太陽光発電シニア

太陽光発電一筋、40年をはるかに過ぎたが何時までも興味のつきない厄介なものに関わってしまった。

もうこんな季節かと

2022-09-30 07:22:11 | 日記
 毎年この時期になると正月のおせち料理の予約販売の宣伝が新聞に載る。カラー一面広告だから掲載料は全国紙で5000万円くらいだろうか。それでも元は取れるのである。京都の老舗割烹監修とか由緒も正しい。三段重も細かく部屋分れしてそれぞれの具材はどれも手が込んで美味しそうである。この広告を見ながら白飯一杯は食べられそうだ。
 さて広告が例年のことならブログも例年通りとなるが、海老は相変わらず半身を乗り出しこのままでは重は重ねられない。殆どの小部屋からも各具材ははみ出している。これを誇大広告と言わず何と言う、と毎年ブログに書いているが今年も同じである。
 価格も結構高いように思われるがもし素人が同じものを作ると材料、手間賃でもっと高くなるだろうから仕方がないところだろうか。しかし、そもそも素人はこれと同じものを作ろうと思わない。食費制限に引っ掛かってしまう。
 昔会社で創立記念で毎年何がしかのイベントがあった。中でも従業員サービスで旅行が実施された時期があった。東京観光や京都観光、その前は香港とかへの旅行もあった。何十人単位ではない。当時でも社員は数千人居た。それが移動するのだからさながら民族大移動である。東京では歌舞伎鑑賞、京都では一流割烹での懐石料理のコースを堪能した。地方に工場も多くその人達にとっては夢のような旅行だったと思う。こちらは東京や京都は頻繁に仕事で訪れる所であり多少心も捻くれる時期だった。懐石料理は大広間の両端に背広姿の社員が並びさながらその筋の会合のようであった。個別の膳に仲居さんが小鉢の料理を次々運んで来る。これは何処そこで採れたタイをどうこう調理してとか野菜は京野菜をこのように味付けしてとか説明が加わる。肉料理があったら育てるところからの説明は大変だったろうがそれは無かった。それにしても一品の鉢が小さくあっという間に平らげてしまう。小鳥の雛に餌を与えているようである。早く食べすぎて直ぐ空になる。各自に合わせてもっと早く次をと思っていたら隣に座っていた元調理人の社員が、この道何十年とか言うのはおかしいですよ。これを覚えるのに何十年もかかりますかねえ、私なら3日で覚えますよと言う。社長が社員の為と思い実施したイベントも捻くれ者には有難さが通じない。料亭が悪い訳でも調理人の腕が悪い訳でもない。偏にこちらの身も心も貧しかったせいである。今ならゆったりと懐石を楽しむことができるだろうがその機会がない。心は多少豊かになったが身は相変わらず貧しい。

センセイと呼ばれるほどの

2022-09-29 07:49:55 | 日記
 「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という川柳がある。大阪府議会が府職員に対して府議を先生と呼ばないよう求める文書を提出したとある。議会に提出するようなものかと思うがこのあたりはやはりセンセイと呼ばざるを得ない。先生という呼称に違和感を持つ人は多いだろう。以前東京までの電車の一時間、向かいに座っている中年のオバサンの会話がやたら煩くて嫌でも耳に入る。声に引きずられ会話仲間に入っているようで貴重な時間一睡もできなかった。
 二人は同僚の小学校の先生のようである。会話の内容は春の人事異動で誰それが今度ドコソコノ校長になったとか教頭になったから始まり、誰彼が何処そこに赴任となったかその理由まで滔々と噂する。二人が先生と言う職業に大変プライドを持っていることは理解できたが芸能人のゴシップ話のようである。気になったのは全ての先輩後輩同僚を「××センセイ」と呼んでいることである。本人らにとってセンセイと呼んでおけば職位に関係なく便利な呼称かも知れないが周りで聞いていると違和感がある。つい思い出したのが冒頭の川柳である。「先生」は対個人で使う場合は仕方ないが組織としてそういう呼称で呼び合うのは如何かと。
 先生は春の人事異動では新聞1面を使って名前が載る。何のためにとブログに書いたことがあるが、きっと餞別が欲しいのだろうと思っていた。しかし電車の二人の会話からこの紙面が貴重な情報源であることが分かった。ゴシップネタでもあったのだ。
 先生と呼びたくなる人は長い人生だが一人しか出会っていない。それも付き合いが長すぎて途中から先生と呼ぶのは恥ずかしくて未だに「さん」である。自身にも経験はある。現役の頃各種団体、地方自治体から呼ばれて講演をする機会が度々あった。そういう時はスタッフから先生と呼ばれることもあった。いえそんな大そうな者ではありません、一介のサラリーマンですと言うのも嫌味に聞こえるので甘んじて受けていたが実に居心地の悪い瞬間であった。便利なようで時によっては相手の気分を害したり心地よくされたり先生の使い分けは難しい。一つだけ言えるのは何の先生にもなっていない人、特に同僚を呼ぶのには相応しくない。

追悼の辞

2022-09-28 07:57:04 | 日記
 最近割と身近に居たカリスマ経営者が亡くなった。永く社長を務め、創業者でもある。葬儀委員長でもある現職の社長の弔辞があまりに形式的な内容で会社に大貢献した人に対して冷たい、心が籠っていないと一般社員やOBの声が上がった。社長候補と言われながら長く冷や飯を食わされた遺恨でもあるのかと勘繰られた。一方創業の時からひたすら故人に仕えてきて社長の後継者となった人が友人代表として弔辞を述べた。田舎から出てきた人で大した学歴もなく創業当時からひたすら創業者に仕えてきた史上最高の丁稚、イエスマンに徹した人である。友人代表と言うより丁稚代表と言った方が相応しい。しかし弔辞の役としてはそうも行かない。この弔辞が一般社員からすこぶる評判が良かった。私事、裏話も含めて故人に対する愛情と信頼に溢れていた。しかし冷静に考えてみると代表する立場によって弔辞の内容が異なるのは当然でどちか良し悪しを論ずるものではない。今の社長が私事を交えて弔辞を述べたら友人代表が困る。また丁稚で苦楽を共にしたが今は現役を退いている人が会社や経営のことばかり喋ったら現役の人にとっては迷惑である。弔辞に耳を傾けるとき、この人は何を、誰を代表して弔辞を述べているのか理解しなければならない。国葬のこと言っているのではない。つい身近な想像をしてみただけである。
 昨日は安倍元総理の国葬があった。TV中継は観なかったが岸田総理と菅前総理(官房長官時代の方が印象は強いが)の弔辞についてネットで騒がれていた。新聞に両者の追悼の辞全文が掲載されていたので読んでみた。岸田さんは現職総理であり葬儀委員長という立場もあ、官僚が推敲を重ねたであろう無難なものだった。菅さんは友人代表ということを意識してか多分自ら書かれたのであろう思い出話が多かった。両者の弔辞を比べてどちらがどうこうというネット庶民がいるとはちょっと情けない。代表する立場で述べるもので内容など比較できない筈だ。どちらもそれなりに良かったのではと思うが。一周忌とかやるのだろうか。その前に法整備か。誰が音頭をとって?

ニュースの距離感

2022-09-27 07:51:07 | 日記
 今日は安倍さんの国葬の日である。休日ではないからちょっと仕事の手を休めて黙とうを捧げようなどという人も居るかも知れない。国葬に限らず東京のニュースは地方ではどのように受け止められているのだろうか。国葬賛否は国論を二分とか言った場合例えば沖縄の離島で住民に国葬をどう思いますかと聞いても二分だろうか。新橋駅前でサラリーマン100人に聞いたら近い数字かも知れない。国論とか世論と言う場合、全国無作為抽出のアンケートに依っているとは限らない。多分TVのコメンテータあるいは討論会出席者の意見に影響を受けて感覚的に使っている場合もあるだろう。しかしこの種メンバー選定は賛否両論に配慮して決められるのだろうから番組上のバランスでもある。安易に国論とか世論と言って欲しくない。国民に寄り添うとか言う場合も同じでどの範囲を意識しているのか。
 独自の公(私)式だが関心度と言うのは発信源から距離の二乗に反比例して薄らいで行く。距離補正が必要なのである。NHKの普及が標準語を全国に広めたという説がある。インターネットの普及が同じように情報も関心度も全国均質化に寄与しているか。否定はしない。しかし津々浦々同じように常時ネットを覗いているか。あり得ない。新橋はよく利用した駅だが最初の頃は人手の多さに驚いた。毎日がお祭りのようである。よくまあこんなに多くの人が「物も作らず暮らしていけるものだ」「異種サービス業同士が食い合って成り立っているのか」などと空想したものだ。魚が隣の八百屋で買うようなものである。そんな東京と稲を育てたり魚を獲って暮らす人達と同じ感覚である筈がない。
 因みに我が家は東京駅から快速で約1時間である。新幹線なら静岡あたりまで行ける。東京に関する関心が静岡と同じとは思えない。実距離とともに公共交通機関による所要時間も補正因子に加える必要がある。以前大阪に住んでいたが東京と言えば別の国くらいの感じがしていた。親近感の反意語で「距離感」を挙げる人も居るが東京から離れるに従って無関心度は増す。くどいようだが国論や世論は距離感の補正項も加えて論じるべきである。新橋駅前のサラリーマンが国民を代表している訳ではない。品川の通勤風景を当たり前と思ってはならない。新宿駅南口は全国の駅の典型ではない。我々は何かに騙されながら常識とやらを醸成していることを忘れてはならない。普通にサラリーマンをリタイアし、普通にリタイア後の悲哀を味わい、普通に初老を迎えていると思っているが実は特異例かも知れない、と言いつつ心は東京の気分である。標準的と確信を持って言えるのは体型ぐらいか。既製服のMサイズは何でもよく似合う。試着はほとんど必要としない。経済的な体型である。
 

もっと人気が出ても良いはず

2022-09-26 07:56:24 | 日記
 大相撲は玉鷲が優勝した。 37歳10カ月、2度目の賜杯である。歴代3位となる初土俵以来連続1463回出場記記録も更新中。趣味は洋菓子作り、手芸、プラモデルなどとある。古くから名前を知っているので新鮮味はないがインタビューなどに答えているのを見ると意外に少年っぽい。何年か前から何と素直で明るい力士だなあと思っていた。相撲界では若くして相撲道とか言って修験僧のような厳しさを見せたり、昇進の口上で普段使わない四文字熟語を無理して使ったりどこか背伸びしている力士も多かったように思う。体が大きいからとかその世界で頂点を極めたからと言って成熟した社会人と思うのはこちらの勘違いだろう。玉鷲は少年っぽさを残した好青年という感じだ。これが世間の普通かも知れない。人の良さはインタビューでの屈託のない笑顔に出ている。訳知り顔で物を言う元力士の解説者はもっと玉鷲を褒めても良いのではないだろうか。青汁を飲んでいる場合ではないだろう。
 小さい頃の娯楽と言えば栃若時代の相撲、力道山のプロレスくらいしか無かった。ただ本当の相撲の面白さが分かってきたのは相当年が行ってからのことである。今では何十回と対戦している取り組みですら毎回新鮮な気持ちで見ていられる。ただ白鵬以降全国区でこれといった人気力士が出ていないので相撲人気に翳りが見られる。白鵬の晩年をボロクソに言っていた(横審ではないよ)元力士解説者、今の相撲人気をどう思う。CMのせいでビールの飲みすぎて膝が痛い?コンドロイチンを飲まんかい!照ノ富士に贈ってしまった?などと嫌味をいうつもりはない。今は端境期でもう少し待たねば若い人気力士は出てこないだろう。何で繋ぐか?玉鷲にスポットを当てると言う手もある。趣味に励む玉鷲関をドキュメンタリーで追いかけてもきっと番組になる。相撲界の隠れた側面をみるのも人気を支える一因になるだろう。協会も人気回復のための企画力が求められる。邪道?相撲道を心配しているのである。
 少年時代なら王長嶋のプロ野球だが巨人の人気も当時と比べれば相当落ちてきている。はっきり言って後進が育っていない。金に飽かせてピークを過ぎた選手を獲ったり、某新聞が些細なプレーを大仰に褒めちぎって取り上げる。これは選手を勇気づけるというより甘やかしに繋がる。何よりもOBの元投手解説者で上から目線の人が多過ぎて現役もやり難いだろうが。残された手は残預金全て叩いて大谷選手を獲るくらいしか思い付かない。相撲も野球も長く楽しませてくれた。モンゴル相撲は現地で何度か観たことがある。動きが激しく荒っぽい。動のモンゴルと静の日本かも知れない。白鵬は日本式で馴染もうとした形跡がある(晩年はモンゴル式だったが)。玉鷲はモンゴルの伝統を受け継いでいるように感じる。動ける間は40を超えても頑張って欲しい。負けが込んできても性格が人気を支えると思う。