インターネットが話題になり始めた1980年代、訳知り顔で “新聞配達に未来は無いが、牛乳配達は永遠に続く”と不遜にもほざいた事がある。1軒づつ早朝、夕方に配達する新聞はやがてインターネットの普及で無くなり、インターネットでサービスされるようになるだろう。牛乳配達はあの重い瓶を運びながらもネットで配信はできないから続かざるを得ない。ところが事実は逆だった。新聞は未だに健在で、牛乳は欲しくなれば近くのコンビニで簡単に手に入る。ネットで注文しても都度素早く配達して貰うことは可能だろう。
新聞は健在というのは続きうるのか。否である。何故続きえないか。やがて新聞を良識、常識と信奉してきた我々高齢者や田舎で郵便配達並みのサービスを受けていたところは次第に姿を消してゆく。
いやそれよりも気掛かりなのは紙面の独善と正義づらした上から目線の記事内容にある。社説や記者が書いたコラムに如実に表れる。都知事を擁護していたものが与党重鎮の発言で俄かに突き放したコラムに変わったり、消費税の再延期に何となく理解を示すようになったりである。その変位は巧妙でこれも昔私が喩えた“蛇の寝返り”の如くである。尻尾から少しづつ捩じりながら、頭が返ったとき初めて寝返りに気付く。素人は“蛙の寝返り”であいつ寝返ったなと直ぐ気付かれる(これはサラリーマンへの教訓で蛇の寝返りを薦めた時の話だが)
18歳に選挙権が引き下げられた今、新聞で如何に世論を喚起し、誘導しようとしても既に若者は多くの価値観を有し、SNSを通じて簡単に多種の意見に触れることもできる。次の参院選で明確に影響は出なくとも何れはSNS対策の方が重要となることは目に見えている。
昭和生まれが健在な時代は新聞も健在だろうが、猶予期間は少ない。新聞が何かを教えるという立場をとる限り。