太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

木になる米

2016-11-30 08:49:23 | 日記

日常生活の中でふと疑問に思う事がある。それが一過性ではなく、何度も繰り返し考えてしまうこともある。その一つに米がある何で人間はこんなに小さな粒を食べるようになったのか。以前「火の利用」は火山の近くや雷や風による摩擦で森が燃えるのを目にした人間が暖かく感じたり、焼け焦げた動物を空腹のあまり食べてみたら結構いけると思ったことが始まりではないかと勝手に思って疑問を解消した。不思議なのは米や麦である。あんなに小さな粒が今は人類を支えている食糧である。もし、米が握り拳大で木になっていたら果実のように食してみたかも知れない。偶々野生で群生しているところがあり、小鳥が啄ばむのを見て食べられるんだと思って何粒が口に入れても固くて不味い。稲藁だけでも洞穴に持ち帰り焚火の足しにすることはあったろう。その時穂先に残った稲の実が焼け焦げたり、弾けてその辺に散らばったのをネズミが食べる。子供が好奇心で口にする。親も試してみると群生地の不味さは無い。ちょっと大目に持ちかえって焼いて見る。までは想像できる。これを煮たり蒸したりして柔らかくするのはもう一段階別のプロセスの想像が必要だが分からない。群生地では僅か半年で新しい稲が育つ。これは凄い。3月に苗を育て、6月には田植を終え、10月には収穫である。この早いサイクルに気付くことが稲作の始まりだろうが、今や世界でどれだけ多くの人がこれに頼っていることか、脅威の小粒である。どうしても食べ始めが気になる米である。

最近気になる事は人間の鼻の異形である。多分始めは手塚治虫の漫画にあるような犬のような形の人間の顔が頭蓋骨の発達とともに頬が出て来て今の鼻が取り残されてそこに残ったように思う。ゴリラやチンパンジーは取り残され方が半端なく、埋め込まれてしまいそうな勢いである。さて、取り残された(決して飛び出してきたのでは無いだろう)鼻であるが時分の好みの形がかなりハッキリしてきた。あくまで個人の感想だが、好きな形はポールマッカートニーや天地真理の若い頃の鼻である。何処となく少年ぽい鼻は如何にも可愛らしい。苦手な鼻は全体に肉付きが良く如何にも意思の強そうな主張をする鼻、穴が不釣り合いに大きくてきっと空気以外も吸い込みそうな恐怖を感じる鼻。世間は誰も気にしないだろうが鼻尖が突き出し鼻翼がやや上目のもの、ビールの宣伝に出る元宝塚の方、未だにミニスカートが似合う歌手、女優のこれもビールの宣伝に出ている女優さんなど世間では美人の代表でもある。個人的には油断できない狐の狡猾さを連想してしまうのは本当に失礼とは思っているが。

意味が分からないのは鼻柱が鼻翼より内側に入り込んでいるタイプ。有名な野球選手や女装のタレントさんなど。これも度が過ぎて鼻柱が内側に入り込むと一体どういう形になるのか、ある種恐怖を感じる。何処かの国の女優さんのように全く同じ形になるのも変だし、それぞれの個性があって良いとは思うが拭い切れない個人の印象である。自分はどうだと問われれば好きでも嫌いではない普通と答える。病院で寝ている父親を下から眺めたような細長い鼻の穴は遺伝していない。それでも母親ほどは子供っぽくなく普通に留まっていると思う。


中枢の崩壊

2016-11-29 09:28:59 | 社会観察

お隣の韓国が大変なことになっている。大統領の弾劾せよとか、財閥と政官の癒着による高度経済成長の歪が生んだとか、個人の犯罪から話は広がる一方である。過度に権力が集中すると必ずそれを利用しようとする者が現れるという過去の歴史そのままである。強いリーダーシップ=権力の集中=急速な発展は国に限らず一般の会社でもよくある話だ。問題は一旦集中した権力は自然には均されないことだ。多くは崩壊という表現で終わりを告げる。「日本中枢の崩壊」という脱官僚の本があったが、まだ崩壊はしていない。多分思っているほど権力は集中していないのだろう。お隣韓国の混乱が隣国にとって望ましいはずはない。残念に思うのは、弾劾で大統領を辞めさせることばかりに焦点が当てられ報じられていることである。コメンテーターは途上国の権力構造そのままとか言っているが韓国にも良識や知識人は居るだろう。既に次期大統領候補の名前など挙がっているが、本来は権力の集中のリスクを如何に回避し、韓国が経済を含めてどのような国の形を目指すのかの議論も始まっているはず。どこの国にも冷静に国の将来を考える良識があるはず。残念ながらその声は隣の国にまでは届いて来ない。せめて大規模なデモ参加者の心底には国の未来をどうするかという冷静沈着な想いがあると信じたい。首の挿げ替えで問題を終わらせると同じ事を繰り返すだけだと思う。

もう一つの大きな(?)ニュースは歌手の覚醒剤再犯問題である。丁度今ソ連邦崩壊後のロシアマフィアの暗躍を描いた小説を読んでいる。覚醒剤も大きな役割(小説の具として)を果たしている。アフガ二スタンで精製され、ロシアンマフィアにより極東経由で日本に入ってくる間のマフィアの抗争物語りである。以前偶々読んでいた小説のテーマが現実の事件として現れたことがあった。ブログに書いたことが本当に起こったこともある。今回の歌手の再犯ニュースを聞いて多くの人は「何であんなに地位も名誉も金も手に入れた人が罪を犯すのか」と訝る向きもあるだろう。かってのスポーツ選手もしかり。しかし、実態は表に出ない数多の常用者が居てその頂点に何でと思う人達が居ることは皆が感じている。小説では「平和ボケした日本を覚醒剤で叩き潰す」というテロリストの科白がある。喪黒福造のように心の隙間に入り込んでくる恐怖である。

読んでいる小説とかブログに書いたことが良く現実化するのは驚く。まだ読んでいないのは宝くじが当たって人生一発逆転、海と山に近い別荘で釣り道具の手入れをしたり、広めの庭で家庭菜園を楽しみ、寒い夜は暖炉の傍のロッキングチェアで小説を読み耽る人を描いたものである。古本屋で探して見よう。


ちょと気になって

2016-11-28 13:46:17 | 日記

今朝書いたブログがちょっと気になって普段やることの無い読み返しをした。案の上誤字が目立った。鶴龍ではなく鶴竜で名前を間違って申し訳ない。芸娘は完全に思い違いで芸妓か芸子とすべきだった。毎回ブログは15分くらいで一気に書き綴り読み返さない。「字」という残る、人の目に触れるものを随分粗末に扱っており反省しきりである。

ついでにニュースを読んでいると、相変わらず国会では???という議論がなされている。一度ブログに書いたことがあると思うが、「対案の無い反対は無責任である」「我々は反対のための反対ではなく提案型の野党だ」とかの一見筋が通っているかのような主張である。若い頃は私もそう思っていた。しかし、反対には「貴提案には反対である。現行のままで良い」という、現行のままという提案が含まれている。それを鬼の首でも取ったかのように我が提案に対して対案が無いと吹聴するのは如何なものか。勿論具体的提案で議論を戦わせるのは高度ではあるが、それ以外は戦いにならないというのは間違いである。このことは反対意見を述べる場合「現行のままで良い」という意見添えなければならない。今後憲法改正(訂)議論が沸騰するだろうが。

学生時分に本当に仲の良かった男が居たが、学生らしい頭だけの議論を良く交わした。殆どが私の負けである。「反論ができないならそれは俺の考えを認めたことになる」とショッチュウやり込められた。感情的に納得出来なくとも反論は出来ないのだ。この男は学生時分に司法試験に合格したが、今思うと何のことは無い。裁判で陳述書に反論できなければ認めたことになるという常套句である。この例と現行のままで良いという意味を含んだ「反対」の境界を上手く説明することは中々難しい。


大相撲

2016-11-28 09:46:24 | 日記

鶴龍が優勝して終わった。地味な横綱であるが本当に強かった。体つきを見ていると鋼のような日馬富士、相手に力が伝わり難そうな柔軟で変幻自在、その癖イザと言うときは全身が筋肉化して瞬発力を発揮する白鵬、彼らに比べると特徴が無さそうに見えるが鶴龍は体全体がゴムまりのような筋肉でおおわれており一切の贅肉が無い。こうして見ると全員がモンゴル出身。幕内の星取り表を見ると、如何にモンゴル出身者が多いことか。ええ、この力士もと思うのは外見が似ているだけでなく流暢に日本語を喋り、相撲の伝統を重んじる姿勢がありありと伝わってくるからであろう。17,8で言葉も風習も分からず、何より食文化の違う日本にやって来て立派なものである。彼らの苦労は容易に想像できる。今は色んな国籍の力士が居るが残念ながらモンゴル人以外は体格は良いが劣化が早かった。これは選挙戦後半のクリントン氏の顔の皺が増えたような気がしたことと似たような感覚で医学的見地に基づいているのではないが。金髪のサッカー選手が決して外人に見えないのに何故金髪?と訝ってはいけない。広いグランドで顔の判別はつかないからせめて遠くから活躍が見えるようにとのマークである。小学校の団体競技でせめて派手な靴下を履かせて我が子の存在を確認したい親の考えと似ている。

一時期相撲はあまりに地味で、何で同じ所作で仕切りを繰り返すのか、勝っても負けても態度で表さないのは何故か、勝利者インタビューで通り一遍の受け答えをするのは何故、何故綺麗な嫁さんを貰うのか、おっとこれは横道、など興味を失った時期がある。しかし、良く考えて見るとサラリーマン時代は大相撲ダイジェストで次から次へと繰り返される勝負だけを見ていたせいもある。生中継は夕方だけであり普通の勤め人は見る事ができない。これが若者離れの理由の一つであり、ヒマな年寄りが見るモノとなったのではないか。夜のゴールデンタイムに生中継するともうちょっとファン層は広がる。同じ所作の繰り返しとかハプニングに欠けると言われるかも知れない。しかし、良く見ると仕切り中の睨みあいでどちらが早くめを逸らすかとか、力士の癖(ルーチーン)を見つけ出すのも結構面白い。何よりもあんなに近い距離の仕切りから巨漢力士が全力で頭をぶつけあいよくケガをしないものだとか結構激しいスポーツである。仕切りの背景の客席に眼を凝らすのも面白い。ああまた関西の有名な俳優が砂被りで見ている、丁稚の格好じゃないな、とか、引退したNHKの中継アナが何時も良い席で見ているなあ本当に好きなんだとか、わざわざ着物姿で見に来るのは芸娘さんいにしては歳が行っている、どっかの若女将がお茶のコマーシャルに出た帰りかなとか、想像するのも楽しい。何より観客の行儀の良さではぴか一だろう。力士にも俺は丸い土俵より四角の方が力が出るから不公平だと言うものは居ない。同じ条件で戦うことに意味がある。アスリートファーストを金科玉条に押しいだいてあそこの会場が良いとか悪いとか言うのは、しかもアマチュアの世界で、ちょっと変。

中継アナですらヒソヒソ声になるゴルフは選手の集中力が切れるから?見世物としてのプロなら拍手喝采、弩号の中でも集中できてるのでは。力士は鈍感?そんな事は無い。日頃の訓練である。プロフェッショナルスポーツでも様々であるが、水戸黄門のような定型で進行するスポーツの面白さはやはり忙しいサラリーマンには馴染まないのかも知れない。きっと皆さん歳が行くと安心感から観るようになると思う。外人枠とか決して定めることの無いように、眩いばかりの金髪の大銀杏が死ぬまでに観れたらいいのに。


釣り場の親子

2016-11-27 10:09:41 | 日記

先日晴れた暖かい日に釣りに出掛けた。何時もの河口に二人連れの先客が居る。見ると岸の石垣の間でハゼを釣っている(地元では穴釣りと呼んでいる)。こちらは投げ釣りなので傍に行って「ここで沖に投げて良いですか」と聞くと「勿論ですよ」と明るい返事が返ってくる。置き竿をして暫く彼らの釣りを見ていると大型のハゼを次々と釣り上げる。「上手ですねえ」と声を掛けると見ますかと言うのでクーラーBOXを見せて貰う。裕に20㎝を超える大型のハゼ(この河口は大型ハゼで知る人ぞ知る)が30尾近く泳いでいる。ハゼの修正も良く知っており針にハリスを自分で結んでいる。「器用なもんですね」と言うと「いやもう48になって見え難くなっているんですよ」と。通りが掛る地元の釣り人が彼に次々と声を掛ける。地元の言葉でしかも年寄りが多くこちらには殆ど分からない。それでも彼は丁寧に敬語を使いながら答える。それでも話しぶりから季節と場所を変えながら相当色んな釣りをやっている人のようで物凄く釣りに詳しい。「地元ですか」と聞くと「いや少し離れているんだけど、今日は高校2年の息子を連れてきました」と言う。兄弟のような親子である。息子は180㎝を超える大柄で肩幅もガッシリしている。小さな竿でモクモクと釣っている。父親の方も色は浅黒く、真一文字の口元と気の強そうなアゴ、ハッキリした眼鼻立ちは如何にも正義感に溢れた、それでも若い頃はやんちゃだったろうなと思わせる顔立ちである。「お父さん、釣り上手だねえ」と息子に声を掛けると、すかさず父親の方が「いや半分くらいは息子が釣ったんですよ」とフォローする。息子は「そんなには釣っていないんですけど」と恥ずかしそうに竿先を眺めたまま答える。暫く横目で見ていると時々短い会話を交わしている。彼らが先に帰る時、父親は「お先に失礼します」と挨拶し、釣り道具を一杯抱えた息子が続き、私の方をちらっと見ながら「頑張って下さい」と声を掛けてきた。彼らが去った後には勿論ゴミ一つ落ちていなかった。

二人の後姿を見送りながら、きっとあの父親は高校時分は相当やんちゃで先生や親や周りの人に相当迷惑を掛けたであろう。高校を出てから建設関係の仕事に就いたからあんなに浅黒い顔なんだろう。しかし、社会人になってからは人が変わったように真面目に働き、周りからも信頼され、きっと近所の年寄りにも好かれているに違いない。息子の方も遊びたい盛りに親父に連れられて地味なハゼ釣りに素直にやってきていることから、厳しいが頼りになる父親を尊敬しているの違いない。父親の方も時分が周りに迷惑を掛けて来たようなことは息子にはやらせてはいかんという責任感があるのだろう。優秀な大学の学生がとんでもない事件を起こすこの頃、親子のピークは息子が入学した時だったのだろう。どちらが見習うべき親子か、長く続く幸せか、それは偏差値で手に入れる事ができないものなのだと勝手に想像してしまう。残念ながらこの事に気づくのは大概不幸になってからである。おっと竿先が動く。暴れまくる魚を何とか釣り上げたら44㎝のフッコ(すずきの子ども)である。私の小さな幸福と満足感が一瞬だが過ぎってくれた。