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素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🐾 旧東海道:小田原宿 1 🐾

2025年04月19日 | 日本の歴史

小田原宿は東海道に宿駅伝馬制度が制定されると、江戸から数えて9番目の宿場に指定されました。                                                                                                                  日本橋からは約 20里(約 80Km)余り、江戸からの旅人が最初に通る城下町です。

宿場は東西約 2.2Km、東海道に面した通りで、その規模は江戸後期で人口 5,404人、家数1,542軒、本陣4軒、脇本陣4軒、旅籠数 95軒、問屋場2軒であったそうです。

当時の健康な成人では、1日当たり約 10里(約 40Km)ほど歩く人が多く、天下の険の箱根を控えた小田原宿は江戸から来た旅人が2泊目の宿として利用する人が多く、旅籠数は品川宿よりも多くなっています。

そんなことで、城下町であり、宿場町として賑わった『小田原宿』は2回に亘って御案内致します。

                                                                        酒匂川の東岸には、かつて中世東海道に沿って旧酒匂宿があったようです。           旧酒匂宿は東海道の足柄道と箱根道の分岐点に位置し、いにしえより多くの人や物が行き交う重要な場所でした。

                                                    酒匂の名は『吾妻鏡』に登場し、源 義経が平 宗盛父子を護送した文治元年(1185)の記述によれば、「今夜、酒匂駅に着く」と記されているそうです。                            平安時代末には東海道の宿場として成立していたようです。

今回の「小田原宿Ⅰ」は旧酒匂宿から北条氏ゆかりの地「城下町 小田原」へと向かいます。

 

JR東海道線の鴨宮駅は東海道新幹線の発祥の地であり、そのモニュメント下を9時出発。

まずは南の国道1号線に向かって進み 酒匂神社へ。9:28                            もとは駒形社といい、酒匂村の鎮守です。

久安5年(1149)富士上人参朝が箱根権現を勧請し、駒形社を祀ったのが始まりです。     明治初年に始まる神仏分離令により、近くにあった八幡社を明治 10年(1877)4月駒形社の場所を移して酒匂神社としたとのことです。

 祭神は、八幡社の祭神の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)と、駒形社の祭神の鸕鶿茅葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)とのことです。

 

済度山法船寺 9:42                                            境内には「お手引き地蔵」を祀る地蔵堂があります。 

この地には以前より堂宇があり、文永 11年(1274)鎌倉から身延山に向かう日蓮上人が、酒匂川の増水で足止めされた時に境内の松に龍燈が灯り、地蔵の化身である翁が現われ堂に泊まるようにお手引きをしました。                                       見出し写真の像が日蓮上人であります。                                              その時の堂守であった飯山入道は、翌日 船を出して日蓮上人をお送りしました。             これに感謝した日蓮上人から済度法船の法名を与えられ、その時から日蓮宗に改宗したそうです。

 

酒匂川の渡しの石碑 10:08                                           歌川広重は、この光景を小田原の最も象徴的な景観として「東海道五十三次 小田原」に描いています。                                                    酒匂川の渡しは、東海道五十三次道中の難所の一つで、古くは船渡しが行われていましたが、延宝2年(1669)船渡しが禁止されて徒渉(かちわたり)制が施行され、冬の時期を冬川と言い仮橋を架けて往来したが、夏の時期は夏川と称し橋を架けないので必ず手引・肩車・輦台(れんだい)など有料で川越人足の力を借りて渡らなければならなかった。

当時の河川敷幅は5町 20間(約 580m)あり、この辺りの村(酒匂村、網一色村、山王原村)の15歳から60歳までの屈強な男子が毎日交代で人足を務めていたということです。

 

二宮金次郎表彰の地                                           小田原藩主 大久保忠真(ただざね)は、文政元年(1818)11月、京都所司代から老中に昇進して江戸に向かう途中、酒匂川の河原で領内の奇特人・孝行人に対して表彰を行ったそうです。    二宮金治郎(金次郎、尊徳)もその時に表彰された一人でした。

金治郎は、天明7年(1787)に小田原藩領の栢山(かやま)村に生まれました。         酒匂川の氾濫で田畑すべてを流され、14歳で父を、16歳で母を亡くし、金治郎は伯父に引き取られ、弟たちは母の実家に預けられて一家は離散しましたが、伯父のもとで学業に励み努力と工夫を重ねて24歳までに生家の復興を成し遂げました。 

やがて金治郎は小田原藩との関わりを深め、大久保家の分家の知行地桜町領(栃木県真岡市)の復興事業を成功させ、更には村の荒廃や財政難に悩む領主などの依頼に応えて成果を出しました。                          金治郎は、安政3年(1856)10月、日光神領の復興にあたっている最中に、今市報徳役所で 70歳の生涯を閉じました。

 

山王神社(山王曲輪) 11:10                                            祭神は、大山祇命(おおやまつみのみこと)他2柱です。                                 創建は不明ですが永禄元年(1558)頃には海岸の松林の中にあって、天正 18年(1590)豊臣秀吉による小田原攻めで布陣した徳川家康が毎日参詣していたといわれています。                   大波で崩壊したため、慶長18年(1613)に現在地に移されました。

境内には昼間でも井戸底の水面に星が映ることで有名だった 「星月夜の井戸」 があり、寛永元年(1624)朱子学者 林羅山が訪れ星月夜の詩を詠んでいます。

 

 

江戸口見附跡並びに山王一里塚                                          見附とは、城の枡形門に設けられた見張番所であって、武器を用意し昼夜番士が詰めて警戒にあたる場所であるが、本城より外濠城門を示す場合が多い。                                小田原城から江戸に向かう出口であったため、江戸口見附と名付けられた。                 また、ここは江戸から20番目の一里塚があった場所でもあります。

慶長9年(1604)江戸幕府の将軍 徳川家康は、息子 秀忠に命じて、東海道、東山道、北陸道に、江戸日本橋を起点として一里(36町・約4Km)毎に塚を造らせた。                    塚には榎を植え、旅人の1里ごとの目印とすると共に、夏季における木陰の休憩場所とした。

 

北条稲荷 11:25                                             北条三代氏康は、上杉氏を破り関東を把握する一方、領国の経営でも検地や伝馬制度など優れた政策を実施し北条氏の全盛期を築きました。                                   氏康は元亀2年(1571)に死去しましたが、氏康の子 四代氏政は、氏康の死を古狐の祟りと考え、城内に祠を建てて守護神として崇めたのが、この神社の始まりと伝わります。       天正8年(1580)頃、当地に移されました。

社殿は昭和 26年(1951)の一帯の火事で焼失し、昭和 30年(1955)に再建されました。    この稲荷様の前を通る道が古東海道とのことです。

境内には、蛙に似た自然石(蛙石(かわずいし))があります。                             小田原に異変がある時には、必ず鳴き声を発し、小田原城落城の際は夜な夜な盛んに鳴いたと、また雨も降らないのに石が濡れていたといわれています。

 

 

 

 

清水金左衛門本陣跡(明治天皇宮ノ前行在所)11:55                          清水金左衛門本陣は小田原宿に4軒【清水金左衛門本陣、片岡永左衛門本陣、久保田甚四郎本陣、清水彦十郎本陣】あった本陣のうちの筆頭で、江戸時代に町年寄も務め、宿場全体を掌握していました。                                                  本陣の敷地面積は約 240坪(792㎡)で大名や宮家の宿泊に充てられていました。

この明治天皇行在所跡は、明治天皇が宿泊した清水金左衛門本陣のあった場所とのことです。  明治天皇が ここに宿泊したのは、明治元年(1868)10月8日の御東行の際をはじめとして5回を数えたそうです。

 

松原神社 12:00                                             祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと)であります。                               松原神社は小田原の総鎮守ですが、もとは『鶴の森明神』と称し漁師の氏神様でした。     北条二代 氏綱の頃、山王村松原付近の海中から出現した十一面観音像を祀ったことから『松原大明神』と改め、現在地に移されました。

 

以来歴代藩主から小田原宿の総鎮守として庇護を受け、貞享3年(1686)大久保忠朝が藩主になった頃から盛大な祭礼が始められました。                                    現在、祭礼は毎年5月3日に、北条五代祭りにあわせて盛大に行われています。                  明治2年(1869)に松原神社と改称されました。

 

 

            

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🐾 旧東海道:品川宿 🐾

2025年04月06日 | 日本の歴史

『東海道五十三次』と云われる江戸から京都三条大橋を結ぶ五十三の宿の中で、品川宿は諸街道の最初の宿場町であります。

慶長6年(1601)に東海道の日本橋を出発して、2里の宿場町として品川宿が置かれ、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と共に江戸四宿と称されていました。

品川宿は当初、目黒川を挟んで北品川宿南品川宿から成っていましたが、享保7年(1722)に歩行(かち)新宿を加え、北品川宿に本陣が南品川宿と歩行新宿に脇本陣が置かれました。

天保 14年(1843)には宿内総家数 1561軒、人口 6890人、平旅籠 19軒、飯売(めしうり)旅籠 92軒、水茶屋 64軒を数えたそうです。 

                                               東海道は五街道(東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道)の中でも最も往来が盛んな街道であった。

そんな日本橋から一番最初の『品川宿』の面影を探しに歩いて来ました。

京急北品川駅を 10時、出発。

まず八ッ山通りを進みますと、歩道脇には東海道五十三次の宿場名が彫られた石柱が並んでいます。

今日、品川宿を案内して下さる中島さん。                                  開発の進んだ東京では西の御殿山や八ッ山は高層ビルが建ち、東の海は埋め立てられ、当時を偲ぶには歌川広重の絵や古地図を見ながら思いを馳せ、歩きました。

東海道は海沿いの道、品川宿は海辺の町。                                     この品川宿の東海道は江戸開府より四百年来、道幅、道筋が変わることなく今日まで維持されており、歴史遺産として貴重であります。

東海道を中心に路地や横町、寺社が残るこのまちは、古き良き宿場町の雰囲気を今に伝えています。

八ッ山橋を渡り、旧街道へと進みます。                                      旧街道に入って直ぐの辺りが『歩行新宿(かちしんしく)(北品川一丁目)と呼ばれていた所だそうです。

北品川駅の左手の路地角に「問答河岸」跡の石碑が立っています。

東海寺の開山 沢庵和尚が三代将軍 徳川家光を案内した際に、家光は「海近くして東(遠)海寺とはこれいかに」と問い、沢庵がすかさず「大軍を率いても将(小)軍というがごとし」と答えたといわれています。

 

問答河岸の直ぐ近くに土蔵相模があり、この一帯を歩行(かち)新宿と呼んでいたようです。              土蔵相模は飯売(めしうり)旅籠屋「相模屋」 の俗称で、奥座敷が土蔵造りになっていたことから付けられた名称とのことです。

万延元年(1860)大老:井伊直弼を襲撃した桜田門外の変の水戸浪士たちや、文久2年(1862)英国公使を焼打ちした高杉晋作・伊藤俊輔(博文)ら長州藩士の集合場所になるなど、幕末の歴史の舞台となった場所だそうです。                                       その後は「さがみホテル」となり、現在では近代的なビルが建ち、柵に囲われた中に説明板のみがあり当時の面影はありません。

 

品川浦と船だまりに到着。 10:30                                        品川は江戸内湾に面し、室町時代から港として開けた所だったようです。                 江戸時代には大消費地の江戸に近いことから漁業や海苔作りがより盛んになり、将軍家にも献上していました。

また、品川の海は江戸市中から行楽の場でもあり、四季折々に鱚やハゼ釣り、船遊び、潮干狩りの人々で賑わいました。                                          品川沖に浮かぶ白帆の姿をはじめ、潮干狩りや海苔採り風景など品川を描いた名所絵には必ずといっていいほど、海の光景が描かれています。

埋め立てが進んだ現在、海はすっかり遠くなってしまいましたが、かつて海は品川の人々の生活に深く結びついていたとのことです。

 

品川神社 11:25                                               北品川宿の総鎮守である品川神社は歴史が古く、平安時代末期の文治3年(1187)源頼朝が安房国の洲崎(すのさき)明神の天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)をお迎えして海上交通安全と祈願成就を祈られたのが始まりだそうです。

元応元年(1319)には二階堂道蘊(どううん)が「宇賀之売命(うかのめのみこと)」を、更に室町時代中期の文明 10年(1478)太田道灌が「素盞嗚尊(すさのおのみこと)」をそれぞれお祀りしたとのことです。

境内入口の階段前には珍しい「双龍鳥居」があり、更に都内最大といわれる富士塚「品川富士」があります。

こちらの品川神社には慶長5年(1600)徳川家康が関ヶ原の戦いへ出陣の際に参拝し、戦勝を祈願し勝利をおさめ、そのお礼として仮面(天下一嘗(ひとなめ)の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されたとのことです。

また、神社裏の品川区指定史跡である『板垣退助墓』を参拝。

板垣退助は、天保8年(1837)に土佐(高知県)で生まれた。                       幕末に藩主 山内豊信(とよしげ)の側用人となるが、討幕運動や戊辰戦争(1868)に参加して功績をあげた。                                                       明治7年(1874)に愛国公党を結成し、自由民権運動をおこした。明治 14年(1881)には自由党を結成して総裁となり、近代日本の政党の基礎を築いた。                                翌年、岐阜遊説中に刺客に襲われたとき「板垣死すとも自由は死せず」と叫んだ言葉は、当時の若者達を感激させ湧かせた。

 

東海寺 12:10                                                     臨済宗大徳寺派の寺院、山号は「万松山(ばんしょうざん)」                             寛永 15年(1638)に三代将軍 家光が『紫衣事件』で流罪となり、後に赦された沢庵和尚のために創建されたとのことです。

 

沢庵は「たくあん漬け」の考案者としても知られることから、東海寺はたくあん発祥の地といわれています。 

かつては広大な寺域を有し、歴代将軍が鷹狩りの折など頻繁に訪れたといいます。              梵鐘は元禄5年(1692)の鋳造で、五代将軍 徳川綱吉の母、桂昌院が三代 家光の冥福を祈るために寄進したものだそうです。 

 

品川宿本陣跡 12:40                                                本陣とは、武将が戦場にいる時の本拠地のことですが、江戸時代になり寛永 12年(1635)に参勤交代が命じられると、大名が江戸と地元を行き来する際に宿泊する屋敷のことを「本陣」と呼ぶようになりました。

品川宿の本陣は、初め北品川宿と南品川宿に一軒ずつありましたが、南品川宿は早くに無くなり、江戸時代中期には北品川宿のみとなりました。                                 品川三宿(歩行新宿・北品川宿・南品川宿)のほぼ中央に位置し、参勤交代の諸大名や公家・門跡などの宿泊・休憩所となっていました。

 

寄木神社 12:50                                                   創建年代は不明ですが、日本武尊の妃 弟橘媛(おとたちばなひめ)が自ら海に身を沈めて嵐を鎮めた際、船の残骸の木材が流れ着いたのを祀ったのが起源とされています。 

その後、慶長年間(1598~1614)に創建され、猟師町の鎮守となり、荏原神社の末社となりました。                                                          本殿の扉には名工 伊豆町八による漆喰鏝(こて)絵「鏝絵天鈿女命(あめのうずめのみこと)功績図」が描かれています。

作品は、漆喰を鏝で盛り上げて人物などの形に成形し、彩色して仕上げる鏝絵の技法によります。

 

荏原神社 13:05                                                和銅2年(709)奈良丹生(にう)川上神社より龍神、長元2年(1029)に神明宮、宝治元年(1247)に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し「品川の龍神さま」として源氏、上杉、徳川等、多くの武家の信仰を受けたとのことです。

 

目黒川を渡り南品川宿に入ります。                                            当時の品川宿は目黒川を挟んで発展し、街道筋の土留めと目黒川の護岸を兼ねて石垣が組まれていました。

石材は千葉鋸山産の凝灰岩(房州石)であり、幕末から明治時代の加工と考えられているようです。                                                        品川宿の護岸 は、もともと伊豆半島産の安山岩(伊豆石)で構築されていましたが、江戸時代後期に房州石が加わるようになりました。                                        房州石は産地も近く、柔らかく切り出しやすい石質のため、次第に伊豆石に取って代わったようです。

海に接していた品川宿の歴史を伝える貴重な文化財です。

 

 

 

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🐾 旧東海道:大磯宿 🐾

2025年03月13日 | 日本の歴史

大磯宿は、東海道に宿駅伝馬制度が制定された慶長6年(1601)に平塚宿・小田原宿と共に開設された、江戸から8番目の宿場です。

ですが、江戸を発った旅人の多くは保土ヶ谷宿戸塚宿で一泊し、翌日は小田原宿に宿泊する場合が多く、遊行寺や大山・江ノ島詣でなどで栄えた藤沢宿のような観光拠点でもなかったので、あまり繫栄した宿場ではなかったようです。

宿場としてのご案内は少なく、大磯は明治時代に入り、日本最初の 海水浴場 の開設を契機に大磯駅が造られ、保養地・別荘地として発展し、政財界要人の別荘や邸宅が多く建てられ、歴代首相が8人も住んでいました。                            大磯に住んだ歴代首相には、伊藤博文、山県有朋、大隈重信、西園寺公望、寺内正毅、原敬、加藤高明、吉田茂などがいます。

また、島崎藤村など文化人も住んでおり、宿場以外の歴史もご紹介させて頂きます。

                            

江戸時代後期における大磯宿の宿場規模は、人口 3,056人、家数 676軒、本陣 3軒(小嶋・尾上・石井)、旅籠 66軒で、問屋場は北本町と南本町の2ヶ所にありました。         『東海道宿村大概帳より』

                        

地福寺                                                   山号は船着山円如院地福寺と称し、京都の東寺に繋がる真言宗の寺院です。

 

境内の一角には、晩年を大磯で過ごした島崎藤村のお墓があります。

この寺から見える光る海と境内の梅林は藤村が非常に気に入っていた場所で、生前 自らの墓所として希望していたそうです。                                  今では梅の名所として知られ、樹齢 100~200年の古木、約 20本に囲まれて藤村夫妻の墓碑が建てられています。

藤村の遺髪と遺爪(いそう)は故郷の馬籠にある島崎家の菩提寺「永昌寺」に分葬されているそうです。

 

小嶋(おじま)本陣跡                                                   本陣とは、宿場において参勤交代の大名、公家、公用の幕府役人などが休泊する施設で、豪壮な門構えや玄関、書院造りの上段の間などを備えていました。

 

延台寺                                                       山号 教山(ぐうきょうざん)延台寺とと称する日蓮宗の寺院です。                        寺伝によれば、曽我十郎祐成(すけなり)の恋人であった虎御前(虎女)が十郎亡き後、尼となり十郎供養のため高麗山(こまやま)北麓の虎池の傍らに小さな庵「法虎庵」を結んだのが始まりといわれ、永禄年間(1558~1570)に、この地に移されたとされています。

境内にある「虎御石(とらごいし)」は、虎女の父親 山下長者が子宝のお告げとして授かったもので、初めは小さな石でしたが虎女の成長と共に大きくなったと云われています。      後に十郎が工藤祐経の刺客に矢を射掛けられた時、この石の陰に隠れ、矢は石に刺さって難を逃れたと伝わります。

以来この石は「身代わり石」と呼ばれ『東海道名所記』に取り上げられています。

 

松本順謝恩碑                                       明治 18年(1885)軍医総監を退官した松本順は、「国民の健康増進と体力向上」のため照ヶ崎海岸に日本最初とされる海水浴場を開きました。                            海水浴場には西洋の様に病院があるべきとして、海水浴客のために建てられた旅館「祷龍館(とうりゅうかん)」に診療所を併設して自ら診察にあたったと云われています。           建設資金の不足は会員を募集して捻出し、会員には渋沢栄一・安田善次郎・榎本武揚・原善三郎ら東京や横浜の名士が名を連ねていたそうです。                             明治維新以降寂れる一方であった大磯は海水浴場開設によって息を吹き返し、国府津まで鉄道が開通し大磯に駅ができると、保養地として更には別荘地として発展していきました。

 

新島襄終焉の地                                              新島襄は明治 8年(1875)に同志社英学校(後の同志社大学)を設立した教育者であり宗教家です。                                                    大学設立準備のため東奔西走中の明治 22年(1889)11月、心臓病を 悪化させて大磯の百足屋(むかでや)旅館の別館「愛松園」で静養していましたが、翌年1月、46歳11ヵ月の生涯を閉じました。                                            石碑は百足屋旅館の玄関だった場所に建てられています。

 

鴫立庵                                                     鴫立庵は寛文4年(1664)小田原の外郎(ういろう)の子孫であった崇雪が、西行法師の有名な歌『心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫立つ沢の 秋の夕ぐれ』に詠まれている沢らしい面影を残し、しかも景色の優れているこの場所に草庵を結んだのが始まりといわれています。   元禄 8年(1695)俳人 大淀三千風が庵を再興して入庵、鴫立庵一世となり、今日まで続いています。

鴫立庵は京都の落柿舎・滋賀の無名庵と並ぶ日本三大俳諧道場の一つであります。

令和元年(2019)8月より 23世の現庵主に本井 英(もといえい)さんが就かれています。

 

上方見附                                                   大磯宿の上方見附は東小磯村加宿のはずれにあり、現在の「統監道」バス停付近にあった。 そこが宿場の出入口であり、標示の御料傍示杭が立っていた。                  この見附は平和な江戸時代に防御施設としての役目は無くなり、旅人に宿場の出入口を示す役目を果たすようになった。

見附とは本来城下に入る見張りの門のことでありますが、江戸時代の宿場の出入口にも見附を置き宿場を守る防御施設として造られた。                                    街道を挟んで両側に台形状に石垣をもって造られ 、高さは約 1.6mで、その上に竹矢来が組まれていました。                                               宿場の京都側にあるものを「上方見附」、江戸側にあるものを「江戸見附」と呼んでいました。

 

 

旧島崎藤村邸                                                   島崎藤村は近代日本文学を代表する一人で小説『破戒』・『夜明け前』、詩集『若菜集』などが有名です。                                             藤村と大磯の関わりは、昭和 16年1月 13日、神奈川県湯河原町に休養に訪れる途中、友人に誘われ大磯の左義長見物に立ち寄った時といわれています。                       大磯と この家をすっかり気に入り、ここでの生活を決意し、2月 25日に敷地面積 145坪に建つ 24坪の長屋を毎月家賃 27円で借り受け、翌年の8月には、当時のサラリーマンの約 30年分の給料に相当する1万円でこの邸宅を買い取り、終の棲家とされたとのことです。      『余にふさわしき閑居なり』

藤村邸は大正後期から昭和初期にかけて建築され、周辺には同じような貸別荘が数軒あり、一帯は「町屋園」と称されていました。

静子夫人宛ての書簡の中で藤村はこう表現しています。

小さいながらも素朴な冠木門を通れば、割竹垣に囲まれた小庭、そしてわずか三間(みま)の古びた平屋建ての民家が目に入ります。                                      昭和初期の一般家庭よりも天井の高さが一尺ほど低く茶室風に造られた四畳半の小座敷は、書斎として使われました。                                          『萬事閑居簡素不自由なし』 

この部屋からは簡素を信条とする藤村の気配りが最も感じられます。                      夫人は「大磯の住居は 50年に及ぶ主人の書斎人としての生活の中で、最も気に入られたものだったろう」と述べられていたそうです。

しかし、昭和 18年(1943)8月 21日に小説『東方の門』執筆半ば脳溢血で倒れ、翌日午前0時 35分に 71歳の生涯を閉じました。                                    静子夫人に告げた 「涼しい風だね」 が最後の言葉となったそうです。

 

東海道松並木                                                小田原に向かって樹齢 400年ほどの松並木が続きます。

江戸時代、幕府は東海道を整備して松並木、一里塚、宿場をもうけ交通の便を良くしたので、参勤交代や行商、お伊勢参りなどに広く利用されました。                         松並木は、今から 400年前に諸街道の改修の時に植えられたもので、幕府や領主に保護され約 150年前頃からは厳しい管理のもとに、立ち枯れしたものは村々ごとに植え継がれ大切に育てられてきたものです。                                                 この松並木は、このような歴史をもった貴重な文化遺産となっています。

 

 

#東海道五十三次  #島崎藤村

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🏞 駿府城公園 🏞

2025年03月04日 | 日本の歴史

今川義元 全盛の時代 天文 18年(1549)に、徳川家康は人質として 19歳までの 12年間 駿府で暮らし、また晩年も「大御所」として 65歳から亡くなる 75歳までの 10年間を駿府で過ごされました。

 

 

その駿府城公園で、城跡天守台の発掘調査公開中とのことで見学してきました。

駿府城の歴史                                                    現在の駿府城公園周辺には駿河国の戦国大名 今川氏の館があったと考えられています。     今川義元が当主の頃、松平竹千代(家康の幼名)は駿府で暮らしていました。         永禄3年(1560)義元が桶狭間の戦で織田信長に討たれると今川氏は衰退し、永禄 11年(1568)に武田信玄により駿府を追われ、翌年 今川氏は滅亡しました。                       その後、武田氏が滅んだ後、5か国を領有する大名となった家康は天正 13年(1585)に駿府城築城を開始、天正 14年(1586)に浜松から駿府に移ります。                                 発掘調査では、金箔瓦と天守台が見つかっており、金箔瓦が葺かれた天守や石垣のある城であったと考えられています。                                             天正 18年(1590)家康は江戸に移り、秀吉家臣の中村一氏(かずうじ)が入城しました。    慶長 12年(1607)大御所となった家康は江戸から駿府に移り、全国の大名を動員し天下普請による大改修を開始しました。                                             二ノ丸までであった城の範囲を拡張し、三重の堀がめぐる輪郭式の城として整備しました。  家康の死後、天守は焼失し、設計図が残されていないため、その姿は謎に包まれています。  幕末まで幕府が直接管理していましたが、明治時代になると廃城となり、現在 本丸と二ノ丸の跡は、駿府城公園として整備されました。

駿府城の構造は、三重の堀が巡り、堀に囲まれた曲輪を内側から「本丸」・「二ノ丸」・「三ノ丸」とする典型的な輪郭式の縄張りとなっています。                                    現在 三ノ丸は、おもに公共施設が建ち並び、本丸と二ノ丸が駿府城公園となっています。

公園自体が広く大きいので入口が良く分からず、着いたところが北御門                      北御門は門を入ると石垣による枡形風の空間を通り、二ノ丸内部へと入り、本丸を囲んだ内堀は発掘調査のため堀の水はありませんでした。

家康による築城当時「小天守台」にどのような建物が有ったのかは良く分かっていませんが、絵図(駿府城御本丸御天守台跡之図)には、天守台へと登る階段や石垣などが描かれていることから、天守台を防御する機能を果たしていたと考えられています。

なお、ここから見える石は、石垣の最も下にある石(根石)で、江戸時代には地中に埋まっていた石とのことです。 

 

 

過去の発掘調査から、天守台があった場所には室町~戦国時代の今川氏の本拠地であったと推定されていました。                                                      天守台発掘調査でも、天正期(豊臣方)天守台の内部からは今川期の遺構と遺物が発見されたようです。                                                        発見された遺構は、断面がV字状になる薬研堀と窪地状(または池状)の遺構とのことですが、広い発掘現場の外側からしか見られず、よく見えないのが残念であった。

地上に姿を現した石垣も大御所家康が慶長期に築いた石垣と、それより古い時代の天正期に築いた石垣の作り方が異なっているそうです。

慶長期の石垣は加工した石を積む「打込接(うちこみは)」という工法を使用し、石垣の勾配(傾き)は比較的急となっています。                                一方、天正期の石垣は自然石を積む「野面(のづら)積み」という工法を使用し、石垣の勾配は比較的に緩やかとなっています。

打込み接(は)ぎ                                                      石の角を叩いて割り、割り石(矢穴を開けて割る)をもちいて石垣を築く方法です。             石の隙間には間詰め石を詰めています。

切込み接(は)ぎ                                                  切石(加工石)で石垣を築く方法です。

石垣の『刻印』                                                   石垣に使われている石材には『刻印』と呼ばれるさまざまな文字や記号が刻み込まれています。この刻印の役割は、石垣の工事に携わった大名の家紋を刻んだものや、石を積んだ職人のサインで、作業を担当した場所を表していたとされています。                                  ほかにも、石材の原産地を表していたり、奉行の名を記したり、その役割は今も研究されています。                                                          駿府公園(駿府城)で発見された刻印の数と種類は300以上あったとのことです。

最も多く見られる刻印 

大御所となった家康が全国の大名に声掛けして行った天下普請であり、駿府城で発見された『刻印』の数と種類が300以上もあったということは、各大名が我先にと駿府へ馳せ参じたことが良く分かります。

 

 

駿府城の刻印 - 検索 動画

 

 

 

 

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🐾 旧東海道:平塚宿 🐾

2025年02月14日 | 日本の歴史

江戸から7番目の宿場で、日本橋からは 16里(62.8Km)の所に 平塚宿 があります。

江戸から6番目の藤沢宿からは3里 18町(13.7Km)にあり、途中、茅ヶ崎一里塚から間宿(あいのしゅく)南湖を過ぎ、舟渡し の相模川(河口付近は馬入川と言います。)を渡れば、高麗山(こまやま)が近づいてきて間もなく『平塚宿』に入ります。

次の大磯宿までは 27町(2.9Km)と大磯宿に大変近い所に造られました。

当時の旅人は一日平均 10里(約 40Km)を歩いたようです。                            所が、これほど近い所に藤沢宿~平塚宿~大磯宿と宿場が造られた理由に、平塚が隣村の中原にあった徳川家康の中原御殿並びに中原代官陣屋から東海道にもっとも近い場所だったからと考えられています。

中原御殿は家康が鷹狩りや江戸と駿府の往来のために築かれました。

江戸時代後期の平塚宿の規模は、問屋場2ヶ所、本陣、脇本陣 各1軒、旅籠 54軒、家屋数 443軒、人口 2,114人で東海道の宿場の中では規模が小さい方であったようです。

平塚の歴史は、地震津波、富士山の 噴火、空襲など多くの災害を乗り越えてきました。                                                                                                                                                「湘南ひらつか七夕まつり」 は第二次世界大戦末期の平塚大空襲からの復興を願い始められたとのことです。                                              その平塚が災害とどの様に向き合ってきたのか❓ その一部も見て来ました。

                            

平塚駅東口を 9時 20分、出発。                                          まずは駅から東寄りにある相模川に向かいました。                               かつての相模川には 60ヶ所を超える渡船場があったと云われています。                       この馬入の渡しもその一つで、旅人は渡船によって馬入川を行き来していたとのことです。

例外的に将軍の上洛、朝鮮通信使の来朝の時は、川に船を横に並べこれを繋いでその上に板を並べた「船橋」を架けて渡河したようです。

                                      

平塚八幡宮                                                    古くは鶴峰山八幡宮と言われ、相模国八幡庄の総鎮守です。

馬入村、八幡村、平塚新宿の鎮守でもあり、祭神は八幡大神(応神天皇)、神功皇后(応神天皇の母)、武内宿禰(すくね)の三柱です。                                             祭神の応神天皇は大陸文化を積極的に取り入れ、その結果、国勢が大いに発展したことから、国家鎮護、文化発展の神とされています。

平安時代後期、武士の台頭と共に武運長久の神として崇拝され、特に源氏が八幡神を氏神としたため全国に信仰が広まったようです。                                        また、平塚八幡宮は応神天皇とその母を祀っていることから、子宝、安産、子育ての神徳もあるとされています。                                              建久3年(1192)源頼朝は妻 政子の安産祈願のために神馬(しんめ)を奉納しています。

八幡山の洋館                                                  日露戦争後、日本海軍は無煙火薬国産化の必要性を痛感し、広大な遊休地のあった当時の平塚町にイギリスの三社との合弁による日本火薬製造株式会社を設立しました。                   この洋館は、その敷地内にイギリス人技術者の食堂・ホールとして明治 45年(1912)に建築されたものです。

大正8年(1919)日本火薬製造(株)の全施設は日本海軍により買収され海軍火薬廠となり、第二次世界大戦後は旧火薬廠の土地、建物はアメリカ軍により接収、昭和 25年(1950)には横浜ゴム(株)に払い下げられ、平成 16年(2004)横浜ゴム(株)より平塚市が譲り受け、八幡山公園に移築され、平成21年(2009)に一般公開されました。

建物は木造平屋建てで、塔屋のドーム、アーチ状の窓、二方向のベランダ、ドイツ下見板張りの外壁などが特徴です。                                               平塚市内では唯一の明治時代の洋風建造物で、国の登録有形文化財に登録されています。

『番町皿屋敷』のお菊                                                皿屋敷伝説のモデルといわれる 「お菊」 のお墓です。                               お菊は平塚宿役人 真壁源右衛門の娘で、江戸の旗本 青山主膳方に奉公中、青山家秘伝の唐絵の皿を紛失し、主人に斬り殺されたとされています。

井戸から夜な夜な聞こえる皿を数える うらめしい声。                                「いちま~い、にま~い・・・」でおなじみの 『番町皿屋敷』。                   大切な絵皿を割ったという濡れ衣を着せられ若くして処刑されてしまった主人公「お菊」のモデルは平塚出身だそうです。

平塚宿の伝承では、その亡骸は長持ち詰めとなって江戸から送られ、馬入の渡しで父親の源右衛門に引き渡されました。                                                お菊は評判の美人でしたが、源右衛門は変わり果てた娘の姿を見て、「もの言わぬ 晴れ着姿や すみれ草」 の一句を添えて涙し、祖先の墓の傍らに埋葬したとのことです。

 

江戸方見附跡                                                かつて江戸方見附のあった場所に、近年発見された資料や写真をもとに、見附が復元されました。

資料によると盛り土の周りを石垣で固めて、長さ 3.6m、幅 1.5m、高さ 1.6mの台状にしたもので、頂部の盛り土に竹矢来を施した構造物が、東海道の両側に東西に少しずれた形に設置されていたようです。

見附は本来、簡易な防御施設であるとともに、宿場の範囲を視覚的に示す効果を併せ持っていたと考えられています。

 

本陣跡                                                     平塚宿の本陣 加藤家は代々 加藤七郎兵衛を名乗り、門、玄関付き総欅造りの屋敷は比較的小規模でしたが、本陣としての格式としっかりした構えを備えていました。

本陣とは、公家・大名・幕府のお役人などの宿泊施設です。                            14代将軍、徳川家茂は文久3年(1863)と元治2年(1865)の2回、加藤本陣で休憩されたとのことです。

付近には、本陣の補助的な役目をした 脇本陣や人馬の継立と飛脚業務を行った 問屋場、幕府や領主の法令などを記した高札を掲げた 高札場などがあり、この辺りが平塚宿の中心となっていました。

平塚の塚                                                 平塚の地名の由来とされる史跡です。                                   江戸時代の天保 11年に幕府によって編纂された『新編相模国風土記稿』の中に里人の言い伝えとして、【昔、桓武天皇の三代孫、高見王の娘 政子が東国へ向かう旅の途中、天安元年(857)相模国のこの地で亡くなり、里人が松の大木の根元に塚を築いて弔ったそうです。時を経て塚は風化し平たくなったので里人はそれを 『ひらつか』 と呼んできた。】という一節があり、これが平塚という地名の起こりとなりました。

この事から平塚の歴史の古さが伝わります。

 

上方見附跡                                                     平塚宿の京側の出入り口であった上方見附の位置は定かではありませんが、この辺りにあったと云われています。

初代 広重によって描かれた東海道五十三次の平塚宿の錦絵も、上方見附からの眺めのものと思われ、変わらぬ高麗山(こまやま) の姿に往時の風情が偲ばれます。

数多くの旅籠が並んでいた頃の夕方ともなると、客引きをする留め女たちが旅人を奪い合う光景が良く見られたそうです。                                           江戸から京へ急ぐ旅人の袖をつかんでは、前方の高麗山を指して「あの山 を越えないと大磯宿には行けないよ。」と噓を言って、旅人を旅籠に引っ張り込んだそうです。

実際は高麗山を越えずに周りを歩くだけなので、苦は無いのです。                         客引きというのは、昔からあったのですね。

 

 

 

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🐾 旧東海道:藤沢宿 🐾

2025年01月13日 | 日本の歴史

江戸日本橋を出発して6番目の宿場が 藤沢宿 であります。                            藤沢宿は日本橋から 12里半(49.1Km)、戸塚宿からは 2里(7.9Km)、次の平塚宿へは 3里半(13.7Km)の距離にありました。

藤沢宿の規模は、江戸時代後期で人口 4,089人、家数 919軒、問屋場2ヶ所、本陣・脇本陣各1軒、旅籠 45軒であったと記録されています。

人口は多い方でしたが、旅籠の数では江戸を出た多くの旅人が戸塚宿で宿泊するなどの立地上の理由もあって、比較的少ない方の宿場であったようです。

「東海道宿村大概帳」には、藤沢宿の名物を「大山詣で、江ノ島弁財天詣で」と記されていますが、江戸時代の藤沢宿の特色の一つは、多くの道が集まる場所であったこともあるようです。

メインの東海道を西へ、四ッ谷から北西に分かれる大山道(大山阿夫利神社・大山不動尊へ)、南へ下る江ノ島道(江ノ島神社へ)、遊行寺前で東へ向かう鎌倉道、北へ向かう八王子道(滝山街道)、北西に向かう厚木道などがあり、流通の中心地であった。

その様なことから、人々の往来や物資の集散も多く、鎌倉時代末期、室町時代の頃からは、時宗の総本山 『遊行寺』 の門前町としても発展してきました。

その後、江戸時代中期以降は「大山道」や「江ノ島道」の分岐点として「大山詣り」や「江ノ島詣で」の旅人の拠点となり、一層の賑わいを見せることとなった様です。

                                   

 藤沢駅を9時 20分、出発。                                           土曜日でもあり参加総数 84名、私は6班の 10人の皆さんと歩いてきました。

 庚申堂 9:36                                                 堂内には江戸時代前期の作といわれる青面金剛が祀られており、60年に一度、庚申(かのえさる)の年に御開帳されます。                                     次の御開帳は、15年後の 2040年になるとのことです。

庚申信仰は、十干十二支の組み合わせで 60日毎に廻って来る庚申の日に、その夜は眠らずに過ごして無病息災を願う信仰だそうです。

 

 遊行寺坂東門前 9:54                                              遊行寺坂は旧東海道で、お正月の恒例行事 「箱根駅伝」 のルートになっています。

遊行寺総門                                                  総門は黒く塗られた冠木門で「黒門」と称され、総門から山門迄のゆるい坂道は「いろは坂」といわれています。

山門は銅屋根の仁王門でしたが、明治 13年(1880)の大火 で焼け、今は礎石が残るのみです。

遊行寺本堂                                                     遊行寺と呼ばれる、この寺院の正式名称は 『藤澤山(とうたくさん)無量光院清浄(しょうじょう)光寺』 と称する時宗の総本山です。                              本堂には御本尊の阿弥陀如来坐像のほか、宗祖の一遍上人像、遊行4代呑海上人像などが安置されています。

現在の建物は昭和 12年(1937)に再建されたもので、木造では関東随一の広さを誇り、最大で約 700人が座れるそうです。

本堂右手には、諸国行脚中の一遍上人像が見られます。

一遍上人は常住の寺を持たずに諸国各地への賦算の旅(遊行)を続けていたことから、一遍は遊行上人と呼ばれていました。

遊行寺中雀門                                      中雀門は安政6年(1859)に建立され、明治の大火で焼失を免れましたが、関東大震災の時には倒れはしましたが壊れなかったため、そのまま建て直されました。

向唐門造りで側面の大棟に 「菊の御紋」 と屋根の下に 「葵の紋」 が見られ、境内最古の建造物とのことです。

 

 ふじさわ宿交流館 10:28                                                藤沢宿は江戸時代には旧東海道の宿場町として、大山詣でや江ノ島詣でをする人々の交通の要衝として賑わいました。                                      交流館は藤沢の歴史や文化に触れ、人々が交流できる場として平成28年(2016)に開館しました。

 遊行寺橋・高札場跡 10:35                                           東海道は藤沢宿内の大鋸(だいぎり)橋(現在の遊行寺橋)で境川を渡ります。                       橋のたもとには高札場がありました。

高札場とは、幕府や領主の命令などが木の板に書かれた「高札」を掲げる場所で、人通りが多い宿場の中心に置かれました。

   

 江ノ島弁財天道標 10:51                                            江ノ島道に建てられた道標は江戸時代の検校(けんぎょう)杉山和一(1610~1694)の寄進によるものだそうです。                                                杉山検校は江ノ島弁財天を信仰したおかげで管鍼術を会得し、徳川綱吉の病を治して幕府から優遇され、江戸、関東の盲官の最高位である惣録検校まで上り詰めました。                    終生、江ノ島神社への恩を忘れず、参詣の人々のために藤沢宿から江の島までの道案内に、道中 48基の道標を建てたと云われています。

現在、残っているのは 14基ですが、12基が藤沢市にあり市の重要文化財に指定されています。

 

 義経首洗い井戸 11:12                                           文治5年(1189)源義経は奥州衣川で、頼った藤原一族に攻められ、敗れて自害しました。  その首は黒漆櫃に納められて鎌倉に送られ、腰越で首実検にかけられた後、そのまま浜に打ち捨てられたと云われています。                                       言い伝えによれば、金色の亀によって境川を遡り藤沢に運ばれた義経の首は里人に拾われ、洗い清められ首塚に丁重に葬られたということです。

 養命寺 11:47                                                  引地山 養命寺といい、元亀元年(1570)に創建された曹洞宗の寺院です。          御本尊の 木造薬師如来坐像(像高 90.5cm) は鎌倉時代初期に造られたもので、運慶様式の作例とされ、昭和2年(1927)に国の重要文化財に指定されています。                    檜の寄木造・内削りで玉眼を入れ木肌に下地に布を貼って漆を塗った上に金箔を置いた作りになっています。                                                  寺内の格子天井には 224面の天井絵は、とても美しいそうです。

 耕餘塾(こうよじゅく)跡 12:05                                               耕餘塾は明治5年(1872)、羽鳥村名主 13代目 三觜(みつはし)八郎右衛門佐次郎が教育普及のため、小笠原東陽を招いて開いた郷学校の読書院(とくしょいん)に始まるようです。       東陽(1830~1887)は美作国(岡山県)勝山藩士 小笠原忠良の三男として生まれ、26歳で昌平坂学問所に入り儒学を修め、池上本門寺で僧たちに漢学を教えていた所、三觜右衛門によって藤沢に招聘され、廃寺となっていた徳昌院の跡地に読書院を開きました。

学制布告で羽鳥学校と改称しましたが、東陽は羽鳥学校とは別に読書院を残し独自の教育を続けました。                                                      こちらの塾からは、吉田茂(総理大臣)、平野友輔(衆議院議員)、鈴木三郎助(味の素創業者)ら政界・実業界で活躍した多くの人材を輩出しました。 

第45代内閣総理大臣 吉田茂      味の素創業者 鈴木三郎助      衆議院議員 平野友輔 

 

 

 

                                     

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🐾 旧東海道:戸塚宿 🐾

2024年12月24日 | 日本の歴史

江戸日本橋を起点として始まる東海道五十三次の五番目の宿場町 『戸塚宿』 を歩いて来ました

今から約 400年ほど前の旧東海道と言っても幾多の変遷を経て現在に至り、部分的な面影を探しながら歩く形であります。

戸塚駅東口を9時半に出発。 駅そのものが『戸塚宿』の中とのことです。

『戸塚宿』について

慶長6年(1601)東海道に宿駅伝馬制度が制定された時には、保土ヶ谷と藤沢は宿駅に指定され宿場町となっていましたが、その間にある「戸塚」は指定されませんでした。

戸塚宿は日本橋から10里18町(41.2Km)の位置にありました。                    江戸時代の旅では、健康な成人は一日当たり 10里の行程を歩くのが普通であったようです。

日本橋から10里余、箱根越えを控えた小田原宿までも10里余という立地にあり、旅人にとって戸塚は宿泊するのに最適な地でありました。

江戸寄りの保土ヶ谷宿へは品濃坂の急坂を越える2里9町(8.8Km)の道のり、京寄りの藤沢宿へは大坂の急坂を越える2里(7.9Km)の道のりで、保土ヶ谷宿から藤沢宿までは4里余の道のりがあり、2宿間の距離が長く、更に品濃坂、大坂という急坂を登り下りするため人馬が疲弊することが多かったようです。 

このため旅人は正式ではなかった戸塚宿に宿泊したり、同町の人馬を使って藤沢宿や保土ヶ谷宿まで荷物を運んだりすることが行われ、戸塚宿では相応の駄賃を取得して、街道稼ぎを生計にしていた人が沢山いたようです。

こうした状況に対して、保土ヶ谷宿は同情的でしたが、藤沢宿は公用の人馬を負担していない戸塚宿が人馬を出して駄賃稼ぎをするのは不法であると代官の彦坂元正に苦情申し立てをしました。                                             このため、幕府は戸塚宿に対して「伝馬御用を果たさず届け出もせず勝手に街道稼ぎをするのは不都合」と通達を出しました。

そこで戸塚の有力者である澤邊宗三は保土ヶ谷宿と藤沢宿に了解を取る交渉をしながら、幕府に宿駅開設を強く働きかけ、慶長9年(1604)戸塚宿成立にこぎつけました。

 

戸塚宿の宿内の町並みは20町余(2.2Km)で、江戸方より矢部町・吉田町・戸塚町の3町で構成されていました。                                              戸塚町は一丁目から六丁目まであり、それぞれ上宿、中宿、台宿、天王宿、田宿、八幡宿の別名で呼ばれていました。                                              宿の規模は、天保 14年(1843)編纂の『東海道宿村大概帳』によれば、人口 2,906人、家数 613、本陣 2、脇本陣3、旅籠 75で、問屋場は矢部町・吉田町・戸塚町中宿の3ヶ所が交代で務めていたとの事です。                                              旅籠 75軒は近隣の宿場町の中で、品川、小田原に次ぐ多さであった。

こんな形で『戸塚宿』が誕生しました。

                            

この後は戸塚宿の街道沿いを歩きながら面影の残る場所を、ご紹介して往きます。

 

戸塚競馬場跡 9:50                                                 昭和8年(1933)吉田町に神奈川県畜産組合連合会の経営する 競馬場ができました。

上の写真の右手が競馬場になります。前の道路は当時の鎌倉街道だそうです。            競馬場は昭和 17年(1942)に汲沢に移転し、跡地は現在 日立製作所になっています。

 

日蓮宗 妙秀寺 9:57 

こちらのお寺の境内には、延宝2年(1674)の鎌倉街道の石道標が残されています。     ガイドを担当して下さった藤井さん。  

有名な歌川広重の『東海道五十三次之内  戸塚』 に描かれた道標が移築されたものと考えられていますが、浮世絵中の道標は「左 かまくら道」となっているのに対し、境内にある道標は「かまくらみち」となっています。

 

吉田大橋 10:07                                                  江戸時代、大橋は広重の浮世絵に描かれ、戸塚宿を代表する場所の一つとなりました。    絵の左側に描かれている「こめや」 は旅籠屋で、旅籠屋の軒先には講中の名前を書いた講中札が何枚も吊り下がっています。                                           この札は、この旅籠屋が講仲間や旅人が安心して泊まれる特約旅館であることを示しているのだそうです。                                                   絵の中央辺りに「左 かまくら道」と記された道標が見えます。                           ここは柏尾川沿いに下って鎌倉へつながる川沿いの分岐点で、現在の大橋は「吉田大橋」と呼ばれています。

柏尾川に架かる吉田大橋 、左が鎌倉道、左の橋の角に石道標が建っていたようです。

江戸時代には夜明け前に日本橋を出発し、一日歩いてここで宿をとるのが定番であった。   大山道・鎌倉往還との分岐点でもあり、当時は大変に賑わっていた所のようです。

 

清源院 10:50                                                浄土宗のお寺で、徳川家康の側室 お万の方ゆかりのお寺です。                            本尊は徳川家康から拝領した歯吹(はふき)阿弥陀如来で、境内には松尾芭蕉の句碑 心中句碑があり、墓地最上部に お万の方の遺骸火葬跡(当時としては珍しい)の碑があります。                        また、鎌倉郡三十三観音二十二番札所であり、千手観音が祀られています。                       本堂正面の扉には葵の御門が見られます。

 

澤邊本陣跡 11:15                                                   澤邊本陣は戸塚宿に二つあった本陣のうちの一つです。                             本陣創設時の当主 澤邊宗三は戸塚宿の開設にあたって幕府に強く働きかけた功労者です。   明治天皇の東下の際には行在所になりました。

 

海蔵院 11:23                                            海蔵院は臨済宗 円覚寺派の寺院で惠照山 海蔵院と号します。                    本堂には御本尊の釈迦如来像と観世音菩薩、十一面観音菩薩、持ち上がり地蔵などが安置されています。

山門の入口右手にある像は平成 26年(2014)1月から始まった戸塚宿七福神巡りでお参りされる布袋尊(山門右手)で、山門上部には左甚五郎作と伝えられる龍の彫刻があります。

 

八坂神社 11:33                                               通称「天王さん」と呼ばれ親しまれている神社で、また戸塚宿の鎮守であり、祭礼当日の参詣人は当地随一の賑わいを見せるそうです。

この神社の祭日である7月 14日に行われる 『お札まき』 は女装した 10人ほどの氏子が、音頭に合わせて歌いながら円を描いて踊り、「正一位八坂神社御守護」と刷られた5色のお札を 団扇 であおって撒くそうです。

風流歌の歌詞に「ありがたいお札、さずかったものは病をよける、コロリも逃げる」という文句があることから、祇園祭と同様な御霊信仰に基づく厄霊除けの行事であります。

 

上方見付跡 11:55                                                                                                                      戸塚宿の上方側、すなわち京側の出入り口を示す土居が街道の両側にあり、京に向かって左側に松、右側に楓が植えられていました。                                   江戸方見付から上方見付までの戸塚の宿内は長さ 20町余(2.2Km)でした。

 

大坂台の庚申塔群 12:01                                          上方見付を過ぎると直ぐ登り坂にかかります。この坂が大坂です。                       『新編相模国風土記稿』に「海道中南にあり、一番坂登り一町余、二番坂登り三十間余」と書かれているように、かつては2つの坂から成っていたようです。                 今は拡幅、舗装されて割合緩やかな坂になっていますが、昔は急坂で荷車、牛馬車などは真っ直ぐには登れず、車の後押しを商売とする人に助けられ蛇行しながら登っていたそうです。

庚申塔は3年間にわたって庚申待ちを続けた記念などに建立された石碑で、十干十二支の組み合わせで 60日に一度やって来る庚申の日の夜を眠らずに過ごして無病息災を祈るのが庚申待ちです。

こちらの庚申塔は道路改修工事にあたって大坂周辺から集められたものです。

 

大坂上の松並木 12:27                                              天気の良い日、汗を拭き拭き2つの坂を登り切ると松並木の続く道で、その合間から富士山が見える素晴らしい景色は多くの浮世絵の画題となりました。

松並木は、慶長9年(1604)、家康の命により街道に植樹されました。                     大坂を登り切った辺りから遊行寺坂上に至る街道には高さ 30mほどの松の巨木が立ち並び、その数は2千数百本もあり大変壮観であったようです。

ですが、第二次世界大戦末期の軍による松の伐採や昭和 30年(1955)頃からの排気ガス、松喰い虫の被害そして道路の拡幅工事が進み松並木は失われてしまいました。 

 

浅間神社 13:00                                                  原宿村の鎮守で、祭神は木花佐久弥毘売命(このはなさくやひめのみこと)です。                     富士山信仰に基づき村内安全を祈願するため勧請され、永禄年間(1558~01570)に創建された神社で、玉縄城主 北条左衛門大夫綱成の崇敬が篤かったといわれています。

社殿は安政5年(1858)に再建され、改修を経て現在に至り、参道の両側にはスダジイの大木が何本もあり、中には樹齢 600年を超えるものもあり横浜市の名木古木に指定されています。

浅間神社の境内から霊峰 富士山が望めました。                                  

 

 

 

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🐾 旧東海道:保土ヶ谷宿 🐾

2024年11月15日 | 日本の歴史

保土ヶ谷宿は、慶長6年(1601)徳川家康が東海道に宿駅伝馬制度を制定すると、神奈川・藤沢などと共に、幕府公認の宿場として誕生しました。                                               江戸から約 33Km(8里9丁)で品川・川崎・神奈川に続く4番目の宿場です。                日本橋を起点とした東海道は品川、神奈川と海沿いの道を進み、次第に海から離れ内陸部に入った場所に位置していたのが 『保土ヶ谷宿』 でした。

宿場が担う役割は、荷物の運搬に要する人馬などの継立や旅人の休泊施設の提供、飛脚の業務などがありました。

街道は幕府によってすべての管轄が定められていました。                 保土ヶ谷宿は、芝生(しぼう)村追分(現在の西区との境)から、境木(さかいぎ)地蔵(現在の戸塚区との境)まで約5Kmで、追分から北は神奈川宿、境木地蔵より南は戸塚宿の管轄となっていました。

                              

相鉄線 天王町駅を9時 20分出発。

天王町駅前公園の帷子(かたびら)橋跡から香象院~問屋場跡~金沢横丁~御所台の井戸~福聚寺~本陣跡~瀬戸ヶ谷八幡社~一里塚~樹源寺~権太坂~境木地蔵尊~品濃一里塚の順に約7.0Kmを歩いて来ました。

                           

帷子(かたびら)橋跡                                                   保土ヶ谷宿に入って、東海道が帷子川と斜めに交差する所に架けられていた橋が「帷子橋」とのことです。

橋の長さは 15間(27.3m)、幅は3間(5.5m)の板橋でした。                    歌川広重は、付近の景観と相まってこれが大変気に入り何枚もの浮世絵を残しているそうです。                                          天王町駅前には当時を偲ぶモニュメントが残されています。

普賢山 香象(こうぞう)                                                 ご本尊は不動明王立像だそうです。                                            保土ヶ谷宿で最大の 寺子屋があり、明治6年(1873)に保土ヶ谷小学校の分校となったとのことです。

仏足石(仏の足裏の形を刻んだ石)や寺名に因んだ象の置物があり、香象とは青色で香気を帯び大海を渡るという象で強力な力を持つといわれています。

旧東海道を歩くと、現在では都市計画により区画整理が行われているので、各所にこの辺りに何々が有りましたという解説板や案内柱で示されています。

金沢横丁の石碑(道標 )                                          東海道と分岐して金沢や鎌倉への分岐点を「金沢横丁」と呼んだようです。                  金沢を経由して鎌倉に至り、更には江の島を巡って藤沢で再び東海道に合流することになる代表的な物見遊山のコースであったようです。                                  曲がり角には道案内の石碑が四基並んでいました。

御所台の井戸                                      この道は旧金沢道(金沢・浦賀往還)、俗称「金沢横丁」と呼ばれる道で古くより鎌倉へ至る道として知られていました。

鎌倉時代、源 頼朝の妻政子が、ここを通りかかった時、この井戸の水を汲んで化粧に使用したと伝えられ「御所台の井戸」と呼ばれています。

無量山 福聚寺 臨済宗建長寺派                                                       開山は南北朝時代(1335年)で、ご本尊は釈迦如来像。

本堂の裏手に十返舎一九の弟子である五返舎半九の供養塔がありました。                    半九は江戸時代後期の戯作者で落語の原作『落噺(おとしばなし)仕立て下ろし』などの作品があるそうです。

本陣跡                                                     保土ヶ谷宿の本陣は苅部本陣一ヶ所だけでした。                                  保土ヶ谷宿が設けられると、苅部清兵衛が幕府より本陣、問屋、名主の役を命ぜられ、以降 明治3年(1870)、本陣の制度が廃止されるまで代々清兵衛を世襲してきました。(現在は軽部姓)

東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊し、本陣が混雑した際は脇本陣に宿泊したようです。                                        保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3軒の脇本陣があったそうです。

                                 

旅籠 本金子屋跡                                             本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。                                     明治2年に建て替えられた現在の建物も東海道沿いに建ち、格子戸など旅籠の面影を残しています。

過去に国道1号線が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。 現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。                   ガイドして下さる平岩さん  

復元した一里塚と上方見附モニュメント                                平成 19年2月に一里塚と松並木が復元されました。 

一里塚は行程の目安として一里ごとに小高く盛り土をして榎を植えたものであり、ここは江戸から8番目の一里塚です。                                            見附は宿場の門の役目で、京都に近い方を「京方見附」もしくは「上方見附」と言い、上方見附から江戸方見附までは家屋敷が街道沿いに沿って建ち並び「宿内(しゅくうち)」と呼ばれています。

国号一号線の権太坂。 お正月に 箱根駅伝の選手 はここを走ります。

歴史の道 『権太坂』                                            この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人が初めて経験するきつい登り坂でした。

日本橋から4番目の宿場であった 保土ヶ谷宿 まではほぼ江戸内湾沿いの平坦地でしたが、宿の西辺りより長く続く険しい登りとなります。

「新編武蔵風土記稿」によれば、保土ヶ谷から登る坂は一番坂、二番坂と二つの坂があったと書かれ、また「その地形十丈(約 30m)余りも高く、屈曲して長き坂なり。故に街道往返の人、この所を難所とす・・・・・」 と書かれるほどに傾斜のきつい大変な急坂で、民家もなく道の左右は鬱蒼として松の老木が立ち並んでいたといいます。

                                                          きつい坂を登り切れば、松並木が続き景色も良く富士が 眺められ、目の下に見える神奈川の海は大変美しかったとあります。                              旅人にとって印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所となりました。

境木(さかいぎ)地蔵尊                                                 境木地蔵は丁度、武蔵国と相模国の国境にあり、境木地蔵の手前には昔、国境に立てられたという傍示杭が平成 17年(2005)に復元されました。

この辺りは、境木の立場(休憩所)があった所で、保土ヶ谷からは難所の権太坂を登り切った所、また戸塚側からも品濃坂を登り切った所でしたので見晴しも良く、茶店などもあり、旅人は名物の牡丹餅 を食べながら疲れを癒した所の様です。

境木地蔵尊の創建は江戸時代初期(1659年)江戸からの講中や道中の安全を祈る旅人が多く参拝されたようです。

品濃一里塚                                                    江戸日本橋から9番目となる品濃一里塚です。                                      こちらの一里塚は、街道の左右につくられ、直径が6間(約 11m)、高さ3間(約 5.5m)で、塚の上には大きな榎が植えられていました。

現在、神奈川県内でほぼ完全な形で残る唯一の一里塚で、県の指定文化財 になっています。

品濃一里塚を下り、全行程 約 7.0Kmを歩き、JR東戸塚駅に到着しました。

 

 

 

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🚢 横浜開港当時の神奈川宿を歩く 🚢

2024年10月19日 | 日本の歴史

今回は東海道ウォークガイドの会主催の月例会に参加させて頂きました。

横浜の開港前は戸数 101戸の半農半漁の横浜村が一躍時代の脚光を浴びたのは、安政5年(1858)に結ばれた日米修好通商条約で神奈川の開港が決まってからとのことです。                 『横浜開港当時の神奈川宿』や開港場への道『横浜道』という古い道はアップダウンが多く歩き甲斐のある所をガイドさんと共に歩いて来ました。                                               ガイドさんの話では横浜の平地は海を埋め立てた所だけですとのことでした。

JR 東神奈川駅を9時半、出発。                                ガイドをして下さった、お元気な中野さん。 

東海道五十三次の日本橋より数えて三番目が神奈川宿であります。                       宿内は 18町 29間で江戸よりの神奈川町と京よりの青木町の2町で構成され、規模は江戸後期で人口 5,793人、家数 1,341、本陣 2、旅籠は 58軒だったそうです。

日米修好通商条約上の開港は神奈川でしたが、幕府は神奈川に居留地を置けば、東海道の通行に支障が起こるとし、対岸の横浜村に長崎の出島と同様の外国人を囲い込む居留地づくりを進めたそうです。                                                  それに対し、アメリカをはじめ条約を結んだ各国は、これに抗議し条約通り神奈川宿の寺院に領事館を置き神奈川の開港を迫りました。

アメリカ領事館:本覚寺                                           オランダ領事館:長延寺                                           イギリス領事館:浄龍寺                                              フランス領事官:慶運寺

開港は決まったものの、当時は東海道筋から横浜村への交通は不便を極めていた。          開港場の建設と共に重要な課題は、東海道と横浜開港場を結ぶ新道の開設でしたが、開港の直前、安政6年(1859)に工期3ヶ月の突貫工事で横浜道が完成しました。

当時の慌しい中に建設された『横浜道』を歩きながら、残されたものを見て来ました。

今年 2024年は、横浜開港 165年になるとのことです。

 

まず最初に正覚山法雨院「成仏寺」を訪ねました。

嘉永7年(1854)横浜で行われた日米和親条約交渉の応接掛(特命全権大使)林大学頭の宿舎になり、日本開国の最前線基地のお寺でした。

横浜開港の3ヶ月後、アメリカの宣教医ヘボン博士は寺の本堂を、宣教師ブラウンは庫裡を宿舎としたそうです。                                        ヘボン博士は日本で最初の和英辞典を編纂、それによりヘボン式ローマ字を広めたことや、青少年の教育などに尽力されています。                                   【男子は後の明治学院、女子は後のフェリス女学院】 

当時はまだ「キリスト教禁止令」が解除されていませんでしたが、日本で初めて日曜礼拝も行われ領事館員、商館員、水兵、船員らが参加して、この寺から 讃美歌 が聞こえてきたそうです。

 

 開塔山 宗興寺    

ヘボン博士は医療宣教師で医師でもありました。

この宗興寺を施療所として6ヶ月間で約 3,500人の患者を無償で診療しました。           奉行所は最初この診療を黙認していましたが、やがて患者が評判を聞きつけ殺到し、驚いた幕府は開所半年後に閉鎖を命じたとのことです。

 

 青木山延命院「本覚寺」へ

開港当時、アメリカ公使ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、更には湾内を見通すことが出来る本覚寺をアメリカ領事館に決めたそうです。      生麦事件の際にはヘボン博士が負傷者の治療に当たりました。

神奈川宿は日本橋を出て三番目の宿場町です。現在の台町辺りは、かつて神奈川湊を見おろす景勝地でした。

 

神奈川宿がにぎわった当時から続く唯一の料亭が、文久三年(1863)創業の田中屋です。

田中屋の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重の「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名です。高杉晋作やハリスなども訪れたそうです。                         また、坂本龍馬の妻「おりょう」が田中屋で働き始めたのは明治7年、勝海舟の紹介で働いていたと伝えられています。                                         英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていました。

 

 神奈川台関門跡                                              安政5年(1858)9月に始まった「安政の大獄」により開国に反対する浪士の行動が日毎に不穏となっていき、ついに横浜でロシア人士官と水兵、フランス領事館の清国人が殺傷される事件が起こりました。                                                イギリス総領事オールコックから浪士取り締まりのため関門設置の要求があり、これを受けて幕府は神奈川台などに関門7ヶ所、見張り番所 10ヶ所を設置しました。                  関門には木戸門・面番所があり、同心、足軽を配置して警戒に当たらせていたといいます。

神奈川宿の東西にも関門が造られ、そのうちの西側の関門が神奈川台の関門だそうです。

 

 横浜道入口 

開国に踏み切った幕府は神奈川(横浜)の開港を定めたが、東海道筋から横浜へ至る道が無く、東街道筋の芝生(しぼう)村(現:浅間町)から横浜(関内)に至る『よこはま道』と呼ばれる新たな道路を開いた。

 

11時 10分、横浜市西地区センターに到着。 15分、の 休憩。

 

 

 二代目横浜駅遺構                                           明治5年(1872)、新橋~横浜間で日本初の 鉄道が開業しますが、横浜の駅は 海運との接続を考慮し、港に近い現在の桜木町駅の位置に設置されました。(初代横浜駅)             その後、国府津駅まで路線が延伸され線路配置はスイッチバック構造になり、横浜駅には貨物が滞留し短絡線を設置するも解決に至らず、 横浜駅を移転させました。(二代目横浜駅)            その際に初代横浜駅は 「桜木町」駅 と改称されました。

二代目横浜駅は東京駅の様な煉瓦造りの駅舎で、大正4年(1915)に建設されました。が、8年後の大正 12年(1923)の関東大震災により焼失してしまいました。                   短命だったため 『幻の横浜駅』 と呼ばれました。

東海道線の運行が今の様になり、現在の「横浜駅」(三代目:開業 1928年)に移転しました。

 

 井伊掃部頭(いいかもんのかみ)ゆかりの地                                     江戸時代まで、この辺りは「不動山」と呼ばれる 海に面した 高台であったようです。     明治初期には、日本初の鉄道 開通に携わった外国人技師の官舎が建てられ鉄道事業の拠点となり、鉄道開業後も、この山の地下水が鉄道用水に使われたことなどから「鉄道山」と呼ばれるようになりました。

明治 17年(1884)、旧彦根藩士(滋賀県)らが一帯を買い取り庭園化し、井伊家に寄贈したことから、井伊掃部頭直弼(いいかもんのかみなおすけ)にちなみ「掃部山」となりました。

明治 42年(1909)、横浜開港 50周年を記念し井伊直弼の銅像が建立され、同時に井伊直弼の子息:直安によって水泉も設置されました。

大正3年(1914)には井伊家より、この地は横浜市に寄付され、植樹、設備を整え、掃部山(かもんやま)公園として開園しました。 

 神奈川奉行所跡                                               横浜開港に備え、開港場の建設と運営管理のために設置されたのが神奈川奉行所です。

この地にあって内政事務を執り行う「戸部役所」、開港場の中心部に置かれ外交・関税事務を執り行う「運上所」、神奈川湊の渡船場付近で人馬の管理事務を行う「会所」の3ヶ所に分かれていました。                                             慶応4年/明治元年3月 19日、神奈川奉行所は廃止され、横浜裁判所が置かれました。      運上所は後に横浜税関になりました。

 

 

 野毛の切通し                                         元は細々とした江戸時代の保土ヶ谷道が通っていましたが、横浜開港が決まると東海道と開港場を結ぶ横浜道として丘陵が大々的に開削され、野毛の切通しが設けられました。           更に関東大震災からの復興時など順次、切り下げ拡幅されました。                      昭和 40年代までは市電が走っていました。

開港場である関内を挟んで、東の山の手は外国人居留地に、西の野毛山は日本人豪商の居留地となりました。                                                    野毛山の動物園一帯には、かつて当時の横浜を代表する実業家である茂木惣兵衛の和風建築が連なる大邸宅が、他方  動物園に隣接する散策地区には、原 善三郎(原三渓の様祖父)の豪奢な洋館の邸宅が、切通し沿いには生糸取引や金融で財を成した平沼専蔵の別邸がありました。   一帯 の施設はみな関東大震災により崩壊しましたが、唯一の 遺構が旧平沼専蔵邸の石積み(亀甲積み)擁壁でした。

震災後、防災の観点から公園緑地が見直され、跡地は野毛山公園などになりました。 

 吉田橋関門跡                                                   横浜道が完成すると同時に、開港場の入口と吉田新田の入口の間に橋が架けられ「吉田橋」と呼ばれました。

吉田橋が設置されると、ここが交通の中心地となり治安維持のため橋のたもとに関門を設け、武士や町人の出入りを取り締まりました。                         関内、関外という呼び名は この時以来で、関内は馬車道側、関外は伊勢佐木町側を指し、関内の内側一帯は現在でも『関内』と呼ばれています。                                                      

 

 

 

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👞 旅人、箱根旧街道を歩く 👞

2024年10月12日 | 日本の歴史

小田原から三島までの道のりを『箱根八里』といい、街道で最も難路であったと云われていました。                                               この八里のうちの二里半(約 10Km)が箱根旧街道の東坂となります。                  江戸幕府が開いた旧東海道。                                             かつては竹を敷いていたそうですが、その後「二子石」など周辺の石材を使って石畳の道となったようです。

箱根湯本駅から元箱根への箱根旧街道東坂を、江戸時代の旅人気分に浸りながら歩いて来ました。                                                       箱根湯本駅を7時 46分出発。

駅前通りを南西に進み温泉街を抜けて県道に出た。                        県道は狭く、意外と車が多いので、気にしながら登る。                     途中、正眼寺に寄り仇討ちで有名な曽我兄弟の菩薩供養の堂宇「曽我堂」を参拝したりとノンビリ進んだ。                                                 8時 37分、県道と別れる箱根旧街道入口を通過。右下に下る。

ここは一時的に県道を外れるが、再び県道に戻ります。                           この県道の下に延宝8年(1680)江戸幕府が箱根旧街道に石を敷いたと云われる面影の残る道が約 255m程あるとのことで、そこを歩かせてくれる為にわざわざ県道を外れているのです。  国の史跡に指定されています。 

再び県道に戻り、9時 16分 須雲川自然探勝歩道入口を通過。

ここから須雲川に下ります。

10分ほど下ると三枚橋発電所の沈砂池に突き当たり、右に下ると須雲川に出ます。       ここは大雨で増水している時は県道歩きとなりますが、普段は丸太橋で左岸に渡ります。

川から上がると県道に出ますが、目の前に「割石坂」と標示された案内板があり、その横の遊歩道を登って行きます。

登り出して直ぐに石畳となり距離は短いようですが、部分的に江戸時代の石が再利用されているとのことです。

箱根旧街道に沿って県道が造られているようで、何度も横断しながら登って行きます。    9時 46分、箱根旧街道の道標に従い石段を下り、飛龍ノ滝から流れる沢を渡り山道を進む。

登り返しは苔むした急な石畳「大澤坂」を登る。

急な大澤坂を登り切り車道に出た所が『畑宿』です。10時 03分通過。

江戸時代初め、徳川幕府は街道や宿場を整備し交通基盤を整え、更に距離を明確にするため、街道の一里(約4Km)毎に一里塚を置きました。

寄木細工の店が並ぶ畑宿、三連休前の平日であり畑宿寄木会館はお休みでした。

 

一里塚は旅人にとって旅の進み具合が分かる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は夏には木陰をつくり冬には寒風を防いでくれる格好の休息場所にもなりました。

旧街道一里塚の石柱前から、更に石畳を進みます。

車では急坂を大きく蛇行しながら登って行きますが、旅人は小さな石畳の歩道橋を渡り、蛇行せずに西海子坂(さいかちざか)の急坂の登りが始まります。                           ここを登り切ると七曲がりの車道歩きになりますが、歩道が確保されています。

橿木坂(かしきさか)通過、10時 26分。

車は蛇行して登る所を、旅人は急階段を幾つも登らなければならず厳しかった。           見晴茶屋への分岐点に到着、10時 45分。

見晴茶屋前の広場から休憩しながら眺めた、湯本方面と相模湾。                     登ってきたなァ~ と感じ、疲れが飛ぶ。

見晴茶屋を過ぎると西側に聳える下二子山(標高 1065m)の南側を巻くように進み、甘酒茶屋を目指します。

                                                  山根橋通過。

                            

箱根旧街道には❝ 雲助 ❞と呼ばれる人たちが居ました。                            『箱根の雲助』というと、何か?悪者の様に思われていますが、実は小田原の問屋場で働く人足達だったのです。                                             ただ、❝ 雲助 ❞という悪者は ほんの一部の人で、問屋場では人足を登録させ仕事を割り当てていましたので、悪さをした人などいなかったといいます。

日本交通史論という資料によりますと、❝ 雲助 ❞になるのは次の3つにパスしなければならなかったそうです。その内容をみると、なかなか難しく誰でも直ぐになれるという職業ではなかった。

 力が非常に強いこと。                                             これは仕事の性質上絶対に必要なことでした。

 荷物の荷造りが優れていること。                                      荷物を見ると、誰が造ったものかわかるそうです。                              箱根で一度荷造りした荷物は京都まで決して壊れることはなかったそうです。

  を歌うのが上手でないと一流の❝ 雲助 ❞とは言われなかったそうです。

                               

甘酒橋通過、10時 52分。

猿滑(さるすべり)坂通過。                                                 こちらは『新編相模国風土記稿』に「殊(こと)に危険、猿猴(えんこう)といえども、やすく登り得ず よりて名とす」と難所らしい坂の名の由来が書かれているとのことです。

追込坂通過、11時 11分。                                           ここまで来ると車道の一段上を歩く平坦な道となり、甘酒茶屋近し。

11時 25分、甘酒茶屋到着。                                          道中には「甘酒」をふるまう茶屋が設けられる様になり、文政年間(1818~1829)には『甘酒小屋』と記録があり、箱根地域には9か所設けられていたようです。

江戸時代、徳川幕府は人々や物資の往来が盛んになるように街道の整備を行いました。    東海道は その中でも主要な街道で、この箱根地域(湯本~箱根関所間、通称「東坂:ひがしざか」)は道が大変険しく、当時の旅人が普通1日十里(一里は4Km)を旅するところ、箱根地域では八里しか歩けなかったようです。

 

甘酒茶屋付近で見かけたノコンギクとホトトギス。

旧街道最高地点に近い最後の石畳入口通過、11時 44分。

最初はこれほど長い石畳の道が続いているとは思っていなかったが、最後の石畳はじっくりと味わいながら歩いた。

権現坂からコースを外れるが、お玉ヶ池に寄ってみた。                           左:二子山、右:下二子山がスッキリと見えた。

再び、権現坂に戻る。12時 35分。

芦ノ湖に向けて一気に石畳を下る。

12時 39分、杉並木が見えた~ッ 

 

薄暗い所が長かったので、明るい芦ノ湖畔に出てみた。富士が少し顔を出してくれていた。

13時15分、ゴールとしていた箱根関所に無事到着いたしました。 

 

箱根旧街道、予想以上に長い石畳を歩けて十分満足しました。                        湿気があり石に苔が付いていたりするので、今はスリップに注意しないといけないですが、昔の旅人は草鞋(わらじ)でしたから安全に歩けたのですね。

 

 

 

 

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