素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🏯 河村城址 🏯

2021年01月21日 | ジオパーク

山北駅の南側の小高い山(浅間山)が城跡で昨今城跡調査が行われ畝堀や郭(くるわ)、姫の井戸などのほか橋の復元がされ、綺麗に整備されています。

                                           河村城跡が位置するこの地は城山と呼ばれ、北に現在の御殿場線辺りを江戸時代中頃まで流れていた皆瀬川、南を酒匂川によって周辺山地と分断された自然の要害とも言うべき地形に当時はなっていました。

                                           城山の標高は約 225mで酒匂川との比高差は約 130mあり、東へ浅間山・丸山と連なる独立丘陵状をなしている。

河村城の周辺では、相模・甲斐・駿河三国の境界線が交錯することから、数多くの城砦群が築かれている。                                                  甲斐から城ヶ尾峠を越えると湯ノ沢城・中川城・大仏城山・新城・鐘ヶ塚砦が、駿河から箱根山地・足柄峠の尾根筋を下ると足柄城・阿弥陀尾砦・浜居場城があり、更に足柄平野縁辺部には松田城・沼田城などがあるが、なかでも河村城は甲斐・駿河から足柄平野に至る交通の要衝に位置している。

河村城の築城は古く、平安時代末期に秀郷流藤原氏の一族 波多野 遠義の次男 河村 秀高によって築かれたと伝えられている。

                                            秀高の子 義秀は、源 頼朝の石橋山挙兵の際、平氏方に属したため領地を没収されるが、建久元年(1190)鎌倉での流鏑馬の妙技により、本領 河村郷に復帰できたと「吾妻鏡」に記されているとのことです。

                                                  神奈川県指定無形民俗文化財『室生神社流鏑馬』は、これに由来すると言われています。

建武の中興・南北朝時代と河村氏は松田氏と共に南朝側の新田氏に協力し活躍するが、北朝側の足利 尊氏らによって鎌倉が攻められると、河村 秀国・秀経らは新田 義興・脇屋 義治と共に河村城に籠城する。

正平7~8年(1352~53)にかけて、畠山 国清を主将とする足利 尊氏軍と戦火を交えるが、南原の戦いで敗れ、新田・脇屋らは中川城を経て甲州に逃れたと「太平記」にあるそうです。

当時の河村城については、「管領記」に『山嶮にして苔滑らかに人馬に足の立つべき処もなし』とあるように、難攻不落の堅城であったことが伺えます。                       また、籠城戦の様子については河村氏の菩提寺とされている岸の般若院所蔵の「梅風記」に詳しく記されている。

南原の戦い後、河村城は畠山 国清・関東管領 上杉 憲実を経て大森氏の持城となったと考えられ、その後相模に進出してきた小田原北条氏に受け継がれていく。

戦国時代、小田原北条氏は武田氏との攻防から、前記の各城と共に小田原城の支城として河村城を重視し、特に元亀年間には河村城の補強を行ったことが「相州古文書」に見られるそうです。

その後、武田氏との間で周辺の諸城と共に争奪戦を繰り返し、天正18年(1590)豊臣 秀吉の小田原征伐で落城、廃城となったと考えられるが、これらを伝える史料は残っていないとのことです。

河村城の規模・郭(くるわ)配置については、「新編相模風土記稿」及び堂山の鈴木 友徳氏所蔵絵図に見ることができるが、遺跡の保存状態が良いため、現地でも概略の位置は確認できる。

大庭郭から見た箱根方面  (中央の小さなピークが金時山、左のなだらかな稜線は明神ヶ岳)

                                           急な斜面と入り組んだ谷を持つ地形を充分に生かした郭配置がなされており、大きく3つの尾根を堀切によって郭となしている。

                                           小社のある所を本城郭とし、東の浅間山に連なる尾根に蔵郭(くらぐるわ)・近藤郭・大庭郭・同張出部を配しており、絵図によっては張出部の南端を大手としている。 

                                           毎年11月3日に流鏑馬が行われる室生神社 

                                                            建久元年の頃、当時の領主 河村 義秀が鎌倉に於いて流鏑馬を披露し、その見事さに反逆の罪を免ぜられたことに始まると伝わっています。その後、農民によって受け継がれ豊作を占う神事として現在も行われています。

                                             本城廓と北郭の間には馬洗場、小郭と茶臼郭の間に御姫井戸の伝承地があり、涌水が有ったと考えられている。

 

 


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⛰ 懐かしの至仏山 ⛰

2021年01月16日 | 日本百名山

至仏山(標高 2228m)は尾瀬ヶ原を挟んで燧ケ岳と対峙する尾瀬のシンボル的存在の山です。

(2017年7月15日撮影)

至仏山は高山植物の宝庫としても名高く、小至仏山から至仏山に至る稜線には、固有種を含め色とりどりの可憐な花々が咲き競っています。                                   ホソバヒナウスユキソウに代表される希少な植物は、至仏山の基盤となる蛇紋岩に起因すると考えられています。

登山道は鳩待峠の北端、尾瀬国立公園の看板が立つ左の角にある。

                                                ブナやダケカンバなど広葉樹林の中を緩やかに登って行く。                         時々、溝状に掘られたところを歩くが、登山道は良く整備されており歩き易い。         登り始めは展望の利かない道だが、2~30分進むとオオシラビソの針葉樹とダケカンバの入り混じった混交林に変わってくる。

                                           以前は笹を切り開いた道で歩きにくかったが、今は木道が敷かれて、ずっと歩き易くなっている。

                                           視界が開けて原見岩(トカゲ岩)と呼ばれる大岩のある湿地状の一面にお花畑が広がっている。

お花畑を登ると、目指す至仏山の頂上部が樹林越しに望める。                      オヤマ沢源流の細い流れを越えて行くと、池塘のある湿原オヤマ沢田代に出る。

                                            燧ケ岳や日光白根山などの日光連山、正面には岩峰の小至仏山など眺望は最高である。         湿原を歩いて樹林の中に入り、笠ヶ岳への分岐を直進し尾根の右側を回り込むように登ると、ベンチのある小至仏山直下のお花畑に出る。

                                           本来は尾瀬ヶ原や燧ケ岳の眺めが最高の場所であるが、この日は雲が低く薄っすらとしか見ることができず、非常に残念であった。

小至仏山へは木の階段を登り、滑り易い蛇紋岩の岩尾根を慎重に歩き進める。

尾根の右側を巻いて進み、ひと頑張りで標高 2162mの小至仏山に到着。

ホソバヒナウスユキソウが見られた。

目的の至仏山山頂へは尾根の左側、砂礫の登山道を緩やかに下って登り返して進む。

                                            7~8月は高山植物が咲き競い登山者の目を楽しませてくれるのだが、この年は7月でも残雪が多く、咲き競うというほどでもなかった。

道はいつしか広い台地状の上を歩くようになり、振り返ると今通過して来た小至仏山や笠ヶ岳を眺めることができた。

砂礫の道が終わると歩きにくい露岩帯の道となり、足元に注意しながら至仏山を目指す。

                                           尾根の左側に下って登り返せば至仏山山頂に到着。鳩待峠から3時間50分でした。

                                           山頂には、周りの山々の展望表示盤と二等三角点があり、さえぎる物が無く眺望は最高である。復路は往路を戻るピストンで、山頂付近の蛇紋岩は表面がツルツルし滑り易いので、下りでは特に足元に注意して慎重に下った。

 

 

コメント (4)
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