素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

▲ 深草観音の石仏 ▲

2023年04月27日 | 私の見た山・登った山

高い岩壁を穿(うが)って造られた観音堂で有名な『深草観音』は、甲斐国観音霊場六番札所で、別名「岩堂観音」とも呼ばれています。

この地は要害山 の南麓に位置する瑞岩寺(746年創建)の旧地で、石灯籠のある場所が山門跡と伝えられています。

御本尊 : 岩堂観世音菩薩                                        御詠歌 : かきわけて 来たれば深し 岩堂の 露のめぐみの あらんかぎりは

                              

昔、観音堂への参拝は、この梯子を使ったのだろうか❓ 余りの長さに驚き

古くて危険であり、現在は登る人はいないようです。

急ではありますが大岩を削って造られた、修験者が歩いたであろう岩道を登る。

足場の狭い岩壁の道を進むと、一人がやっと通れるほどの岩穴が見えた。

この岩穴の中が深草観音堂になっていました。畳三畳ほどの広さです。

観音堂が明るいのは、正面の岩が明かり窓の様に開けられ、そこには先程見上げた鉄梯子の先端が届いていました。

恐る恐る覗いてみましたが、梯子の下部が見えません。

堂内の床が斜めで抜けそうな感じがしたので、素早く参拝を済ませ戻りました。

低山ではありますが、凄い深山を訪れたような気分になりました。

                                           千手観音とは、別名「千手千眼観自在菩薩」とも言い、生きとし生けるもの全てを漏らさず救う、大いなる慈悲を表現する菩薩とのことです。

馬頭観音とは頭の上に馬の頭を冠の様に載せていますが、これは衆生の煩悩を食い尽くすことを表現し、どちらかというと憤怒の形相をしているようです。

片膝を上げ、そこに肘を掛けて指先を頬に当てている思惟の姿。足裏は両方を合わせており、輪王座と呼ばれる姿勢が如意輪観音の特徴だそうです。                   どうすれば人々を救えるのかと悩んでいる姿だとされています。

観音様には六種の観音菩薩さまが揃っているそうです。                             その六観音様を理解する前に、六道について書き記します。

仏教では「輪廻転生」という思想が基本で、死んだ後も別の生命に何度も生まれ変わるという考え方のようです。                                             死後に生まれ変わる世界は6つあり、これを「六道」というようです。

天道 : 苦しみの無い世界。 天道を担当の観音様 如意輪観音

人道 : 我々の住んでいるこの世。 准胝(じゅんでい)観音 or 不空羂索(けんじゃく)観音

修羅道 : 怒りや争いが絶えない。 十一面観音

畜生道 : 人間以外の生物が住む世界。弱肉強食。 馬頭観音

餓鬼道 : 飢えと渇きに苦しむ世界。 千手観音

地獄道 : この世で罪を犯すと落とされる世界。 聖観音

 

たとえどんな世界に生まれ変わったとしても、救済の道が有ることを六観音様が教えてくれています。

 

 

 

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▲ 要害山から深草観音経由で戻る ▲

2023年04月24日 | 私の見た山・登った山

要害山山頂付近の城跡を見学し9時 45分、深草観音に向けて尾根道を進む。

尾根上では青空に向かって若葉が芽吹き、沢山の花々が迎えてくれ、木々にはホワイト系の花が、良く目につきました。

マルバアオダモ (モクセイ科)                              乾いた尾根の岩石地などに好んで生え、新枝の先に細かい白い花を房状に沢山つけ、遠くからでもよく目立つ。  

ズミ (バラ科)                                         山地に生える高さ 10mほどの落葉樹。樹肌は黒で荒く裂け、ゴツゴツしている。 

ヤマザクラ (バラ科)                                            低山の林に生える高さ 10~15mの落葉樹。古より桜と言えば、この野生のヤマザクラのこと。 葉が開くと同時に花が開く。   

アケビ (アケビ科)                                            低山や平地の林に生えるつる性の落葉樹。                                    食用にもされる大きさ6~8cmほどの淡紫色の実が熟すと縦に開くことから開実(アケミ)と、名が転じてつけられた。

ヤマブキ (バラ科)                                     落葉低木。春の野にひときわ目立つ花は、直径4~5cmで花びらは5枚。

上ばかりでなく、足元にも目をやると可憐な花々が顔を見せてくれました。

ジュウニヒトエ (シソ科)                                 幾重にも花が重なって咲く姿を、平安時代の宮中の女官が着る十二単に見立てたのが、この名の由来。花は薄紫色で茎は立ち上がり全体に白く細かな毛が多いのが特徴です。

フデリンドウ (リンドウ科)                                   筆と名がつくのは、上向きに咲く蕾の形がそれに似ているからのようです。             花は長さ2cmほどで、日が差す時だけ開き、日がかげると閉じてしまう。  

ミヤマキケマン (ケシ科)                                        豊かな葉の間からすらりと茎を伸ばし細長い筒状の花を沢山つけ、花の先は開いた唇の様にめくれている。花は2~4cmで下向きに咲きます。                                                      華鬘(けまん)とは仏殿の欄間などの装飾具に似ており、深山とは海岸に生える茎が太く葉が厚いキケマンと区別するためのようです。

ニリンソウ (キンポウゲ科)                                        春、沢沿いなどの湿った場所に群生する多年草。根元にある葉は3つに裂けている。    「二輪」と名がつくが、必ず2本花が出る訳ではなく1本のこともある。

イワカガミ (イワウメ科)                                       花弁のふちがフリンジ状に細かく切れ込んだ可愛らしい淡紅色の花を付けるのが多い。    花は1本の花茎に3~6個つける。和名は、主に岩場に生え、葉に鏡のような光沢が有ることに由来する。葉は円形で鋭い鋸歯がある。

ここまで花々を愛でながら尾根を下っていたが、右手の南西斜面が急で滑り易い 箇所があり慎重に歩を進めた。

10時 50分、要害山と深草観音、林道終点の三叉路分岐を通過。                    ここから深草観音そして岩堂峠までピストンし、また戻って来る三叉路分岐である。

三叉路分岐より涸れ沢を登る。

11時05分、深草観音(標高 845m)に着いた。                                    明るい感じに見えますが、実際は昼なお暗きで霊域が感じられる所です。

見上げる大岩の中に祀られた観音堂。

                        

辺り一面に沢山の石仏が見られた。 参拝後の 11時 25分 涸れ沢を登り 岩堂峠に向かう。

                                               蚕種石室跡通過、11時 40分。                              こちらの麓では昔、養蚕が盛んであり、当時は冷蔵庫がなかったため、この山陰の石室で蚕の種を保存していた所だそうです。

11時 50分、岩堂峠に到着。                                       ここからは石和温泉がある笛吹市の方に下れるが、5分休憩し往路を戻る。

岩堂峠からはずっと下りであり、涸れ沢の岩に注意しながら慎重に下った。

昔からの道を示す、石碑の道案内。通過、12時 25分。

山神宮通過、12時 40分。

瑞岩寺参拝、12時50分。                                深草観音堂に安置されていた御本尊は、現在麓の瑞岩寺に保管されているとのことです。   御本尊の高さは一寸八分(5.4cm)と小さいものですが、33年に一度ご開帳される秘仏だそうです。

要害山登山口駐車場に 13時丁度に無事戻りました。

 

 

 

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▲ 山城の要害山へ ▲

2023年04月21日 | 私の見た山・登った山

山梨県甲府市にある山で、山梨百名山に数えられている『要害山』を歩いて来ました。

要害温泉から見ると、こんもりとお椀を伏せたような山容が確認できます。

山中には要害城跡があり、本丸跡は標高 770mで、最高点は東側にある 780mの場所となっている。

県道「甲府山梨線」の仲川沿いにある要害山登山口駐車場に 8時 40分到着。            10分で準備を済ませ出発。 仲川の橋を渡り、5分で登山口に着いた。

西側斜面を登り出し、春先の木々の芽吹きと小さい花々に迎えられカメラを向けるが、日陰であり元気さに今一欠けるように見えた。

マルバアオダモ(モクセイ科) 低山で見られる落葉高木。

オオツクバネウツギ(スイカズラ科) 山地の明るい落葉樹林で見られ、高さ2~3mの落葉低木。

チゴユリ(イヌサフラン科) 日本の山野にも自生する可愛らしい花。

コバノガマズミ(レンプクソウ科) 丘陵地や山地で見られる高さ1~4mの落葉低木。

春の花を探しながら の登りであったが、武田不動尊までは結構きつく感じた。                 武田不動尊前の不動曲輪に9時25分、到着。

不動曲輪の中に堂々とした武田不動尊の石像。

ここから要害山山頂一帯に設けられていた要害城跡が判るように、主郭に至る通路に沿って曲輪や竪堀、堀切、門跡等の標示板が設置されていた。

要害城は永正 17年(1520)に武田信虎(信玄の父)が築いた山城であります。              居館と政庁を兼ねた武田氏館に対し、緊急時に立てこもる詰(つめ)の城としての役割を担っていました。

今川氏との戦闘中に要害城に立てこもった際に、後の武田信玄が生まれたとされる本丸跡には『武田信玄公誕生の地』と刻まれた石碑が建っています。

信虎・信玄・勝頼と三代にわたって使用され、武田氏滅亡後も修築・再整備されたとのことであります。                                                  城は山腹から主郭に至る通路に沿って、枡形虎口や郭が複雑かつ連続的に付設されているほか、竪堀や堀切を要所に設けて防御を固めています。

山頂の主郭には、規模の大きな建物が存在したものと推定されています。

主郭部から望む富士。

要害城は遺構の保存状態が極めて良く、記録が豊富に残されているなど戦国期の山城の様相を今日に伝える貴重な山城であります。

 

 

 

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🏞 岩殿山丸山公園 🏞

2023年04月08日 | 春景色

3月の訪問時は、まだ蕾の桜でしたが4月に入っては丁度良い見頃となっていました。

市制施行 40周年を祝う記念事業として、岩殿山中腹の丸山公園内に戦国時代の館を模して『岩殿山ふれあいの館』として平成 25年(2013)4月に完成しました。

1階は大月市出身の山岳写真家「白籏史郎」氏の四季折々の富士山を楽しめる写真館となっており、2階は大月市街を一望できる展望室を兼ね、一般写真家の展示が行われています。

大月市街と雲がなければ中央に秀麗な富士山が望めるはずでした。  

国道139号線の強瀬登山口より丸山公園を目指す。

大手門の桜  

桜に囲まれた岩殿山。

かつて武田氏二十四将のひとり、小山田信茂公がこの要害の地に築いた岩殿城は、関東の三名城(駿河の久能城・上野の吾妻城)のひとつに数えられた当時の面影を今日にとどめています。

 

 

 

 

 

 

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▲ 岩殿山から稚児落し経由 大月駅へ ▲

2023年04月07日 | 私の見た山・登った山

小山田左兵衛尉信茂と岩殿城。🏯

小山田氏は甲斐の国の東部である郡内地方を武田信玄と同じころ領有しており、武田氏と数回の婚姻関係を結ぶなど武田氏の友国として終始、甲斐の国の発展に尽くしました。

武田三代のころ小山田氏は武田軍の有力な軍事力として連戦を共にし、常に戦の旗頭として活躍した。

小山田氏の主城、岩殿山は周囲が嶮崚な岩壁状となり、更に外堀として深い断崖を囲いめぐらす桂川、葛野川を構え、現在も要害の名をそのままに残している。

広い山頂には岩殿城跡の跡地を示す案内板があちこちに見られた。

岩殿城跡で 35分ノンビリし 9時 15分、浅利登山口に向け出発。

岩殿山から浅利地区に向けての下山口には大岩が現れ、その大岩の間に造られた道を下る。

大岩の間に城門が造られていたという揚城戸(あげきど)跡を下る。9時 20分。

揚城戸跡を過ぎると一気に急な下りが始まり、勢いづかないように慎重に下る。

道案内板が現れ、木の根に注意して進む。

9時35分、標高473mの築坂峠を 通過し、天神山に向け登り返しである。

クサリ場に向かう岩場コースとクサリ場を避けた林間コース分岐を通過。          チョッと冒険してみようと岩場コースを選択し直進する。

岩と岩の狭い登山道にクサリが2ヵ所設置され、慎重に取り付く。

岩を登り進むと、その先に登山道崩落につき通行止めとの標示があり、北側の林間コースに廻る。

この岩が兜岩と言うのだろうか❓                                尾根から北側に入ると急斜面にロープが添えられ、滑り易い土の斜面に先行者の方々が悪戦苦闘しながら下っておられ、「ゆっくりで良いですよ。」と声を掛けた。

下から見上げると、それほど難儀する様に見えないが、バランスの取り難い所であった。

北側を迂回して尾根に出たら、岩殿山が見えた。

陽当たりの良い尾根道ではダンコウバイ やミツバツツジ が出迎えてくれた。

10時 25分、小祠のある天神山(標高 597m)に着いた。

天神山を過ぎると北に進路を取り 、こちらも下ってから稚児落しへ登り返す。

やっと稚児落としが見えた。                                      一見して、この断崖絶壁は凄いと感動したが、余り左に寄り過ぎると断崖で覗けない。

下から見上げると稚児落としの上に人影が見え、あの上が登山道になっているのが判った。

見晴らしが良くてウキウキしながら稚児落しの山頂に向かう。

稚児落しの上部尾根道に出る。10時 45分。                           覗いてみたいが下から断崖絶壁を見たので、手摺りは無いし体の重心は自然に右寄りになった。

稚児落しを過ぎてからは、一気に浅利登山口への下りである。最後の下りは慎重に下った。

浅利地区から県道 512号線を南東に進み、大月駅手前の陸橋より大月駅と岩殿山を望む。

大月駅を 11時 40分通過、岩殿山市営駐車場に 11時 55分、無事戻りました。           標高は低い山だが桜並木を歩いたり、岩のクサリ場や土で滑り易い下りがあったり、断崖絶壁を眺めながら越えていったりとスリル満点の楽しいコースでした。

 

 

 

 

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▲ 畑倉登山口から岩殿山へ ▲

2023年04月04日 | 私の見た山・登った山

桜の季節に岩殿山 (標高 634m)の岩殿城跡を目指す。

3月は調査せずに 訪問し岩殿山山頂を踏むことができなかったが、今回は桜の時期に合わせてリベンジ戦である。

岩殿山へは側に強瀬(ごわせ)登山口、側に岩殿登山口、側に畑倉登山口、西側に浅利登山口と4つの登山口があり、現在(2023年3月)は強瀬と岩殿の2ヵ所は登山道崩壊につき通行止めとなっています。

それなので今回は畑倉登山口から登り、浅利登山口へ下山するコース取りをしました。

岩殿山市営駐車場に7時 10分到着。10分で準備を済ませ出発。                       駐車場は岩殿山の南側に位置し、国道 139号線を反時計回りに畑倉登山口に向かう。            畑倉登山口通過、7時 50分。

登り始めて直ぐに鬼の岩屋分岐に出た。7時 55分通過。

分岐より「鬼の岩屋」に直ぐ着いた。8時。                             鬼の岩屋は大月にある桃太郎伝説の一つだそうです。6ヶ所ある岩屋の5番目。

ここは、かつて栄えた修験道場・円通寺の新宮として十一面観音を祀った懸け造りの堂宇があったとのことです。                                                 数ヶ所ある岩殿山の洞窟のうち一番大きい、この「新宮洞窟」 は岩殿山の鬼が棲み家にしていたと言い伝えられています。

鬼の岩屋付近にはポツポツとカタクリの花が見られた。

8時 02分、畑倉神宮の小祠 に参拝し、岩殿山への登山開始。

登り始めは桜の出迎えを受けながら進む。

落葉した雑木林の中を登りながらも、少しずつの春が感じられるのは嬉しい。

北側の畑倉登山口から岩殿山へ一気に 250mほどの標高差を登るので、結構きつい。

多少きつくてもミツバツツジや常緑低木のアセビ、それに落葉樹のキブシも見られた。

九十九折りの登山道を登っていると、何となくもうソロソロ山頂かな❓ って感じがした。

8時40分、岩殿山山頂 本丸跡に立つ。電波塔も見えた。

岩殿城は急峻にして険しい断崖をめぐらし、攻めにくく守り易い戦国時代の難攻不落を誇る名城であった。                                                 午後、晴れて来たので桜咲く丸山公園から岩殿山を見上げた所です。

その上、南方の桂川下流には相模、武蔵の国。                                 大月市街と手前、桂川。橋のたもとの岩殿山市営駐車場に自分の車も見えました。

北方の葛野川上流には秩父などの山並みを一望におさめ、かつ烽火台(のろしだい)網の拠点として近くの国々の情報を即座に収集できる重要な場所に築かれていました。

現在この城跡には、一番高く展望の利く所に本丸、その下に二の丸・三の丸、更に蔵屋敷・兵舎・番所・物見台・馬屋・揚城戸などの建物跡のほか空濠・井水・帯郭・馬場跡の案内板が随所に立てられています。

岩殿山山頂より三の丸展望台までの尾根は、広々した軽いアップダウンの道で桜並木の中を歩くのは、とても気持ち良く桜の有ることにビックリしました。

天気も徐々に回復傾向にあり、これぞ春のハイキング。

三の丸展望台から見た、桂川と中央自動車道路。

三の丸展望台には東屋や乃木希典(まれすけ)陸軍大将の漢詩の石碑がありました。

まだ続きます。

 

    ※ 次は兜岩~天神山~稚児落しを経由して大月駅に戻ります。

 

 

 

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📚 樋口一葉ゆかりの慈雲寺へ 📚

2023年04月01日 | 古寺巡礼

樋口一葉は東京で生まれ育っていますが、何故?慈雲寺に一葉女史の石碑があるのでしょう❓

慈雲寺のある、ここ大藤の里は、明治の女流文学者として近代文学史上に今以て燦然と輝く樋口一葉女史の「父母のふるさと」なのであります。

先ずそのお話をする前に慈雲寺の開創について、お話しさせて頂きます。

天龍山 慈雲寺は聖観観世音菩薩が御本尊様の臨済宗 妙心寺派のお寺で、甲斐百八霊場の第十番札所になっています。

慈雲寺は南北朝時代の暦応年間(1338~1342)に京都と鎌倉を往き来して、京都の天龍寺などを開山した僧として有名な夢窓疎石によって開かれたと伝えられています。

また、こちらの境内には『慈雲寺のイトザクラ』という見事な桜が咲き、山梨県の天然記念物に指定されています。

ウバヒガン桜の変種ということで樹齢は三百三十年ほど、枝を四方に垂らして糸が垂れる様な形、花色は淡紅色で春には美しい花を咲かせ沢山の参拝者を魅了しています。

それでは樋口一葉と慈雲寺の関連について                        一葉の両親は慈雲寺の寺子屋に通っていたとのことです。                             そして、ここで知り合い安政4年に二人で江戸に出ました。                        何故、江戸に行ったのかという理由は諸説あるようです。一葉はその 15年後に誕生しました。 後に、一葉の母(たき)は他の土地の見聞に乏しい一葉に若き日の自分を懐かしみながら話を聞かせました。

一葉は明治5年3月 25日に樋口則義、たきの次女として東京で生まれました。                明治 22年に父を失った一葉は一家の生計を立てようと小説を書き始め、貧困に苦しむ中で「大つごもり」・「ゆく雲」・「にごりえ」・「たけくらべ」・「十三夜」などを書き続けましたが、明治 29年 11月 23日に 24歳の短い生涯を閉じました。

樋口一葉女史文学碑                                             この碑は大正 11年(1922)一葉女史の文才を偲びて建てられたものであります。        題額は東宮御学問所 御用掛 杉浦重剛、撰文は芸術院会員 幸田成行(露伴)、書は宮中御歌所出仕 岡山高蔭にて当時最も新しい形の碑文で、日本最高の文学碑と云われています。

                          

いま、ここに一葉女史の見ることのなかった父母のふるさとへの愛着と思慕の念を秘めた作品 『ゆく雲』 の一節を碑文に刻み、一葉女史と郷党の人々との心の結びつきを一層深めるために記念碑を建立した。

『ゆく雲』 の碑文の一節は全体の中間あたりに書かれたものですが、書き始めより甲府・塩山・勝沼など地名が出て、母から聞いたことが住んでいたかのように克明に書かれています。

我が養家は大藤村の中萩原とて、見わたす限りは天目山、大菩薩峠の山々峰々垣をつくりて、西南にそびゆる白妙の富士の嶺は、をしみて面かげを示さねども、冬の雪おろしは遠慮なく身をきる寒さ・・・ 

 

 

 

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