素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

⛩ 伊勢国一の宮 猿田彦大本宮 椿大神社 ⛩

2023年11月02日 | 日本の歴史

椿大神社(つばきおおかみやしろ)の参拝者数は、三重県では 伊勢神宮 二見興玉神社に次いで 番目に多く、三重のパワースポットとして参拝される人が多いそうです。

                                           伊勢国 鈴鹿山系の中央山麓に鎮座する椿大神社は 『椿さん』 の愛称で皆様に親しまれ、二千年の歴史を持つ日本最古の神社であるとのことです。

全国でお祀りする猿田彦大神の総本宮として信仰されています。 

 

鎮座地   三重県鈴鹿市山本町御旅

御神徳 猿田彦大神さまは天照大神さまとの幽契によって、国つ神の根本の神として、皇孫を

     先達啓行され、皇大神宮の永久御鎮座の大宮所をもお定めになられた事跡により、地

     上に生きとし生けるものの平安と幸福を招く『みちびきの祖神(おやがみ)さま』とのこ   

     とであります。    

     

朝は正面の御拝殿 に御神体山に鎮座する奥の宮を訪ね参拝する旨の御挨拶をしましたが、13時50分に無事下山をしたので着替えを済ませ、無事下山報告など改めて参拝させて頂きました。

椿大神社は車道から参道は真っ直ぐなのですが、参道の正面に社名の石塔が建っているので、右手の鳥居から参道へと進みます。

獅子堂                                                      聖武天皇の勅願により奉納された獅子頭に由来して「獅子堂」と名付けられたとのことです。 三年毎に斎行される獅子神 御祈祷神事では魔を祓い平安を祈ります。                    平時は交通安全・車輌の清め祓いの祈祷が行われています。

御船磐座(みふねのいわくら)                                           室町時代の謡曲「鈿女(うずめ)」に謡い込まれている神代の神跡。                  天孫 瓊々杵尊(ににぎのみこと)一行の御船がここに御到着された場所と言われ、この地より九州に御先導されたと伝えられています。

高山土公神陵                                                    参道 中ほどにある前方後円墳は、高山土公神陵と呼ばれ、猿田彦大神の御陵であります。

拝殿正面                                                   幽玄なたたずまいをみせる地祇(ちぎ) 猿田彦大本宮 正面拝殿。                            みちびきの祖神・猿田彦大神をはじめ三十二神が祀られています。

鈿女本宮 椿岸神社                                       猿田彦大神の妻神で夫婦円満・芸能上達・縁結びの神として崇敬される天之鈿女命(あめのうずめのみこと)を主神とし、古来より信仰されています。                                 敷地内には古扇を納める扇塚やかなえ滝がありました。

芸能の祖神ということで、テレビで見る芸能人の沢山の方々も参拝されていることを知りました。

 松下幸之助社                                                   生前から『経営の神様』と神格化されるまでに経営手腕を称賛された松下電器産業株式会社の創始者:松下幸之助翁は、こちらの椿大神社に昭和 41年から幾度も参拝され、深く崇敬されていたとのことです。

 

松下翁は幼少の頃より苦労を重ねられる中で、持ち前の忍耐・努力・卓抜な発想・着想を以て身を起こし、一代にして成功を遂げられた立志伝中の人。                           それは延いては我が国の戦後復興・経済発展、また国民生活の向上に大きく寄与することとなりました。

                              

茶室  鈴松庵                                                        昭和 41年4月より開始された椿大神社の「昭和の大造営」において巨額の造営資金を寄付され、大造営完遂の牽引力となるとともに、『鈴松(れいしょう)庵』と名付けられた茶室をも寄進されたとのことです。

松下幸之助氏が日本の心をこよなく愛する情から茶道の発展を祈念し、庭園と共に寄進された茶室。                                                 鈴鹿の 「鈴」、松下幸之助の 「松」をもって『鈴松庵』と名付けられたそうです。           この茶室は一流一派に偏らず広く一般に開放されているようです。

                             

椿自彊館(つばきじきょうかん)                                                     私の参拝時に学生さんが真剣に練習されており、武道の素晴らしさに見入ってしまいました。

(写真は椿大神社のホームページよりお借りしました。)

古代、弓矢は狩りや漁など、日々の糧を得るための霊力を持つ狩猟具として使用されていました。                                                    そこから、祈祷や占いに用いられ、神話にも記述されているとのことです。

椿大神社では、平成 22年9月に弓道場 『椿自彊館』 を開き、自己の改革や精神修行の場として、多くの方々(特に高校生、大学生)にご利用頂けるよう開放されています。

 

 

 

 

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💎 矢佐芝石丁場を歩く 💎

2023年03月12日 | 日本の歴史

御嶽神社 参拝の後は、南足柄市の埋蔵文化財包蔵地に登録された『石丁場』を歩いて来ました。                                          初めて見た時は、地元に この様な歴史遺跡の有ることにビックリしました。 

                            

                                           どうして、江戸時代初期に石の需要が生まれたのでしょうか ❓

当時、江戸城や小田原城の大規模な土木工事が計画されていたと考えられています。

江戸城の普請の時、石垣用の石は小田原付近から伊豆半島辺りの石丁場(いしちょうば)から運ばれたと云われています。                                               小田原では早川石丁場が良く知られています。  

 

南足柄市にある三か所(塚原矢佐芝石丁場、塚原上向坂(かみむこうざか)石丁場、広町平石通石丁場)の「石丁場」は、すべて標高 250m以上の山林で、沢筋に近い所で見つかっています。

本市は箱根外輪山のすそ野に位置し、箱根火山の マグマが冷えてできた石である安山岩が多いという点から「石丁場」が点在しております。

「石丁場」は石を割る場所で、主に近世、江戸時代に機能していたと考えられています。

「石丁場」という言葉は石切り場の昔の言い方で、丁場とは仕事場、作業場といった意味を持っています。  

                                                   つまり、「石丁場」とは石を適当な寸法で切り出して加工するための作業場ということになり、ここで見られる石の特徴は、幾つもの小さな長方形の穴が、一定の間隔で一直線に入っていることです。

この穴を『矢穴(やあな) と呼びます。

鉄ノミで石の割りたい場所に沿って穴を開け、そこにを含むと膨張する木を差し込み、作業が終わる時に水を掛けておきます。                                     すると、木が水を吸って膨らむことにより、次の日の朝には矢穴の線に沿って石が割れています。下記のように大きな石が綺麗な平面で割れているのです。

この様にして割った石は、沢や石を曳くための石曳道(いしびきみち)を使い、山から運び出し、江戸城や小田原城の石垣に用いたと考えられています。

ただ何故❓ この様な大変な思いをして山から石を運び出さなくてはいけなかったのか❓

江戸幕府は各大名の統制する方法として、参勤交代や大規模工事を命じました。

諸大名が競って江戸城の石垣用の石を集めなければならなかったのかは、大名の忠誠心を試すと共に資金力を削ぐために、江戸幕府が行う大規模工事に動員をかけたと考えられています。

工事の失敗は御家の取り潰しにつながるので、諸大名は命令に従い必死に作業を行いました。

私たち地元に、この様な貴重な歴史遺跡が有ることを知り、調査に向かいました。      矢穴が開いた、形の整っていない石が矢佐芝橋を中心に分布しているのです。

矢穴の開いた大石には 〇 や △ などの刻印が付けられたものがあります。

刻印の意味は  石を割った人達が作業を行う石を判別するために刻んだもの、仕事の手順に応じて刻むなど現場で石を割るために必要な刻印です。                          石を割ることを江戸幕府から命じられた大名たちが、石垣とする良質な石を見つけた際に、自分たちの縄張りを主張するために刻むというものです。

上部の陽が当たっている所に、大きな 〇や △の刻印のある通称「おでん石」。

この様にして採石した石は、石垣用の大きな石であり重量もある。                      山中で切り出した石を、どの様にして運び出したのか、今のように重機やトラックなど無く道路さえしっかりと整備されていない時代であり、大変な苦労が考えられます。

それでも、妻子を江戸に囚われている大名は、何が何でもやらなくてはならなかった。

この明神ヶ岳の麓にある矢佐芝地区には足柄平野の栢山で生まれ育った「二宮金次郎」が父母を助け働き、学問に励みながら栢山から矢佐芝へ薪を拾いに来たところでもあります。

矢佐芝集落では、この地域の歴史遺跡を守り続けています。

 

 

 

 

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🐾 宿場町:由比 🐾

2023年02月25日 | 日本の歴史

歌川広重が東海道五十三次で描いた浮世絵の『由比』は「薩埵(さった)峠」からではないかと云われ、そこからの富士を眺め、由比宿を見学しながら由比駅に戻りました。

昔は「由井」という字が使われていた この由比の町は東海道の 53宿中、16番目の宿場町で当時はおよそ 700人程の人が住んでいたといわれています。

歌川広重 完全復刻愛蔵版『東海道五拾三次』55図揃和紙大判錦絵 ...

薩埵峠から下って来たら、由比宿に入る案内板が出ていました。

蒲原宿(十五番)       由比宿(十六番)       興津宿(十七番)

広重東海道五十三次の蒲原宿の浮世絵広重東海道五十三次の興津宿の浮世絵

十五番目の蒲原(かんばら)宿は、現在の静岡県静岡市に置かれた宿場で、浮世絵は雪景色 しんしんと静まり返った夜の様子を描いたのだそうです。                                  十六番目の由比宿は、山と海が迫り東海道の難所の一つといわれ、難所ではありましたが富士の見える美しい風景で有名な宿場でありました。                                 十七番目の興津(おきつ)宿は、由比町とは打って変わり平坦な道が続き、川を渡る力士の旅が描かれているとのことです。                                             力士ということで、身体が馬からはみ出していたりとユーモラスな一枚となっています。

午後になると雲 が出て来るので、必死に歩いたつもりなのですが浜石岳で見た時よりも、雲が煙の様に流れていました。

                            

主な目的のコースは歩いたので、薩埵峠を下ってからは観光客気分でノンビリ。

坂を下って由比宿の町並みが見えて来た。 13時 20分。

下り切った左手には「一里塚跡」の石碑。 ここは日本橋から 40番目の西倉沢一里塚跡。

坂を下り一里塚跡の道の反対側には、間(あい)の宿「藤屋」という当時の茶屋がありました。  薩埵峠の東側登り口に位置していることから、一名を坂口屋といわれ、本来は藤屋と称して茶屋を営み磯料理、アワビ、さざえのつぼ焼きを名物としていたとのことです。         また、店内の部屋からは富士山の眺望が良いので「望嶽亭」とも呼ばれ文人墨客が好んで休憩をされたようです。

明治天皇御小休所「柏屋」                                          江戸時代から間の宿にあって、柏屋と称して茶屋を営んでいたそうです。                   明治元年(1868)及び 11年(1878)、明治天皇ご行幸のみぎりは、御小休所に当てられた茶屋であったとのことです。

由比宿の町並み  

(あい)の宿 川島家                                                   西倉沢は薩埵峠の東坂登り口に当たる「間の宿」で、十軒ばかりの休み茶屋があって旅人は ここで茶を飲み、疲れを癒し駿河湾の風景を賞して旅立って行かれたとのことです。            ここ川島家は、江戸時代 慶長から天保年間およそ 230年間、代々「川島勘兵衛」を名乗り、間の宿の中心をなし、大名も ここで休憩したので村では本陣と呼ばれ、西倉沢村 名主も務めた旧家であったそうです。(右手の平屋の建物です。)

住民の方が生活されており、長野県の妻籠宿奈良井宿の様に宿場全体が当時のままの町並みではありませんが、史跡名勝が沢山見られました。

由井宿場町の途中から見えた富士山、東名高速道路、国道バイパス、東海道本線。      東海道の「親知らず」、海に山が迫った狭い場所に日本の大動脈がひしめき合っています。

小池邸                                                   小池家は江戸時代、代々 小池文右衛門を襲名し寺尾村の名主を代々務めてまいりました。   名主は年貢の取立て・管理、戸籍事務、他村・領主との折衝等、村政全般を扱い、村役人の中でも、最も重要な役割を担っていたとのことです。

この建物は明治時代の建立ですが、大戸・くぐり戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、平成 10年(1998)に国の登録有形文化財に登録されたそうです。

東海道の賑わいと共に発展した由比町は、空襲に遭わなかったこともあり、東海道の宿場町の中でも比較的 江戸の面影を今に伝える建物が多く残っています。

                                                    桜エビ、しらす漁の他、温暖な気候を生かした夏ミカンやオレンジなどの柑橘類やビワの栽培が盛んに行われています。

計画通り、由比駅~浜石岳~薩埵峠~由比宿~由比駅の周回コースを完歩し、13時55分、由比駅に無事到着しました。

 

 

         ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

 

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🏯 初夏の小田原城 🏯

2022年06月15日 | 日本の歴史

小田原城が初めて築かれたのは、大森氏が小田原地方に進出した15世紀中頃と考えられています。

16 世紀初め頃に戦国大名小田原北条氏の居城となり、 関東支配の拠点として次第に拡張されました。                                           豊臣秀吉の小田原攻めに備えて築造された、城下町を囲む延長9Kmに及ぶ総構の出現により、城の規模は最大に達しました。

北条氏滅亡後、徳川家康の家臣大久保氏が城主になると、石垣を築くなど北条氏の城郭に改修の手を加えます。しかし、大久保氏が改易されると城は破却されます。            その後、寛永9年(1632)に稲葉氏が城主になると大規模な改修工事が実施され、城の姿は一新します。

 

稲葉氏三代の後は、再び大久保氏が城主となり、地震や富士山の噴火による被害を乗り越えて、小田原城は関東地方の防御の要衝として幕末まで存続しました。

                     

小田原駅の東西自由通路を東口に出ますと南側に小田原城を望むことが出来ます。

東海道五十三次の9番目の宿場町として栄えた小田原宿であり、城下町としての雰囲気を楽しみながらお城に向かいます。

ノンビリ歩いても10分ほどで城址公園北側の入口に到着します。             本丸広場に向かい坂を登ると、覆いかぶさるように天守が見えてきます。

本丸広場から望む天守閣。

明治3年(1870)に小田原城は廃城となり売却された後、次々と解体されました。      城址は御用邸時代を経て地元自治体に払い下げられ現在に至っています。          現在の小田原城跡は、本丸・二の丸の大部分と三の丸土塁・総構・八幡山古郭の一部が国の史跡に指定されています。

本丸広場から南東側の常盤木門へ進みます。

常盤木門は江戸時代の本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも大きく堅固に作られていました。                                        元禄 16年(1703)の元禄地震で崩壊した後、宝永3年(1706)に多聞櫓と渡櫓から構成される桝形門形式で再建されましたが、明治3年(1870)の小田原城廃城の際に解体撤去されたようです。   

                                           常盤木とは常緑樹のことで、松の木が常に緑色をたたえて何十年も生長することになぞらえ、小田原城が永久不変に繫栄することを願って常盤木門と名付けられたといわれています。

 

常盤木門を抜け階段を下ると、本丸東堀に架かる常盤木橋(赤い橋です。)を渡り二の丸広場に出ます。

江戸時代の小田原城本丸の周囲は堀に囲まれていました。                      本丸東堀は発掘調査の結果、幅 20m以上の規模を持つ水堀で現在よりも5m以上深さがあったようです。

本丸に出入りするには、この常盤木橋を渡り常盤木門から入るルートと、北側に位置する相生(あいおい)橋を渡り鉄(くろがね)門から入るルートがあり、こちらの常盤木門から入るルートが正面入口であったようです。

 

 

御茶壺曲輪から見た銅(あかがね)門。

現在の銅門は昭和 58年(1983)から行われた発掘調査や古写真、絵図などを参考に、平成9年(1997)に復元されたものです。

銅門は小田原城二の丸の表門で、南側の馬屋曲輪やお茶壷曲輪は住吉堀によって隔てられています。江戸時代には馬出門土橋(現在のメガネ橋)から城内に入り、銅門を通って二の丸御殿や本丸、天守閣へと進むようになっていたようです。

 

正面入口のメガネ橋を渡ると見える一番最初の馬出門。

三の丸から二の丸に向かう大手筋(正規登城ルート)に位置する門になります。

今回は正規登城ルートの逆を歩いてみました。                           メガネ橋を渡り、お堀端通りからお堀越しに隅櫓と天守閣を遠望しました。

の時期も素晴らしい小田原城址公園であります。

 

 

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🕊 沖縄の日本復帰50年 🕊

2022年05月18日 | 日本の歴史

1972年5月15日、沖縄の日本復帰。

天皇陛下のお言葉より (抜粋)                                     沖縄には、今なお様々な課題が残されています。                          今後、若い世代を含め、広く国民の沖縄に対する理解が更に深まることを希望するとともに、今後とも、これまでの人々の思いと努力が確実に受け継がれ、豊かな未来が沖縄に築かれることを心から願っています。

復帰時の『沖縄を平和の島とする。』という目標が『復帰から50年経ってなお達成されていません。』

 

米軍嘉手納基地から約2Kmの自宅で幼少期を過ごされた河野立子さんが、沖縄復帰時、小学5年生だった時の詩が朝日新聞に掲載されました。

私のねがい

復帰は

パスポートなしで

本土への行き来ができる

算数の本に出ているような

円生活に入る

 

1ドルは308円にかわり

お店では

今、わたしの着ている

7ドルのスカートが

2156円になる

お米が

バナナが

ノートが

何でもかんでも

×308

きっと、頭が

こんがらがるだろうな

 

毒ガス

ばく音

ひきにげ

B52

苦しかった沖縄

 

復帰で

沖縄はほんとに

すくわれるだろうか

沖縄には

日本復帰で

平和になりたいという

強い強いねがいがある

 

日本の人々よ

それに答えて

沖縄を

平和な県にしてほしい

 

子供が米軍関係の事件事故に巻き込まれる現実を訴えたかった。               でも、50年経っても危険と隣り合わせの『普通じゃない暮らし』は現在進行形でした。

と少しも変わらない現状を河野さんは語られています。

国が沖縄に基地負担を強いる構図は復帰後、歴代の自民党政権でも変わっていない。     ただ、過去には沖縄の苦難の歴史に思いを馳せ、対話を重視した政権も有った。       しかし、安倍政権以降、移設問題と沖縄の振興予算を「アメとムチ」のように絡めるなど、対話の姿勢は消えてしまいました。                                   日米地位協定の「見直しの検討」についても自民党は拒否の意向のようです。

「聞く力」をアピールする岸田政権は、首相や松野博一官房長官が地元住民らと車座対話を重ねるなどしているが、沖縄県側が求め続ける日米両政府と県による三者協議には応じていません。

現政権では、「アメとムチ」を使い分けながら沖縄に押し付けて行くように思えてなりません。

 

     ※ ご覧頂き、ありがとうございます。

 

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🏯 石垣山一夜城 🏯

2021年05月11日 | 日本の歴史

豊臣 秀吉が一夜のうちに城が出現したかのように見せかけたとの伝承から『石垣山一夜城』とも呼ばれています。 エッ 一夜で  

『小田原城を遮(さえぎ)る大樹を悉(ことごと)く切る。小田原城中より是を見て、笠懸山に附城一夜に成就せるに驚く』や 『面向きの松の枝ども切りすかしければ、小田原勢 肝をつぶし、こはかの関白は天狗か 神か 、かように一夜の中に見事なる館 出来けるぞや』「大三川志」や 「北条記」に記され、後の一夜城伝説を生んだとのことです。

才知と算勘の能力を生かして、草履取から次第に出世した豊臣 秀吉は織田 信長に仕えて活躍。

信長の後継者となり天下統一を進めた。                                     四国・九州を平定した後、東国の攻略に乗り出し、容易に従わない北条氏を討ち滅ぼすべく、諸大名に命じ大軍を率いて関東に攻め入った。

小田原北条氏を攻めることを決意した関白豊臣 秀吉は、天正18(1590)年3月1日に京都を発し、4月6日に箱根町の早雲寺に本陣を構え、その日のうちに笠懸山(石垣山)に登って小田原城を眺望しました。

周囲9Kmにわたり、壮大な堀と土塁で周囲を囲んだ小田原城を力攻めにするのは難しい と判断した秀吉は、長期戦の構えでこの場所に城を築城することを決めたとのことです。

普請は急ピッチで進み、5月14日には石垣ができあがって広間・天守などの作事に差し掛かる段階にあったことを、秀吉は妻の北政所(ねね)に手紙で知らせています。         6月9~10日には奥州の雄、伊達 政宗が普請中の石垣山で秀吉に伺候(しこう)したようです。

その時 政宗は前日には無かった白壁を「紙を貼ったもの」と見破り、秀吉を初めとする諸将に賞賛されています。(木村宇右衛門覚書)                                 そして6月26日、秀吉は本陣を早雲寺から石垣山に移しました。

築城については『聚楽又は大阪の普請を数年させられ候に不相劣様』と、聚楽第や大阪城に勝るとも劣らない普請工事であったことを秀吉自身が書状にしたためており、秀吉入城までに3ヶ月の築城期間を要した関東唯一の豊臣 秀吉の城郭です。

一夜城伝説の真意はともかく、人員を大量動員して築城を可能とする秀吉の権威と財力が、小田原北条氏が降伏する決定打となったようです。

小田原北条氏は、臣従を迫る豊臣 秀吉と交渉を続ける一方、小田原城をはじめ諸城を強化し、総動員態勢を整え、特に小田原城に城下の街ごと囲む全長9Kmに及ぶ長大な総構を構築し、決戦に備えていた。                                                結果的に交渉は決裂。                                                小田原北条氏は、国境線を固めると共に小田原城に主力を投入、更に領内100ヵ所以上に及ぶ支城の防備を固めて防衛体制を整えた。

小田原城の攻略に当たり、十分な兵糧・資金を用意して長期戦の構えで臨む秀吉は、壮大な石垣山一夜城に淀殿や参陣諸将の女房衆召し寄せ、また千利休らの茶人や芸能者を呼ぶなど長陣の労を慰めた。

豊臣方の軍勢は水陸あわせて約22万。                                 徳川 家康らを先鋒とする秀吉の本隊は東海道、前田 利家・上杉 景勝率いる北国勢が上野(こうずけ)国(群馬県)から北条氏の領国に侵攻。                                 長宗我部(ちょうそかべ)元親・九鬼 嘉隆らの率いる水軍が兵員・物資を搬送し、海上封鎖に従事した。

                                           総構により中世最大の規模を誇った小田原城には、約6万とも伝わる人々が籠り、豊臣 秀吉・徳川 家康をはじめ、織田 信雄・蒲生 氏郷・羽柴(豊臣)秀次・宇喜多 秀家・池田 輝政・堀 秀政など、名だたる戦国の英雄を迎え撃ち、3ヵ月余りに及ぶ攻防戦を展開した。

小田原北条方は、各地の諸城に籠って防戦し、機会を見て反撃に転じる作戦であったが、主力の籠る小田原城を封鎖されたまま各地の支城を撃破され 、次第に孤立していった。

天正18年7月に至り北条 氏直は城を出て降伏を申し入れ、自らの命と引き換えに籠城した一族・家臣や領民らの助命を願い出る。                                          この行動に秀吉は感嘆し、氏直の父 氏政とその弟 氏照には切腹を命ずるが、氏直の命は助け高野山への追放とした。ここに戦国大名 小田原北条氏は滅亡した  

石垣山一夜城の二の丸(馬屋曲輪)は、本丸(本城曲輪)と並んで最も広い曲輪で、中心部分と北へ長方形に張り出した部分及び東の腰曲輪部分の三つの部分からなっています。 

『新編相模国風土記稿』では二の丸として紹介されているようですが、伝承によれば馬屋が置かれ、本丸寄りには「馬洗い場」と呼ばれた湧水もあったようです。

井戸曲輪に行く道の直ぐ横には「櫓台跡」が残っています。

井戸曲輪は、もともと沢のようになっていた地形を利用し、北と東側を石垣の壁で囲むようにして造られています。

                                           こちらの石垣は特に当時の姿を留めている部分との事で驚きです。                                          井戸は二の丸から25mも下がった所にあり、今でも湧き出る水を見ることができます。

石垣山一夜城は、高い石垣で築かれた東国で最初の近世城郭とのことです。            石垣は、あまり加工されていない石を用いた野面積(のづらづ)みで、築城に際して西国から穴太衆(あのうしゅう)と呼ばれる石工集団が派遣されていたことが文書に記されているそうです。

 

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🏞 藤原範茂史跡公園 🏞

2021年05月03日 | 日本の歴史

鎌倉時代、公家(朝廷)が武家(幕府)への討幕の兵をあげ、朝廷の復権をめざした。

北条 義時が鎌倉幕府の執権の時に、巨大な軍事力を有していた後鳥羽上皇は朝廷の復権をめざして種々の政策を断行していった。                                         壮大な皇室荘園領を手中におさめた上皇は、その経済力で西国の武士や御家人たちを誘った。

後鳥羽上皇は勝気な性格で武芸を好み、盗賊逮捕の現場に加わり、自ら賊をねじ伏せたという伝説をもつほどの人物であったようです。

1219年、将軍 源 実朝が鎌倉で暗殺された。これにより、源氏将軍の血統は3代で絶えた。                                         幕府の実権は北条 義時が握っているとはいえ、将軍あっての北条氏であり、東国の武士すべてが北条氏に心服している訳ではなかった。                                 「いま突けば、幕府は崩壊する」・・・・。 

そう後鳥羽上皇は判断し、討幕の兵をあげることを決意。                             1221年、周到な準備のもと北条 義時追討の院宣(上皇又は法皇の命令を受けて出す公文書)を全国に下した。

畿内の御家人や西国武士が朝廷に味方したものの、東国武士は誰ひとり後鳥羽上皇の誘いに応じなかった。                                                 確かに鎌倉の御家人たちは院宣を受けてかなり混乱した。

だが、この時にあって武士たちの動揺を静め、彼らを一致団結させた女性がいた。          頼朝の妻で尼将軍といわれた北条 政子である。                                    彼女は御家人たちを一同に集め、次のように熱弁をふるったそうです。

『朝廷から差別され搾取され続けた武士たちを、現在の地位に引き上げたのはだれか。それは頼朝ではなかったのか。 その恩に報いるのは、まさに今である。                                                           もし朝廷に従う者あれば引き留めはしない。 申し出よ。                  ただし京都におもむく際には、私を斬り捨てて行きなさい。』                             

かくのごとき涙ながらの 訴えに、御家人たちは感じ入り、結束を固くして大軍で上方へ攻めのぼり、朝廷軍を打ち破ったのである。

一方、後鳥羽上皇は院宣の効力で、直ぐに幕府が崩壊するものだとたかをくくっていたため、大挙して上洛した幕府軍にあっけなく敗れ去った。                             後鳥羽上皇は捕縛されて隠岐へ流され、1239年、同地で死去した。

前記の争いが承久3(1221)年《承久の乱》といわれています。

この戦乱の結果、朝廷と幕府という公武の二元政治が終焉し、武家の全国政権がついに確立されたとのことです。

この戦乱後、上皇側の公卿(くぎょう)で参議であった藤原 範茂(のりしげ)卿はとらえられて京都から鎌倉に送られる途中、足柄峠を越えて関本に至り、明日はいよいよ鎌倉です。                            着くと、そこで首を切られてしまいます。

この頃、仏教の考え方では、首と胴が離れてしまった者は極楽に行けないというのです。   範茂卿は役人に頼み近くの清川(現在の貝沢川)で死なせてもらうことにしました。      着物のたもとや、ふところに石を入れ、清川をせき止めて入水し最後をとげたとのことです。

役人たちも哀れに思い高台に葬りました。                            それが、この宝篋印塔(ほうきょういんとう)のある場所です。

辞世の歌に

     思いきや 苔の下水 せき止めて

           月ならぬ身の やどるべきとは

                      と残されています。

 

                  ※参考図書「早わかり日本史」河合 敦著

 

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🏯 河村城址 🏯

2021年01月21日 | 日本の歴史

山北駅の南側の小高い山(浅間山)が城跡で昨今城跡調査が行われ畝堀や郭(くるわ)、姫の井戸などのほか橋の復元がされ、綺麗に整備されています。

                                           河村城跡が位置するこの地は城山と呼ばれ、北に現在の御殿場線辺りを江戸時代中頃まで流れていた皆瀬川、南を酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害とも言うべき地形に当時はなっていました。

                                           城山の標高は約 225mで酒匂川との比高差は約 130mあり、東へ浅間山・丸山と連なる独立丘陵状をなしている。

河村城の周辺では、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することから、数多くの城砦群が築かれている。                                                  甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢城・中川城・大仏城山・新城・鐘ヶ塚砦が、駿河から箱根山地・足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、更に足柄平野縁辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通の要衝に位置している。

河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族 波多野 遠義の次男 河村 秀高によって築かれたと伝えられている。

                                            秀高の子 義秀は、源 頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領 河村郷に復帰できたと「吾妻鏡」に記されているとのことです。

                                                  神奈川県指定無形民俗文化財『室生神社流鏑馬』は、これに由来すると言われています。

建武の中興・南北朝時代と河村氏は松田氏と共に南朝側の新田氏に協力し活躍するが、北朝側の足利 尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村 秀国・秀経らは新田 義興・脇屋 義治と共に河村城に籠城する。

正平7~8年(1352~53)にかけて、畠山 国清を主将とする足利 尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ、新田・脇屋らは中川城を経て甲州に逃れたと「太平記」にあるそうです。

当時の河村城については、「管領記」に『山嶮にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし』とあるように、難攻不落の堅城であったことが伺えます。                       また、籠城戦の様子については河村氏の菩提寺とされている岸の般若院所蔵の「梅風記」に詳しく記されている。

南原の戦い後、河村城は畠山 国清・関東管領 上杉 憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれていく。

戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城と共に小田原城の支城として河村城を重視し、特に元亀年間には河村城の補強を行ったことが「相州古文書」に見られるそうです。

その後、武田氏との間で周辺の諸城と共に争奪戦を繰り返し、天正18年(1590)豊臣 秀吉の小田原征伐で落城、廃城となったと考えられるが、これらを伝える史料は残っていないとのことです。

河村城の規模・郭(くるわ)配置については、「新編相模風土記稿」及び堂山の鈴木 友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が良いため、現地でも概略の位置は確認できる。

大庭郭から見た箱根方面  (中央の小さなピークが金時山、左のなだらかな稜線は明神ヶ岳)

                                           急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分に生かした郭配置がなされており、大きく3つの尾根を堀切によって郭となしている。

                                           小社のある所を本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭(くらぐるわ)・近藤郭・大庭郭・同張出部を配しており、絵図によっては張出部の南端を大手としている。 

                                           毎年11月3日に流鏑馬が行われる室生神社 

                                                            建久元年の頃、当時の領主 河村 義秀が鎌倉に於いて流鏑馬を披露し、その見事さに反逆の罪を免ぜられたことに始まると伝わっています。その後、農民によって受け継がれ豊作を占う神事として現在も行われています。

                                             本城廓と北郭の間には馬洗場、小郭と茶臼郭の間に御姫井戸の伝承地があり、涌水が有ったと考えられている。

 

 

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🏯 懐古園 🏯

2019年12月20日 | 日本の歴史

小諸なる 古城のほとり                                              雲白く 遊子悲しむ                                         緑なす 蘩蔞(はこべ)は萌えず 

                                              若草も 藉(し)くによしなし                                       しろがねの 衾(ふすま)の岡辺                                            日に溶けて 淡雪流る 

   

 あたゝかき 光はあれど                                     野に満つる 香(かおり)も知らず                                              浅くのみ 春は霞みて

                                           麦の色 わづかに青し                                                 旅人の 群はいくつか                                     畠中の 道を急ぎぬ

 

暮れ行けば 浅間も見えず                                                 歌哀(かな)し 佐久の草笛                                       千曲川 いざよふ波の

                                           岸近き 宿にのぼりつ                                      濁り酒 濁れる飲みて                                          草枕 しばし慰む

※遊子=旅人、  ※衾=一面に降り積もった雪、  ※草枕=旅先での寂しい宿り

『千曲川旅情の歌』『初恋』が入っている第一詩集❝若菜集❞ではなく、第四詩集❝落梅集❞に入っています。

 

                                                  早春の頃であるのに、いまだはこべ、若草と、野に満つる香は見当たらない。その早すぎる春を悲しんでいる。                                                                                                                青春の終わりを渋く味わうための詩のようです。

二十代終わりの藤村は落ち着きがでて、濁り酒を一人呑むほどに渋くなっていたようです。  このころ藤村は、長野県の小諸で教師として七年間過ごした。

明治 32年(1899)4月初旬、旧師「木村熊二」の経営する小諸義塾に英語・国語の教師として赴任し、5月 巌本善治の媒酌により函館の秦 冬子と結婚、小諸町馬場裏に新家庭をもった。                                                                                                                                                               明治 33年 4月、「旅情」(小諸なる古城のほとり)を雑誌『明星』に発表。                5月長女 緑が生まれ父となる。

木村熊二先生のレリーフ

                                           明治 34年 8月、詩集「落梅集」を刊行。翌年3月次女 孝子が生まれる。                           11月、「旧主人」・「藁草履」を。以後「爺」・「老嬢」・「水彩画家」・「椰子の葉蔭」等を発表。                                                                                                       明治 37年 4月、三女 縫子生まれる。

 

明治 38年 4月 29日、小諸義塾を退職し 7年間に渡る小諸生活に別れを告げ、執筆途中の「破戒」の原稿を携えて家族と上京。                                          翌年 3月、「破戒」を自費出版した。

 

 

 

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☆ 新元号 ☆

2019年04月01日 | 日本の歴史

平成に代わる新しい元号は、奈良時代に完成した日本に現存する最古の歌集「万葉集」を典拠とした令和れいわ)に決まりました。

 

七世紀の「大化」から始まり248番目の元号にあたります。

墨書は 内閣府人事課の辞令専門職、茂住 修身(もずみ おさみ)氏が書かれたものです。《菅義偉(すがよしひで)官房長官》

「平成」の時は小渕 恵三官房長官が「平成」とテレビで発表されたのを見て知りましたが、今回のようにそれほど話題にならなかった気がします。                                  私が無関心であったからかもしれません。

新元号『令和』は登山をご趣味とする皇太子徳仁(なるひと)親王」さまが新天皇に即位する 5月1日に施行されます。

「令」の字が使われるのは初めてで、「和」は 20回目だそうです。

 

政府が 4月1日に開いた有識者 9人による「元号に関する懇談会」には 6つの原案が提示されたとのことです。

英弘(えいこう) 久化(きゅうか) 広至(こうし) 万和(ばんな) 万保(ばんぽう) 令和(れいわ)

上記 6案のうち三つの典拠は国書で「令和」の典拠であった万葉集のほか、日本書紀に基づいたとのことであります。                                                       残る 3案の典拠は中国の古典(漢籍)より考えられたようです。

 

典拠となった万葉集は 20巻からなり、約 350年間にわたって詠まれ約 4500首を集めています。                                                                                                                                                     額田王、柿本人麻呂、山上憶良ら代表的な歌人のほか、天皇から防人、無名の農民に至るまで幅広い歌人が含まれ、地方の歌も多くあります。

 

令和」の典拠 

出典                                                                 「万葉集」巻五、梅花の歌三十二首併せて序

 

引用文                                                             初春月、気淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香

 

書き下し文                                      初春の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひら)き、蘭は珮後(はいご)の香(こう)を薫らす

 

現代語訳(中西進著「万葉集」から)                                     時あたかも新春の好き月、空気は美しく風はやわらかに、梅は美女の鏡の前に装う白粉のごとく白く咲き、蘭は身を飾った香の如きかおりをただよわせている。

 

歌人                                                     大伴 旅人(おおとものたびと)が太宰府長官時代に宴会を開いた時につくられた歌

 

新元号の決定に至るまで                                    「元号に関する懇談会」に出席の有識者 9人の先生方のお名前を公表することは決してございませんと政府は伝えましたが、新元号が発表された翌日(4月 2日)の新聞には写真と名前が掲載されていました。

                                                  また、政府は発表前に新元号が漏れないよう神経をとがらせ、会議室内の盗聴を防ぐため机の裏や植木の中まで確認し、有識者や閣僚らから携帯電話を預かることまでしたようです。

 

テレビ・新聞で何気なく見ていますが、沢山の有識者の先生方の意見があったり、いち早く新元号を知り発表しようとする人がいますので、決められた日に発表することは大変なのですね。

 

新天皇ご即位  

 宮殿のベランダより、一般参賀に集まった人たちに手を振る天皇、皇后両陛下 

 天皇が生前に交代したのは、実に 202年ぶりとなるとのことです。 

 

 

 

  

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