毎年この時期になると正月のおせち料理の予約販売の宣伝が新聞に載る。カラー一面広告だから掲載料は全国紙で5000万円くらいだろうか。それでも元は取れるのである。京都の老舗割烹監修とか由緒も正しい。三段重も細かく部屋分れしてそれぞれの具材はどれも手が込んで美味しそうである。この広告を見ながら白飯一杯は食べられそうだ。
さて広告が例年のことならブログも例年通りとなるが、海老は相変わらず半身を乗り出しこのままでは重は重ねられない。殆どの小部屋からも各具材ははみ出している。これを誇大広告と言わず何と言う、と毎年ブログに書いているが今年も同じである。
価格も結構高いように思われるがもし素人が同じものを作ると材料、手間賃でもっと高くなるだろうから仕方がないところだろうか。しかし、そもそも素人はこれと同じものを作ろうと思わない。食費制限に引っ掛かってしまう。
昔会社で創立記念で毎年何がしかのイベントがあった。中でも従業員サービスで旅行が実施された時期があった。東京観光や京都観光、その前は香港とかへの旅行もあった。何十人単位ではない。当時でも社員は数千人居た。それが移動するのだからさながら民族大移動である。東京では歌舞伎鑑賞、京都では一流割烹での懐石料理のコースを堪能した。地方に工場も多くその人達にとっては夢のような旅行だったと思う。こちらは東京や京都は頻繁に仕事で訪れる所であり多少心も捻くれる時期だった。懐石料理は大広間の両端に背広姿の社員が並びさながらその筋の会合のようであった。個別の膳に仲居さんが小鉢の料理を次々運んで来る。これは何処そこで採れたタイをどうこう調理してとか野菜は京野菜をこのように味付けしてとか説明が加わる。肉料理があったら育てるところからの説明は大変だったろうがそれは無かった。それにしても一品の鉢が小さくあっという間に平らげてしまう。小鳥の雛に餌を与えているようである。早く食べすぎて直ぐ空になる。各自に合わせてもっと早く次をと思っていたら隣に座っていた元調理人の社員が、この道何十年とか言うのはおかしいですよ。これを覚えるのに何十年もかかりますかねえ、私なら3日で覚えますよと言う。社長が社員の為と思い実施したイベントも捻くれ者には有難さが通じない。料亭が悪い訳でも調理人の腕が悪い訳でもない。偏にこちらの身も心も貧しかったせいである。今ならゆったりと懐石を楽しむことができるだろうがその機会がない。心は多少豊かになったが身は相変わらず貧しい。
さて広告が例年のことならブログも例年通りとなるが、海老は相変わらず半身を乗り出しこのままでは重は重ねられない。殆どの小部屋からも各具材ははみ出している。これを誇大広告と言わず何と言う、と毎年ブログに書いているが今年も同じである。
価格も結構高いように思われるがもし素人が同じものを作ると材料、手間賃でもっと高くなるだろうから仕方がないところだろうか。しかし、そもそも素人はこれと同じものを作ろうと思わない。食費制限に引っ掛かってしまう。
昔会社で創立記念で毎年何がしかのイベントがあった。中でも従業員サービスで旅行が実施された時期があった。東京観光や京都観光、その前は香港とかへの旅行もあった。何十人単位ではない。当時でも社員は数千人居た。それが移動するのだからさながら民族大移動である。東京では歌舞伎鑑賞、京都では一流割烹での懐石料理のコースを堪能した。地方に工場も多くその人達にとっては夢のような旅行だったと思う。こちらは東京や京都は頻繁に仕事で訪れる所であり多少心も捻くれる時期だった。懐石料理は大広間の両端に背広姿の社員が並びさながらその筋の会合のようであった。個別の膳に仲居さんが小鉢の料理を次々運んで来る。これは何処そこで採れたタイをどうこう調理してとか野菜は京野菜をこのように味付けしてとか説明が加わる。肉料理があったら育てるところからの説明は大変だったろうがそれは無かった。それにしても一品の鉢が小さくあっという間に平らげてしまう。小鳥の雛に餌を与えているようである。早く食べすぎて直ぐ空になる。各自に合わせてもっと早く次をと思っていたら隣に座っていた元調理人の社員が、この道何十年とか言うのはおかしいですよ。これを覚えるのに何十年もかかりますかねえ、私なら3日で覚えますよと言う。社長が社員の為と思い実施したイベントも捻くれ者には有難さが通じない。料亭が悪い訳でも調理人の腕が悪い訳でもない。偏にこちらの身も心も貧しかったせいである。今ならゆったりと懐石を楽しむことができるだろうがその機会がない。心は多少豊かになったが身は相変わらず貧しい。