素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

🌟 六千人の命のビザ 🌟

2021年09月03日 | 偉人

『六千人の命のビザ』はリトアニア大使館に勤務していた外交官「杉原千畝」氏の夫人が書かれた本のタイトルであります。

「命のビザ」は第二次世界大戦下でリトアニアにいた外交官『杉原千畝(ちうね)』に助けを求めて領事館を囲んだユダヤ人難民に、日本通過ビザを杉原氏は独断で出国ビザを発給し続けた。

杉原千畝の画像

妻『幸子(ゆきこ)』氏の書かれた「六千人の命のビザ」の中に杉原氏の言葉が有ります。

私を頼ってくる人々を見捨てる訳にはいかない。でなければ私は神に背く。

杉原氏の行為が心を打つのは、人としての倫理観がそこにあるからであります。

                      

米国がアフガニスタンから撤退して、僅か一週間ほどでイスラム主義勢力タリバンによって制圧されてしまいました。

アフガニスタンの首都カブールの空港から一刻も早く脱出しようと、我先にと飛行機にしがみつく人々の姿をテレビで見ました。地獄絵の様な光景でした。

アフガニスタン駐在の英国大使ブリストウ氏は、部下の大使館員たちが出国した後もカブールに残り、通訳など英国に協力してきたアフガニスタン人らに出国ビザを発給し続けたそうです。 そして英国軍と共に最後に帰国したとのことです。

日本政府はカブール陥落から8日後の8月23日、輸送機や自衛隊員の派遣を決定した。    実際に国外へ移送できたのは、米国から依頼された旧政権の政府関係者ら14人のアフガニスタン人と、退避対象者1人だけだったようです。                                自衛隊機もカブールに向かったが、現地スタッフやその家族ら500人の退避は出来なかった。

また別の英国軍機で、日本人大使館員12人は早々にアラブ首長国連邦に退避していた。   まだアフガ二スタン国内に邦人や関係者が多数残っているにもかかわらずである。

残されている、日本のために活動されていた皆様を早期に確実なる退避ができるよう日本国政府は外交を通じて全員救出の努力を続けて欲しい。

外交官杉原千畝氏の業務遂行は大使館員の鏡であります。                 今回の大使館員の行動は日本国民の安全を守るほか大きな災害が発生した場合は、その国の支援を行うことも含まれるようで、その辺が果たされなかったように思います。

 

戦後、杉原氏はイスラエル政府より受勲されています。

ただ、今の日本政府は衆議院選挙や自民党総裁選などを最優先とし、有事のコロナやワクチン接種の遅れ、医療崩壊などガタガタであり、わが身大切な政治家集団では、救出は非常に厳しい。

 

   ※ご 訪問、ありがとうございます。

 

コメント (4)
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🐾 大磯散策 🐾

2019年02月24日 | 偉人

 

大磯随想・世界と日本 (中公文庫プレミアム)
吉田 茂

中央公論新社

 

名士の保養地としての歴史を持つ、❝大磯❞を散策しました。                        町の北西部には東海道新幹線と小田原厚木道路が走り、南部には東海道本線と国道 1号線が走り、現在の町は三分割された状況です。

古代は豪族「師長国造」(しながこくぞう)の支配領域であった。                           律令体制の整備に伴い相模国の餘綾(よろぎ)郡に属した。町東部には高句麗(こうくり)からの渡来人が移り住んだ歴史があり、高麗(こま)山・高来(たかく)神社・唐ケ原などの名称は彼らに由来するとされています。                                                  中世に相模国の国府が置かれていた。                                    江戸時代には東海道の宿場町として栄え、近代以降は温暖な気候により保養地として注目され、ドイツ人医師「ベルツ」により紹介されていた 海水浴 を普及させるための適地を探していた陸軍軍医総監「松本 順」により海水浴場として開かれた。

大磯駅前洋館    平成 24年 9月 13日に指定された景観重要建造物(旧木下家別邸)

明治中期から昭和初期に要人の避暑・避寒地として邸宅や別荘が多く建てられた。      特に伊藤博文、吉田茂のそれは特に有名である。                                                                          この他に山縣有朋や西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎といった政財界要人の別荘が立ち並んだ。

次に駅から国道 1号線を渡り、父の仇を討ったことで名高い曽我兄弟のいわれある宮経山「延台寺」寄りました。

                                           兄弟は伊豆の豪族 河津三郎祐泰(かわづさぶろうすけやす)の子。                          兄は十郎祐成(すけなり)、弟は五郎時致(ときむね)                                    1176(安元 2)年 父 祐泰が伊豆の奥狩場で工藤 祐経に殺されたのち、母が曽我 祐信に再婚したので曽我氏を称した。

                                           この延台寺には、曽我十郎祐成を賊の矢から防いだ「虎が石」といわれる身代わり石や曽我兄弟の木像が法虎庵曽我堂に安置されています。                            石の上には綺麗に刺繍された赤い布で覆われて見えませんでした。

次は延台寺にほど近い、船着山「地福寺」(じふくじ)真言宗東寺派のお寺に立ち寄りました。  境内には香り良い紅梅・白梅が咲き誇り、その下に文豪『島崎藤村』夫妻のお墓がありました。藤村の本名は春樹。生まれは岐阜県中津川市馬籠、旧中山道の馬籠宿で本陣、庄屋、問屋を兼ねた島崎 正樹の四男として生まれました。

                                           大磯には旧島崎 藤村邸があります。小さい素朴な冠木門(かぶきもん)と割竹垣に囲まれた小庭に建てられた三間の平屋民家。 ~余にふさわしき閑居なり~ 

                                           大磯がお気に入りで「この書斎を離れる時は自分がこの世を離れる時だ。」と云っていたそうです。 馬籠の永昌寺に分葬されているとのことです。

                                            ❝夜明け前❞ 「木曽路はすべて山の中である」で始まる長編小説は有名ですね。

地福寺より国道1号線を二ノ宮よりに進み、新島 襄(1843~1890)終焉の碑へ。

                                           教育家である「新島 襄」は以前から大磯に来たいと思っていたようで、明治 22年(1889)11月病に倒れたのを機に知人の勧めもあり、同年 12月 28日大磯で静養し再起を計ることにした。                                           海岸にほど近い百足屋(むかでや)旅館の松林に囲まれた別館の愛松園にて再起の希望を持ち静かに療養していたが、明治 23年(1890)1月 20日 危篤に陥い、妻の新島 八重も東海道線で京都から大磯にやって来た。

                                          『グットバイ、また会わん』襄が八重に送った最後の言葉だそうです。                  1月 23日午後2時 21分、46歳 11ヶ月の生涯を閉じ、大磯が終焉の地となった。        終焉の碑は門下生が集い、旧百足屋の敷地内に建てられた。                    襄は明治 8年(1875)京都府に同志社英学校を開設し、その後同志社大学設立を企画した。

 

次は更に二ノ宮よりに進み鴫立庵へ。

                                             西行法師の《心なき 身にもあはれは知られけり 鴫立沢の秋の夕暮》と詠まれた歌にちなみ、小田原の崇雪(そうせつ)が昔の沢らしい面影を残す景色の良いこの場所に石仏の五智如来像をこの地に運び草庵を結び、初めて鴫立沢の標石を建てたと言われています。

                                             京都の落柿舎滋賀の無名庵、と並び日本三大俳諧道場であります。

大磯中学校付近には旧東海道の松並木が残っています。その少し先に旧伊藤 博文邸滄浪閣があります。                                              この付近の国道 1号線と西湘バイパス間の松林の中には塀で囲まれていますが、別荘地「大磯」の雰囲気が感じられます。                                        伊藤 博文(1841~1909)は、初代内閣総理大臣であり、大日本帝国憲法を起草するなど、立憲政治の黎明期に大きな役割を果たした。                                   明治 29年に別荘を小田原から移転し、「滄浪閣」と名付けた。                                                     関東大震災後に再建された建物のうち、洋館と和館部分が当時の状況を留めている。                               別荘地大磯の代表的建物として、町の指定有形文化財となっています。

 

丁度、お昼の時間に旧吉田 茂邸に到着しました。

                                                 旧吉田邸は、明治 17年に吉田茂の養父「健三」が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和 19年頃から、その生涯を閉じる昭和 42年まで過ごされたそうです。                      銀の間(寝室兼書斎)ここで吉田は最後を迎えたそうです。

その住いは吉田 茂没後、西武鉄道(株)へ売却され、大磯プリンスホテルの別館として利用されていました。                                              ローズ ルーム (食堂)

                                              平成中頃より神奈川県や大磯町により近代政治史の歴史文化遺産とし旧吉田 茂邸の保存・活用が検討され、隣接する「県立大磯城山公園の拡大区域」として整備することになりました。   新館 2階からの眺望 

                                           しかし、計画検討の最中、平成 21年 2月本邸が火災で焼失してしまいました。            紅白梅と兜門   

                                                消失を免れた日本庭園や歴史的資源(兜門 ・七賢堂 など)、そして大磯丘陵に連なる貴重な緑地を保存活用するため、平成 21年 7月に都市計画に位置付けされ、県が公園整備を行い、旧吉田茂邸は大磯町が町有施設として再建しました。

この吉田邸には、政界引退後も多くの政治家が「大磯参り」を行い、またアデナウアー西独首相や当時の皇太子殿下夫妻などの国内外の要人が招かれたそうです。                    また、吉田 茂没後に大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されました。

 

こんな自分たちの身近な所に歴史に残る素晴らしい場所があった事に驚きました。

 

 


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🏡 旧吉田茂邸庭園 🏡

2015年09月23日 | 偉人

湘南風土と邸園文化継承、悠久の歴史を感じさせる、清閑なたたずまい” 

                                                                              明治31年(1898)、この地に三井財閥当主が別荘を構え、庭園の整備がなされた大磯城山(じょうやま)公園と国道1号線を挟んだ南側に旧吉田茂邸庭園があります。

明治17年(1884)に吉田茂の養父「吉田健三」が別荘を建てたのが始まりで、大磯の別荘の草分けでありました。                                                                                               養父健三没後、首相となった吉田茂は戦後、外国貴賓を招くために迎賓館的用途で昭和26年(1951)に建て替えを行いました。                                                                      約1万坪の敷地には芸術院会員「故吉田五十八」氏設計の二階建て延べ面積300坪の総檜造り純日本風の建物がありました。                                                                                          「吉田御殿」とも呼ばれ戦後の日本の政治を動かした多くの人達が「大磯詣で」をし、昭和54年(1979)大平首相とカーター米大統領の日米首脳会談が行われるなど歴史的に由緒ある建物でした。                                                   昭和42年(1967)吉田茂が亡くなってからプリンスホテルの所有となりました。           その後、平成18年(2006)神奈川県では旧吉田茂邸と大磯城山公園の一体整備方針が決まり、整備工事が進められていた矢先の平成21年(2009)3月22日に原因不明の出火により本邸が焼失してしまいました。

歴史的に重要な建物が焼失したことは、非常に残念なことでありますが現在、本邸の再建と庭園整備の工事が進められています。

サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも呼ばれ、軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれています。

                                                                           京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られ、屋根は「檜皮葺き」という伝統的技法が用いられており、焼失を免れた貴重な建築物です。

本邸宅は兜門を入り左手の小高い所にありますが、現在再建築中であります。

昭和36年頃に完成した日本庭園は、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式庭園です。                                  庭園設計者である中島 健は、数寄屋建築の本邸との調和やを愛した吉田茂の嗜好をふまえ、様々な草花やバラ、ツツジ類、ウメなどを多く取り入れ、色彩豊かな庭造りをされたようです。

当初の明治36年に伊藤博文が、明治維新の元勲うち「岩倉具視」(いわくらともみ)「大久保利通」(おおくぼとしみち)「三条実美」(さんじょうさねとみ)「木戸孝允」(きどたかよし)の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたものでした。                                         伊藤博文の死後、梅子夫人により伊藤博文を加えた5人が祀られ五賢堂となりました。

                                                                             昭和35年に吉田茂邸に移設され、昭和37年に吉田茂が西園寺公望(さいおんじきんもち)を合祀し、吉田茂の死後、昭和43年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され、現在七賢堂となっています。

                                                                           扁額は故佐藤栄作元首相の書です。

吉田茂の銅像は皇居北の丸公園、高知龍馬空港とここ大磯町の三カ所にあるとのことです。

                                                                                 大磯町の銅像は、昭和58年に地元の有志の方々によって建立されました。          サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けて設置されたと言われています。

 

 

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*二宮 金次郎*

2009年11月16日 | 偉人

本を片手に薪を背負った少年“二宮 金次郎”小学校の頃の記憶にあります。                                             戦後の貧しい時代に子供と言えども、家のために薪を集め、その傍ら勉学にも勤しむ。  これは戦後、子供の在るべき姿であったように思います。

薪を背負った少年像を、小学校で良く見かけるのは1928年、昭和天皇即位に祝賀の意を表したいと、兵庫県の県会議員「中村 直吉」氏が各地の報徳神社や小学校に寄付をされたのだそうです。

二宮 金次郎は天明7年(1787年)現在の小田原市栢山の裕福な農家に生まれ、安政3年(1856年)栃木県今市市にて70歳で他界されたとの事です。

生まれた頃は裕福でしたが、川の氾濫で田畑を失い、病の父の代わりに酒匂川の堤防工事に、非力な自分にも出来る事とワラジを作り工事の人々に差し出されたようです。

                                              その後、父は14歳の時に死去。                                                                                           母を助けて良く働き、勉学にも励んだ。がその母も16歳の時に死去。                              酒匂川が氾濫し、一家離散。金次郎は伯父「万兵衛」方に身を寄せたようです。

ある夜、明かりを灯して本を読んでいると伯父に怒られたのでした「お前は誰のおかげで、飯を食っているのだ。油がもったいない。」と。                               金次郎は空き地に菜種を植え、できた菜種と油を交換して本を読むのですが、また叱られました。「百姓に学問はいらない」と。                                   それから始まったのが、薪を背負い歩きながら本を読む姿のようです。

25歳になって、伯父の家から独立し、実家の再興に取り掛かり、勤勉と倹約に努め以前のような裕福な家に再興しました。                                                                                     それを知った小田原藩士「服部家」に財政の建て直しを依頼され着手、これに成功を治めました。                                                                                                                              31歳では藩主「大久保 忠真」より、その功績を表彰され、さらに世の人のために尽くそうと決意をしたようです。

35歳の時には、服部家での手腕を見込まれ小田原藩の分家にあたる桜町領(栃木県二宮町)の復興のため、栢山の資産を処分し栃木に移転。

この桜町領を再興する時に、武士の位を授けられ二宮尊徳となりました。

二宮尊徳翁は、ものの見方・考え方として勤労、分度、推譲を多くの人々に勧めました。                                         勤労とは、徳に報いるために働く。                            分度とは、収入の範囲内で支出を定めること。                    推譲とは、勤労、分度をして貯めた物を将来のために残したり、人に及ぼしたりすること。

また、『積小為大』・『五常講』を人々に説かれたそうです。                                          積小為大とは、小を積んで大と為すと言うこと。                          そして五常講とは、お金の貸し借りの旋回の過程で「」の心をもってそれぞれの分度を守り、多少余裕の有る人から困っている人にお金を推譲し、借りた人は「」の心を持って正しく返済し、「」の心を持って恩に報いるために冥加金を差し出すなど心を配って人に接し、「」の心を持って借りたお金を運転し、「」の心を持って約束を守る。

すなわち『仁義礼智信』の「人倫五常の道」を守ろうと教えられたようです。

 

 


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◎ 野口英世博士を偲ぶ ◎

2007年02月12日 | 偉人

大内宿の雪祭りに、ノンビリ一般国道で向いました。                 郡山から猪苗代町に登ったら、ようやく辺り一面、雪景色に変った。

一番最初に訪問したのが野口英世記念館                   車を止めて見学に行こうとしたら売店のおじさんが声を掛けてきた。         何と、以前に大井町に住んでおられ曽我梅林や小田原の事を良く知っていられビックリ。車の「湘南」を見て、懐かしく声を掛けたとの事でした。           お茶をご馳走になり会津若松の代表する33施設の割引券を頂き利用させて頂きました。

この絵は茅葺き屋根の平屋建て生家の柱に医学を学ぶべく博士の決意を、ご自分の手で彫られたというものです。                            生家をはじめ、野口英世博士の生い立ちや業績を伝える記念館。母シカからの、帰郷を促す手紙には、心を打たれました。                                

 


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家族のために頑張る「お父さんへ」感謝!!

2006年05月19日 | 偉人

 

家族のために一生懸命、頑張ってくれているお父さんありがとう

中々、面と向って言うのは、照れくさいけど アリガトウ

色々なストレスに混じって、戦っている  お父さんの後ろ姿を家族は見ています。       お父さん無理はしないでね。

 

 

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誰よりも強い、お母さん。ありがとう!

2006年04月24日 | 偉人

明るい家庭って、お母さんが元気だからなんだよね。                       悔しいけど、お母さんの存在は海よりも山よりも大きい。すごい!脱帽です。           でも、その後に無口で愛嬌の無い御父さんが居ます。                       御父さんも家族のために頑張っています。6月18日は父の日です。何かさり気なく、気持ちを表したいですね。  

お母さん!これからも元気で、家族をよろしくネ。

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