朝から晴天、冬のこんな日は外気温も低く、我が家の小さな太陽光発電も設置して16年になるがしっかり発電している。昨晩は家内から友達が亡くなったと聞いた。10数年、難病を患った旦那さんの面倒を見、その旦那さんが亡くなったその日、後を追うように亡くなられたとのこと。自分の知り合いでは無かったが何度か車に乗せてあげたことがある。歳は私より何歳か若い方であった。他人には分からない夫婦の絆があったのだろう。人は死を避けられないとしたら、攻めてどのように死にたいかくらいは秘めた思いとしてあっても良いのではないだろうか。家内が、私は後を追わないというので、頼むから追いかけて来ないでくれと返しておいた。朝から死とは不謹慎な話だが、若いころ病気で両親を亡くしたこが私に或る意味生き方を示唆したような気がする。それは、惜しまれて、誰からも愛され、家族に安定した生活をもたらし、頼られ、良き父親で、親戚中の誉れで、社会的責任も果たしている最中、死を迎えたらどうだろう。泣きの涙で送られるのは残ったものに対し最大の不幸を与えてしまうのではないだろうか。そこには死んでも仕方がないという諦められる理由が一つも無い。だからと言って憎まれ死ぬのが良いというのではない。大きくは皆に愛され好かれていながらも、ちょっと憎たらしいところがあったよねえ、とか××だけは欠点だったよとか、あれで結構非常識なところもあったよとか、少しは仕方がないと残った人が思うよな生き方と終わり方ができればと思っている。ふと友人に漏らしたら、君は仕方が無いと思われる事は沢山あるが残念ながら憎まれっ子何とかで相当長生きしてしまうよ、と言われた。
TVを点けたら動物の親子の子育ての様子が映されていた。ホッキョクグマやゴリラ、コアラなど幾種もの動物が登場し、親のけなげ(と見える)な子育てが微笑ましく感動的でもある。そう言えば昨日釣ってきた魚は卵を抱えていた。たらこもしかり、魚の親子にも少しは愛情はあるのだろうか。子供の数が多すぎて親は1個(匹)あたり掛けられる愛情が無視しうるほど小さいのかも知れない。
古館さんが引退するようだ。時折過激に、大物に対しても歯に衣着せず、好き嫌いがはっきりしているキャスターは珍しい。危なっかしかったがプロレスの中継アナがキャスターになったときは正直勤まるのかと心配したが番組が続くに従って成長し、良く勉強しているなあと感心したことも度々あった。タレントの如く方々に顔を出すキャスターや評論家(昼間の番組に多い)は殆ど勉強していない。口先だけ上手く言っても底は知れている。古館さんも多くの批判や中傷、ときには褒められ、多分神経が休まる暇は無かったのではないだろうか。誰が、どう言ったとか、どう思うとか、自分がやった事の影響とか、相手はどうするだろうかとか、やたら必要も無いことに想い(想像)を巡らすのは会社勤めや役所を相手にしていた時の自分である。これは今思うと結構自分を束縛していた。心やすらぐことは無かったようにも思うが、一方で自己のアイデンティティーを確立する元にもなっていた。贅沢なものである。気苦労があればそれに悩み、解放されれば自己喪失。
太陽光発電のゆるぎない明るい未来を書くつもりだったが残念。COP21での安部総理演説では「来春にはエネルギー・環境イノベーション戦略を公表」と、太陽光発電は国際的には環境問題の内で、国内ではエネルギーセキュリティとして登場するはず。前者は国際公約、後者は国内事情として政策に反映するだろう。太陽光発電があったではないかと必ず回帰する。