太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

反省しきりの大晦日

2015-12-31 10:22:39 | 日記

ブログを5月に書き始めて今日は年の締めくくり。サラリーマン時代は役所の付き合いも含めて感覚的には年度が全てのサイクルであり、大晦日は単なる通過点の行事であった。しかし現役をリタイアした今、年の終わりとか明日からサイクルが始まるという意識に変わりつつある。そのため、このブログも何とか締めの言葉が書ければよいのだが。そも、ブログを始めたのは自身の老化、劣化の度合いが計れるのでは、いやその防止が図れるのではと思っての事である。しかし、そのうち何名かの読者が居ることに気付き、読者の受けを狙ってという邪心が働き出したのは否めない。それは自身の記録という意味では落第である。恐らく何年か後に読み返す機会があれば、何と格好をつけて書いているのかと恥じ入るのは目に見えている。パソコンの中にも何年も前の原稿や資料が残っているが大概は背伸びして書いているのが読み取れる。大方の過去は未熟や無知、傲慢から来る「恥ずかしい」ものであり、出来れば年とともに消し去りたい気持ちで一杯である。

リタイアしてから時間の余裕はできたが果たして有効に使えてきたか。否である。自身の方向が定まらない期間が過ぎて行っただけのように思う。やりたいこと、やるべきことが見つからない日々であった。これは現役で悪戦苦闘している人にとっては贅沢なことであり、決して悩みなどとは言えない代物だろう。誰に対してのお詫びというわけでもないが申し訳ない気持ちになる。来年はもう少し生産的な建設的な積極的な生活を心掛けないと折角の人生が最終段階でうやむやになりかねない。

 


再び土曜の朝に

2015-12-26 10:28:08 | 日記

朝から晴天、冬のこんな日は外気温も低く、我が家の小さな太陽光発電も設置して16年になるがしっかり発電している。昨晩は家内から友達が亡くなったと聞いた。10数年、難病を患った旦那さんの面倒を見、その旦那さんが亡くなったその日、後を追うように亡くなられたとのこと。自分の知り合いでは無かったが何度か車に乗せてあげたことがある。歳は私より何歳か若い方であった。他人には分からない夫婦の絆があったのだろう。人は死を避けられないとしたら、攻めてどのように死にたいかくらいは秘めた思いとしてあっても良いのではないだろうか。家内が、私は後を追わないというので、頼むから追いかけて来ないでくれと返しておいた。朝から死とは不謹慎な話だが、若いころ病気で両親を亡くしたこが私に或る意味生き方を示唆したような気がする。それは、惜しまれて、誰からも愛され、家族に安定した生活をもたらし、頼られ、良き父親で、親戚中の誉れで、社会的責任も果たしている最中、死を迎えたらどうだろう。泣きの涙で送られるのは残ったものに対し最大の不幸を与えてしまうのではないだろうか。そこには死んでも仕方がないという諦められる理由が一つも無い。だからと言って憎まれ死ぬのが良いというのではない。大きくは皆に愛され好かれていながらも、ちょっと憎たらしいところがあったよねえ、とか××だけは欠点だったよとか、あれで結構非常識なところもあったよとか、少しは仕方がないと残った人が思うよな生き方と終わり方ができればと思っている。ふと友人に漏らしたら、君は仕方が無いと思われる事は沢山あるが残念ながら憎まれっ子何とかで相当長生きしてしまうよ、と言われた。

TVを点けたら動物の親子の子育ての様子が映されていた。ホッキョクグマやゴリラ、コアラなど幾種もの動物が登場し、親のけなげ(と見える)な子育てが微笑ましく感動的でもある。そう言えば昨日釣ってきた魚は卵を抱えていた。たらこもしかり、魚の親子にも少しは愛情はあるのだろうか。子供の数が多すぎて親は1個(匹)あたり掛けられる愛情が無視しうるほど小さいのかも知れない。

古館さんが引退するようだ。時折過激に、大物に対しても歯に衣着せず、好き嫌いがはっきりしているキャスターは珍しい。危なっかしかったがプロレスの中継アナがキャスターになったときは正直勤まるのかと心配したが番組が続くに従って成長し、良く勉強しているなあと感心したことも度々あった。タレントの如く方々に顔を出すキャスターや評論家(昼間の番組に多い)は殆ど勉強していない。口先だけ上手く言っても底は知れている。古館さんも多くの批判や中傷、ときには褒められ、多分神経が休まる暇は無かったのではないだろうか。誰が、どう言ったとか、どう思うとか、自分がやった事の影響とか、相手はどうするだろうかとか、やたら必要も無いことに想い(想像)を巡らすのは会社勤めや役所を相手にしていた時の自分である。これは今思うと結構自分を束縛していた。心やすらぐことは無かったようにも思うが、一方で自己のアイデンティティーを確立する元にもなっていた。贅沢なものである。気苦労があればそれに悩み、解放されれば自己喪失。

太陽光発電のゆるぎない明るい未来を書くつもりだったが残念。COP21での安部総理演説では「来春にはエネルギー・環境イノベーション戦略を公表」と、太陽光発電は国際的には環境問題の内で、国内ではエネルギーセキュリティとして登場するはず。前者は国際公約、後者は国内事情として政策に反映するだろう。太陽光発電があったではないかと必ず回帰する。


明るい未来を信じて

2015-12-25 18:51:16 | 社会観察

TPPがGDPを十何兆円押し上げて当然我々の暮らしも楽になり、素人の司法が高浜の安全性に踏み込んで稼働阻止したが、科学的に玄人の司法が再び覆したことには良くやったと、きっと経営が苦しかった関電は電気料金を下げると約束してくれるだろうし、安保法制、軽減税率、TPPの次は慰安婦問題を外交的に決着し、恐らく次は北方領土も何とか解決し、原発、新幹線、高速道路と次々にインフラの輸出先が見つかり、新旧3本の矢の的を絞るまでもなく新たな的を次々繰り出すから何処を見たら良いか分からないが、それだけ沢山の事をやっていると思えばさすが。内閣の支持率が下がるはずがない。そう素直に思える大人になりたい。

太陽光発電に明るい話は無いのか、探して次は書く。

 


丸の内仲通り

2015-12-23 09:26:53 | 日記

東京に出た帰路、運動を兼ねて丸の内仲通りを歩いた。昼間通ると高級ブティックやブランド店が並び、大した客も入っていないのに良く店が維持できるもんだと不思議に思う通りである。この時期になると夜は街路樹がイルミネーションで飾られクリスマスを控えた賑わいを見せる。昨日も若い人の中に中年のカップルや外人さんで通りは溢れ、景色をカメラに納める人も沢山居た。LEDは生木に飾られ、多分何時光合成をしたら良いのか木々は迷っているだろう。通りを歩くにつれ、この華やかさは本物だろうか、何時まで続くのだろうか、楽しそうに歩いている人達の実生活も光に満ちているのだろうか、世の中そううまくは行かないぞ、などと自分は違う、と景色に溶け込めないのは素直になれない天の邪鬼的初老故だろう。

TDLと同じで日頃の憂さを忘れさせてくれる、一時の夢の世界も必要なのだろうことは十分理解できる。また、都会に暮らす人達と田舎暮らしでは夢のひとときは当然違うだろう。美しい海や森に心安らぐ人も居て当然である。峠の一本杉がイルミネーションで飾られ、見る者はカラスくらいだったらそれは異様な風景といえる。

ちょっと小洒落た文になってしまったが、最近歳がいくに従って、考えるというより想いがだんだん重くなっているような気がする。もっと物事や人生が単純に想えるようになったら好々爺になれるのだろうが、未だに鳥羽口にも来ていない。そう、来たのは烏森口。

 


お、も、っ、て、な、し

2015-12-20 23:30:34 | 社会観察

オリンピックの運営費が計画の6倍、1兆8,000億円とか、民間だったら責任者クビとかのコメントもネット上に流れている。掲題の小さな「っ」を除くと「おもてなし」。思ってなし、などと親父ギャグではないが競技場デザインコンペからエンブレムに続く失態である。何が何処でどういうプロセスで誰の責任で決定されているのか良く分からない組織だが、経費となると大本は税金である。国債でもしかりである。今後新しい競技場が追加予算が必要、と尤もらしい理由が出てきたら流石に国民は怒ると覚悟しなければならない。チケット代を入札制にするとか(貧乏人はTVを見よとは言わないが特別席など大枚はたく連中もいるだろう)経営コンサルも交えて事業としての見方も必要(スポーツマンに金勘定は気の毒とは思うが)ではないだろうか。

企業不祥事もそうだが最近特に上に立つ者の覚悟と責任が欠落しているなどと、年金で細々と暮らしている者が言っても大阪で言うゴマメノ歯ぎしり。寝る前に呆れたニュースを読んで一言でした。