南アルプスに連なる標高 1100mの頂で、1300年の大杉に囲まれ山霧深い霊山は、また霊験あらたかな山岳信仰の山住山、山住(やまずみ)神社を参拝して来ました。
伝えられる ところによると、山住神社は和銅 2年 愛媛県伊予郡大三島の日本総鎮守「大山祇(おおやまずみ)神社」より遷祭(せんさい=移して祭る)し、お祀りしたと云われ、この時代は芽原河内(はぎわらこうち)神社と呼ばれたようです。
山住神社の社家山住家は、初代神官「守屋左京亮藤原茂家」から現当主まで36代の歴史を誇る名家であります。
また、山住神社は百戦錬磨、天下人となった戦国武将「徳川 家康」公との関連もあります。 元亀 3年(1572)三方ヶ原に於いて、血気盛んな 32歳の若き城主であった家康公は、軍勢 8千を率いて、軍勢 3万の武田軍と戦火を交え、52歳の知略・戦略に長けた武田 信玄勢の攻勢に家康公は防戦一方で、❝三方ヶ原の戦❞は家康公にとって、数少ない敗戦(まけいくさ)であった。
古老の語るところによると「戦に敗れた家康公は山住神社に難を逃れ、敵は家康公を追って神社に迫った。ところが俄かに空は曇り辺りは薄暗く日暮れの様になり、風暖かく霊山全域にウォ~ ウォ~と地響きのする山犬の吠える声が沸き上がり、敵はこの声に驚き 肝を潰し我先にと退散し、家康公は敵から難を逃れた。」と言う。
その翌年、天正元年正月 17日 家康公は御参拝をされ、また天正 4年に宝剣二振、慶長 19年にも宝剣一振を奉献された。 宝剣の一振は名刀『伯耆安綱』(ほうきやすつな)であったとのことです。
土地の名家である片桐家の文書には「遠江国(とおとうみのくに)、丑寅ノ鎮守二御座候」つまり浜松城の北東の守り神であり、浜松城の鬼門の守り神として家康公は三方ヶ原の戦の後ちに篤く信仰されたと伝えられています。