスするべきという流れだったと思う)との質問があった。アメリカがこの先どういう行動をとるかという事を予断を持って発言する立場に無いとかわされた。上手い。

森友問題では価格交渉の録音テープで、事前の価格交渉は一切ないと国会で目玉をひんむいて歌舞伎役者のように大見栄を切った現国税庁長官佐川氏の答弁が問題になっている。大栄転を果たした佐川氏はさぞ心配しているだろうと思われるが、恐らくそんな小心者ではない。メンタルの強さは官僚より政治家向きだと思う。どんな証拠を突き付けられてもシラを切りとおすことは勇気の要ることで普通の人はつい白状してしまう。

政治の世界とは無縁だが、年末に家内と北陸の温泉に出掛けることになった。日常殆ど会話が無いとブログにしばしば書いて来たが、意外に仲睦まじいと思われるかも知れない。この季節カニが美味しい筈である。多分定年後に出掛けた北海道から2年が経ったがこれが40年近い結婚生活の中で2度目の旅行である。ブログネタも拾えるだろう。一体何があったのと思われるだろうが、理由は単純である。家内が何かの懸賞に当たってタダで行けることになったからである。高い金を払って夫婦で旅行などとはどちらも想像できないから特殊事情である。タダほど高いものは無いと言うから結末はみじめかも知れないが。先の北海道旅行はパック旅行でとんでもないツアーガイドだったから全ての興味はガイドに向かい口喧嘩の暇さえなかった。今度はパックではないから多少の揉め事は覚悟しなければならない。今年の夏はカニでクロダイを釣ったが今度は私がカニに釣られて行く番である。

 


技術力をどう見るか

2017-11-29 08:18:13 | 社会観察

今流行りの有名企業によるデータ改ざん、不正検査の問題ではない。早朝北朝鮮によるミサイル発射実験が行われた。暫く核・ミサイル実験が行われ無かった時、制裁圧力が効いてきたなどと呑気なコメントをする輩も居たがとんでもない。今回は高度4000キロに達し、1000キロ飛翔し青森沖日本のEEZ内250キロ地点に落下したという。明らかに宇宙空間に飛び出し、大気圏に再突入している。明らかに着弾地点を制御している。もし、もう数キロ高度が高ければ250キロは距離が延びるだろう。

東大の頭脳王の頭を借りなくとも、放物運動の計算で制御精度の大凡は見当がつく。

空気抵抗が無いものとして計算すると、1800秒(30分飛翔)し水平距離1000キロなら高度は3,972キロである。

これが1810秒飛翔し、水平距離1250キロなら高度は4,016キロである。僅か1%高く飛ぶと日本本土に落下する。勿論実際の計算では空気抵抗があり、気圧や風の具合で計算は複雑になる。EEZでまだ良かったと安心するより確実にそこを狙って落とす技術があると考えるべきである。勿論弾頭に爆弾は積んでいないのだろうが、同等の錘は乗せて実験している筈である。グアムやアメリカ西海岸へ着弾するリスクは負わなくともロフテッド軌道(単純計算では打ち出し角度85度)でここまで飛ばせばアメリカ本土に届くICBMであることは容易に分からせる筈である。

北朝鮮のミサイル技術は未熟(何処に飛ぶか分からない)でも成熟(狙い通り)でも脅威である。もし間違って日本本土に落下したら、北朝鮮は我が国の物では無いとか火球を見間違えたのだろうとシラを切るのだろうか。韓国軍もミサイルを発射したという噂もあるが迎撃ミサイルなのだろうか。少なくとも北朝鮮は狙い撃ちできるミサイル技術を有していることは確実だろう。

トランプ大統領がどう出るか対岸の火事でないことは確かである。数年前の平壌の姿と高層ビルの立ち並ぶ現在、回虫が何十匹も居たという北朝鮮兵士、理解し難い国であるが、戦争を回避するというただ1点は死守しなければならない。圧力の出口戦略は国会質疑からは読み取れない。


場所後の方が騒がしい

2017-11-28 09:10:25 | 社会観察

九州場所が終わり日馬富士の傷害事件がますます喧しくなってきた。ワイドショーの盛り上がり方は本場所の相撲以上である。相撲取材歴何年の元記者とか、美形の弁護士や医者とか言いたい放題である。格闘技ファンだから相撲も末席だが好きな格闘技の一つである。プロレスと違って一般紙のスポーツ欄に堂々と取り上げられるからそれなりにスポーツとして認知されているのだろう。神前で行う儀式としての奉納相撲ではなく土俵上の勝負には力士自身の人生、生活が掛っている。国技だからと言って公務員として生活が保障されているわけでは無い。今回の騒動で横綱白鵬の振る舞い、言動にも相当厳しい発言が相次いでいる。一つは嘉風戦での土俵下での抗議である。

白鵬は待っただと思って力を抜いたと言う。しかしVTRを視ると両手を付き、白鵬側から先に左の張り手が入っている。先に手を出しながら待ったに抗議とは何だと言うのが一般の見方だ。しかし、私くらいの通になると、嘉風がいつもの頭からの突進ではなく、一瞬ほんのコンマ何秒か棒立ちの瞬間が見受けられる。ただ、さらにコンマ何秒後かに攻撃に転じている。嘉風自身が行事の待ったではなく残ったの声だったので攻めたと言っているように嘉風自身は待ったが掛ると思った節がある。それでも行事の軍配に従った攻めは避難されることではなく当たり前のことだ。白鵬は逆に行事の軍配に従わない抗議だから責められている。白鵬は本人同士しか分からないことがある、とその後に抗議を謝罪したが・・・。

相撲の立ち合いは呼吸が合うとか分かり難い表現を使うが、先手を取りたいのはお互いで立ち合いの張り手などはその極みである。途中でこれを止める事は相当難しいだろう。全力でぶつかった後、ほんの一瞬でも相手の力がふっと抜けたとしたら攻める方はアレッと思い攻撃の力は抜けるだろう。勿論嘉風が作戦でそれをやったわけではないだろうが、一瞬呼吸が合わなかったと思ったのではないかと思う。それでも行事の軍配に従うというのが最低限のルールであるから白鵬の抗議は責められてしかるべきだろう。野球選手がアンパイアに抗議するのとは訳が違う。国技であり品格が問われるのである。横綱らしい振る舞いを。

優勝後の万歳三唱も異例だとして非難されている。モンゴルには何度も行ったけれど万歳の習慣は無いと思う。あるのはお隣韓国と日本くらいだと思う。特に日本人は万歳が大好きで一般の会社でも年末年始、期末期首の社員を集めた行事ではよく万歳をする。心を一つに頑張ろうという決意の表し方である。勿論選挙に通った時などの万歳は慶事への喜びの表現ではあるが白鵬が自らの優勝に万歳をしたとは誰も思っていない。土俵外で色々あったが、ラグビーのノーサイド、もう一度心を一つにして相撲を盛り上げて行きたいという気持ちだったろう。敢えて万歳をしたのは日本人がもっとも喜び心を一つにできる表現を真似ただけだろう。モンゴル人には無い習慣を日本人らしく振舞っただけと思う。自分が相撲界を仕切っているという驕りとか評論家は言うが、相撲も興業であり、お客さんが居てナンボである。客の心中を精一杯察していると見た方が素直だと思う。

横綱審議会が中々厳しい意見を言っている。勿論ここで甘い事をいうと、またぞろ身内びいきで閉鎖的だとか言われるのを避けて敢えて逆張りをしているのかも知れないが。しかし、大凡相撲など取ったことが無い別社会の著名人を集めた審議会には問題もある。太陽電池の社会でも有識者会議とか専門家を集めた委員会が沢山ある。第三者委員会などという呼び名も公平公正中立のように思わせる素人集団と思って間違いない。特にルールを決めたりする委員会で大学の先生方には呆れる。産業としてという視点が全く欠落している。そのルールによって産業がどうなるかは頓着しない。今太陽電池産業はその猛烈な向かい風の中に居る。

相撲も興業である。外人枠が無いおかげでこれほど賑わってきた。その主役がモンゴル人力士であることは誰も否定しないだろう。日本の伝統としきたりを身につけた人だけが品格があるとするにはどだい無理がある。万歳の意味を教えるなど容易なことではない。決して傷害事件を大目にということではない。場外からトヤカク言う評論家やコメンテーターはどれだけ相撲興行のことを考えているかである。白鵬さん、ぶち切れてモンゴルに帰るなどとよもや言わないで。多くのファンはあなたがたモンゴル人を日本人だと思って厳しい事を言っているのだから。


行き過ぎた報道

2017-11-27 09:21:00 | 社会観察

大相撲の九州場所が終わった。何ともしっくりこない終わりだった。一番の問題は日馬富士の暴行事件に関する報道の在り方である。最後には白鵬の優勝後のインタビューで日馬富士と貴ノ岩が土俵に戻ってくることを願うという発言が越権発言だとか、協会が決めることだとか叩いている。横綱として思いを述べただけで、自分の発言により処遇が変わるとか意図したとはとても思えない。事件が起こって以来のマスコミの取り上げ方は異常である。報道というより芸能ネタや政治家の不倫疑惑並みの話題づくりに終始している。

モンゴル人力士にアドバイスするとしたら、質問にはモンゴル語で答えよ。上手に日本語を喋るように思われてもニュアンスまでは伝え切れないだろう。今回の事件でモンゴル人(会)という括りは良く無い。あくまで加害者被害者の問題である。現在幕内には42人の力士が居てそのうち9人がモンゴル人である。それも殆ど幕内上位で活躍している。背景には日本の相撲で活躍して一旗上げたいというハングリー精神がある。日本の相撲界をしょって立つという気概が生まれるのは相当上位に行ってからだろう。若い力士がモンゴル語で話が通じる先輩達から色んなアドバイスを貰ったり、悩みを打ち明けられる場は勝負の世界でも必要と思う。もう少し我慢してあの人のように活躍したいと踏みとどまった人も多いのではないだろうか。

傷害事件に関する司直の判断、その処罰を受けての協会の処分という単純な構図なのに、何故親方とか元力士とか、はたまたスポーツ評論家まで引っ張り出して今騒ぐ必要が何処にあるのだろう。親方と雖も親では無い。親とも雖も成人した子供の事件にあれやこれやと口を挟むのは問題であり、親でも子でもない者を執拗に追いかけるマスコミはどうかしている。他の傷害事件で同じことをしたら顰蹙ものである。元モンゴル人力士が何かを語ることはモンゴル人という枠を作り兼ねない。事と次第によっては幕内9人の春場所ボイコットにも成り兼ねない。場所は成り立たない。ここ何年も相撲人気を支えてきたのだからという忖度をせよと言うのでは無い。事件は力士同士の間で起こったことであり、人種間ではない。もっと単純に捉えれば良いのでは。

日馬富士は自らの行き過ぎた暴行を認めているようであり、被害者から被害届も出ている。事が決着してからマスコミは騒げばよい。横綱らしい発言とか、大凡求めても叶わない(日本人横綱でも)品格とか持ち出すから厄介である。ガリガリの少年達が稽古と食事によって皆似たりよったりの体形になるから、つい伝統とか国技が守られていると思いがちである。本当に美しい金髪の力士が現れて大銀杏を結ったら本物の美しい銀杏になるとブログに書いたことがある。協会はその時黒髪に染めろと言うのだろうか。

問題の大きさはマスコミの取り上げ方で決ってはならない。真実、事実が決めることである。

 


無駄の無い文章

2017-11-26 09:08:38 | 日記

朝刊に東大名誉教授の御厨氏が元号と時代について長文の寄稿をされていた。御厨という苗字にはあまり好きでは無かった仕事仲間が居たので良い印象は持っていなかったし東大教授というだけで権威の権化という偏見も持っていた。しかし、度々TVに出演したり、天皇退位の問題で正論を披歴していた頃から少しづつ印象が変わって行った。なによりも言葉に無駄が無い。今回の寄稿も内容というより可也長文でありながら無駄な表現がない、つまり過不足の無い文章に驚いた。字数が制限されている新聞にこれほどうまく収められるのはやはり頭抜けた才能と思う。

文章、表現、言葉を大事にする職業は小説家が典型だろう。かって本多好孝氏の小説で、多分デビュー作かその次くらいで同じ様に爽やかなものがあった。無駄な修飾語が無く、読み終えた後まさに爽快感が残るものであった。一時期同氏の本を読み漁った記憶があるが人気作家になるに従いこの感覚は無くなって行った。残念なことである。

ところが無駄が一切無い研ぎ澄まされた文章は逆に内容が心に刻まれないという弱点がある。考えたり、ときには不思議がったり、怒りや侮蔑を覚えるのはこの無駄な部分であるため文章があまりにすんなりと納得できる箇所は記憶に残り難い。

もし、順風満帆、平穏無事な人生であったらどうだろう。思い出というものは残るだろうか。思い出は人間らしい仕草の一つであると思うが情緒の発動がない人生は面白かったとかしんどかったという記憶にならない。かと言って波乱万丈の人生など誰も望んではいない。

無駄だらけの人生も折り返し点をとおに過ぎ、今思う事は一通りの人生しか歩めないのだから仕方がないと諦めるしかない。しかし、体力は目に見えて衰えて行く中でモノ書きは多少の頭と指先が生きていれば工夫次第である。ブログを書き続けているが、朝起きて一気に書いて読み返すこともなく推敲などしていない。その分誤字脱字、思い違いはてんこ盛りだと思う。その内自らに課したノルマを変更してでも、読み返しても何の恥も無い文章、洗練された文章を書きたいと思っている。ただ暫くは粗製乱筆は続く。