素晴らしい風景!!

色々歩いた山や国内の風景等をご紹介いたします。

▲燕岳登山▲

2015年09月28日 | 北アルプス

北アルプス表銀座コース起点の山『燕岳』(2763m)のご案内です。                                中々個人では、一歩を踏み出すタイミングがつかめず、勝手に「私にはアルプスなど無理だろう?」と考えられている方々を、空がすぐそこに迫ってくる大迫力の頂きに、一歩近づくお手伝いをして来ました。

安曇野ICを11時に降り、車窓から富士山に似た有明富士を正面に眺めながら中房川の渓谷に入る。                                  細い登りの舗装道路を進み中部電力第四発電所を通過し、間もなく行くと右手に大露天風呂が自慢の「有明荘」が見え、その先700mが中房温泉登山口であった。           お昼と登山準備を済ませ12時出発した。

中房温泉への橋の手前にある売店の横から登山道に入る。            最初から急登が続き樹林帯の中をただひたすら登る。 中房川の川音が段々と小さくなり聞こえなくなった頃、12時35分第一ベンチに到着した。                        樹林帯の中の開けた場所に丸太で作られたベンチがあり5分休憩。                                                    ベンチの後ろから少し下った所に合戦尾根唯一の水場があり、水量は細いが湧水とのことである。

登路は今迄と同様の急登が続いた。                         しばらくすると樹林を切り開いて荷揚げ用のケーブルが頭上をかすめて走っている。  このケーブルの下を抜けたら第二ベンチの前に出た。13時09分着。          5分休憩、水分補給をして頂いた。

第二ベンチからは登りも気持ち楽になり、ダケカンバの白い幹が目立った。                             急斜面の尾根に作られた登路であり、焦らずじっくり歩いて頂いた。          第三ベンチ到着、13時48分。                            ガスの中であり、長休みで体が冷えてもいけないので5分休憩。

第三ベンチを通過してからの登路には花崗岩を見かけるようになり、燕岳に来たんだとの思いがよみがえった。

登山路に変化が出て来たので雰囲気も変わり、初めての方々も快調に歩いて下さった。                                       富士見ベンチ到着、14時30分。 5分休憩。

燕岳の東側はガスが溜まり易く、湿気でキノコやコケは元気そうであったが、始まって来た紅葉は少々繊細さを欠いていた。                    そんな事を感じながら30分ほど歩いていたら「合戦小屋まで、あと10分」の標示板を見つけ、頑張った。

                                         合戦小屋到着、15時15分。宿泊は出来ないが売店があり休憩はできる。

7~8月であれば合戦小屋の名物「スイカ」が食べられたのだが、9月の末では以前食べた事を思い出すだけでした。仕方なくポカリを飲んだ。5分休憩。

合戦小屋から次第に視野が開け、曲がりくねったダケカンバとクマザサ、ハイマツの緩斜面を通り抜けると丸坊主の台地に出た。合戦の頭である。15時40分通過。

青空が見え始め、ガスの切れ間から時折槍の穂先が顔を出して迎えてくれた。

                                                                        燕山荘への登路は稜線の右斜面を進み、小さなピークを2つほど越え燕山荘直下を右へトラバースすると北アルプスが一望できる稜線に出る。

左手には燕山荘がお出迎え、今までの疲れが吹き飛ぶ瞬間である。            16時30分到着、お疲れ様でした。

 槍穂高遠望 

 

 

 

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▲燕山荘付近の風景▲

2015年09月28日 | 北アルプス

 

1泊で帰るには、もったいないほどの好天に恵まれ、参加された皆さんに喜んで頂け幸いでした。                                     その目指した山とは、この前に見て頂きました『燕岳』(つばくろだけ)であります。                                     中房温泉登山口から4.5時間ほどで、雄大な大自然の素晴らしさが味わえ、1921年(大正10年)開業、今年で94年目を迎える歴史と伝統の燕山荘に泊まり、ノンビリして来ました。

ここでは、素晴らしい風景のブログをご覧の皆様にも、おすそ分けいたします。

燕岳の東側にはガスが吹き溜まることが多く、登山中は曇天の中を登って行くのですが尾根に出た瞬間に、北アルプスの大パノラマが目に飛び込み、沢山の方々が感動しています。

条件が良く、ブロッケン現象を見ることができ、皆さんから感動の声が飛び交った。

山荘に荷を置き、燕岳まで散歩に出た。                             この山は独特の花崗岩におおわれた山容が特徴で、それがまた美しいのです。

水面からジャンプした、イルカ岩。 

ちょっと無理やりらしいが、メガネ岩。 

造形的な花崗岩で出来あがった燕岳山頂、その先に見えるのは北燕岳。

燕岳山頂から燕山荘を遠望

急にガスが流れ、イルカ岩と槍ヶ岳 が見えた。

27日の夜は、まばゆいくらいの美しい中秋の名月を山荘前のテラスから鑑賞できました。また、28日には月が地球に最も近づき、いつもより大きく見える「スーパームーン」が明け方まで見ることができました。                    月は楕円形の軌道で地球を周回し、今年は9月28日(月)午前10時46分に地球に最も近づき、28日の夜は今年最大の満月を見ることができたのです。                                                         日頃、夜空をゆっくり見上げることなどありませんが、久々に月の美しさに見とれてしまいました。

夕暮れに灯り始める山荘と燕岳 余りの風と寒さで、手が動かずボケをお許し下さい。

日が沈むと違った雰囲気のアルプス、星空と槍の稜線

日が(9月28日)変わり、防寒対策万全にし外に出る。5時36分富士遠望。

早起きした人だけに見ることが許される、有明山越しの御来光。

東から明るさを増し、張り詰めた夜の空気が静かに溶かされていく。              モルゲンロートの槍ヶ岳。

北アルプスを紅く染めながら、いつもの顔を見せ始める。表銀座コースと槍ヶ岳。

燕山荘から大天井岳側に30分進んだ所にある蛙岩と槍ヶ岳。

燕山荘の喫茶室にて                      燕山荘と燕岳

標示板と燕岳  

 

 

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🏡 旧吉田茂邸庭園 🏡

2015年09月23日 | 偉人

湘南風土と邸園文化継承、悠久の歴史を感じさせる、清閑なたたずまい” 

                                                                              明治31年(1898)、この地に三井財閥当主が別荘を構え、庭園の整備がなされた大磯城山(じょうやま)公園と国道1号線を挟んだ南側に旧吉田茂邸庭園があります。

明治17年(1884)に吉田茂の養父「吉田健三」が別荘を建てたのが始まりで、大磯の別荘の草分けでありました。                                                                                               養父健三没後、首相となった吉田茂は戦後、外国貴賓を招くために迎賓館的用途で昭和26年(1951)に建て替えを行いました。                                                                      約1万坪の敷地には芸術院会員「故吉田五十八」氏設計の二階建て延べ面積300坪の総檜造り純日本風の建物がありました。                                                                                          「吉田御殿」とも呼ばれ戦後の日本の政治を動かした多くの人達が「大磯詣で」をし、昭和54年(1979)大平首相とカーター米大統領の日米首脳会談が行われるなど歴史的に由緒ある建物でした。                                                   昭和42年(1967)吉田茂が亡くなってからプリンスホテルの所有となりました。           その後、平成18年(2006)神奈川県では旧吉田茂邸と大磯城山公園の一体整備方針が決まり、整備工事が進められていた矢先の平成21年(2009)3月22日に原因不明の出火により本邸が焼失してしまいました。

歴史的に重要な建物が焼失したことは、非常に残念なことでありますが現在、本邸の再建と庭園整備の工事が進められています。

サンフランシスコ講和条約締結を記念して建てられた門で、別名「講和条約門」とも呼ばれ、軒先に曲線状の切り欠きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」とも呼ばれています。

                                                                           京都の裏千家の兜門と同じ製作者を京都から呼び寄せて造られ、屋根は「檜皮葺き」という伝統的技法が用いられており、焼失を免れた貴重な建築物です。

本邸宅は兜門を入り左手の小高い所にありますが、現在再建築中であります。

昭和36年頃に完成した日本庭園は、中心となる心字池を邸宅の正面に配置した、池泉回遊式庭園です。                                  庭園設計者である中島 健は、数寄屋建築の本邸との調和やを愛した吉田茂の嗜好をふまえ、様々な草花やバラ、ツツジ類、ウメなどを多く取り入れ、色彩豊かな庭造りをされたようです。

当初の明治36年に伊藤博文が、明治維新の元勲うち「岩倉具視」(いわくらともみ)「大久保利通」(おおくぼとしみち)「三条実美」(さんじょうさねとみ)「木戸孝允」(きどたかよし)の4人を祀った四賢堂を自身の邸宅「滄浪閣」に建てたものでした。                                         伊藤博文の死後、梅子夫人により伊藤博文を加えた5人が祀られ五賢堂となりました。

                                                                             昭和35年に吉田茂邸に移設され、昭和37年に吉田茂が西園寺公望(さいおんじきんもち)を合祀し、吉田茂の死後、昭和43年に佐藤栄作の名によって吉田茂が合祀され、現在七賢堂となっています。

                                                                           扁額は故佐藤栄作元首相の書です。

吉田茂の銅像は皇居北の丸公園、高知龍馬空港とここ大磯町の三カ所にあるとのことです。

                                                                                 大磯町の銅像は、昭和58年に地元の有志の方々によって建立されました。          サンフランシスコと首都ワシントンの方角に顔を向けて設置されたと言われています。

 

 

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⛰ 日本象徴の山“富士山”へ ⛰

2015年09月06日 | 世界遺産

『日本の大和の国の鎮めともいます神かも、宝ともなれる山かも』と、万葉歌人「高橋蟲麿」が詠んだように、古来より富士山は大和民族の心のよりどころとして信仰されて参りました。                                             この霊峰を御神体として鎮まります神は、浅間大神、またの名を「木花之佐久夜毘賣命」(このはなのさくや・びめ)と申し上げます。

浅間大社頂上奥宮は表口(富士宮口)御殿場口から登りつめたところの山頂に鎮座しております。                                    八合目以上は奥宮の御神域であり、浅間大社の所有地であります。

夏休みも終わり、9月であれば多少は空いているだろうと予想し計画を実行したが、何と空いているという感じではないのに驚いた。                           富士スバルライン駐車場手前から駐車待ちの車で大渋滞。   

                                                                                       手前の駐車場に車を止め11時20分歩いて売店やトイレのあるスバルライン五合目に向かった。

五合目を11時51分に出発した。

                                                                              駐車場では好天であったのが登り始めたらガスの中で体温調節に気を使った。   泉ヶ滝まで馬も歩く広い砂地の道を下り、佐藤小屋分岐(12時05分通過)を右手に登りだし六合目に向かう。

                                                                                 途中、標高2,300m付近ではダケカンバの並木が綺麗であった。

六合目着12時半。                               ここには富士山安全指導センターやトイレがあり休憩し昼食を取った。          この辺りが森林限界のようで、見上げると赤い火山灰の山である。出発12時50分。

歩き出して間もなく下山道と合流し右手の登山道を進む。                 砂礫の火山灰であり登山道の側壁は整備され登山の感じではない。             側壁というか、土止めの柵を作らないとドンドン崩れてしまうためだと思う。

                                                                                    その広い砂礫のジグザグ道を登る。河口湖大橋が見えた。

七合目の花小屋着13時55分。                          ここに来たらガスが張り付き下界の景色は見えなくなってしまった。10分休憩。

                                                                              ここから八合目までは、溶岩の岩肌を登る。                    斜度も増し慣れない方にはきついが、火成岩であり崩れる心配がないので1歩1歩頑張って頂いた。

富士一館着14時35分。 休みを長くすると体が冷えるので5分休憩。       鳥居荘通過14時50分。東洋館通過15時05分。

                                                                                   溶岩の登山道は狭く渋滞する箇所が多かった。  疲れも出る頃であり、無理せずに登って頂いた。

八合目の太子館通過15時47分。                          風が出て来たので帽子を飛ばされないよう声を掛けた。

蓬莱館着16時05分。10分休憩。                       登山道の左手に大きな岩の塊が見えエアーズロックかと思いきや「亀岩」と呼ばれている岩でした。                                  言われてみると何となく下を向いた亀に見えます。

見上げれば、今日の宿「白雲荘」が見えた。                  3,000mを越えていたが高山病の症状を訴える方も無く16時50分、全員無事に白雲荘に到着した。                                   ザックと登山靴を持って部屋に入る。 綺麗な雲海が見えた。

ダウンを着ていたせいか夜も快適に眠れた。                    日の出は5時と聞き、女将にお願いしておいたので4時40分に起こしに来て下さった。  防寒対策を万全にして外に出て、清々しい外気に触れ気が引き締まる感じであった。         9月5日(土)の神々しい御来光である。

古来より、その天高くそびえる富士山を、幾度となく噴火を繰り返す荒ぶる神の山として、崇拝し畏敬の念を抱いてきました。                      いつしか霊山として神格化され、信仰の対象として私達にとって大きな存在となっています。

白雲荘の前から御来光を迎えたのは私たちぐらいで、ほとんどの方々は夜中の内に出発され小屋は空いていたので小屋で朝食を取ってから6時に出発した

    

あたまを雲の上に出し

                                                                       四方の山を見おろして 

                                                                       かみなりさまを下にきく 

                                                                       ふじは日本一の山 

                                          明治43年7月文部省唱歌 作詞:巖谷小波 作曲:未詳 「ふじ山」

    

冷え込んではいたが素晴らしい青空の下、歌詞通りの山を歩けたことに感謝でした。

元祖室通過6時15分。第一富士ホテル通過6時45分。                     標高3,450mを越えた御来光館着7時14分、立ち休憩を入れた。

もう山頂の鳥居が確認できる。                            九合目(3,580m)通過点は最後の詰めの急な登りであり、呼吸を整えてゆっくり足元に注意しながら登って頂いた。                            吉田口山頂に登頂8時40分。 目の前に浅間大社の末社である「久須志神社」が迎えてくれた。

                                                                           また皆さんのホッとする笑顔が見られ、共に登頂を喜んだ。お疲れ様 

休憩後、山頂の噴火口を見ながら時計回りに一周(約3km)するお鉢めぐりを1時間45分掛けて歩き、

                                                                                    日本一のピーク剣ヶ峯(3,776m)に足跡を残して来た。

登頂した久須志神社に戻り10時20分下山開始。

                                                                                  下山道はブルトーザーが荷揚げ用に使用する道である。  砂礫の道でホコリが舞い顔にタオルを巻いて下る。

延々と続く九十九折の道にはコーナーごとにナンバーが標示され、下山位置の目安になったが、余りにも長い下りであり膝への負担が大きく、急がず一定のペースで歩くようお願いした。                                   七合目辺りから膝が笑い出したと言う方が現れたがノンビリ焦らず歩いて頂き、15時20分全員無事下山した。                              初めての方も含め、皆さん日本一の山に登頂でき、お疲れ様でした。                         おめでとうございます。 

 

 

 

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▲太郎兵衛平を目指す▲

2015年09月02日 | 北アルプス

平成25年8月に折立から雲ノ平へ向かう前に北アルプス孤高の峰「薬師岳」(2,926m)にピストンで向かう予定が、大雨で林道のゲートが開かず、ゲート前で6時間待機を余儀なくされ折立出発が午後になり、やむなく「薬師岳」をカットし雲ノ平に入った。                                                                            翌年の平成26年8月にはリベンジで折立から入り「薬師岳」を制覇した。          太郎平小屋から見た薬師岳  

                                                                            そして今年は北アルプス最奥にある『黒部五郎岳』(2,840m)を目指し、三俣蓮華岳、双六岳を経て鏡平山荘からわさび平小屋を通り新穂高温泉へ下山する計画で入山した。

折立登山口も見慣れた風景になって来た。                     折立に入る林道の開門時間6時に合わせ、道の駅「立山アルペン村」で時間調整し5時50分出発。                                     空には重い雲が見え、走るバスには雨が降りかかる。折立到着6時50分。

ここには休憩所や公衆トイレがあり、それぞれの所で雨具、ザックカバーの準備をし出発に備えた。                                           送ってくれたバスを見送り、7時半出発。

休憩所の前を通り登山道に入ると直ぐ左手に、「何これ」と思う石塔が目に入る。  それは1963年の1月に愛知大学山岳部の学生さんが薬師岳で遭難した13名を供養する慰霊塔で「十三重の塔」との事でした。

                                                                                  尾根や山頂が広いとガスが出た時に迷い易く、しっかり登山道を確認する事を肝に銘じた。

それから間もなく樹林帯の中、太郎坂の急登に取付く8時10分。          雨であり木の根やぬかるみに足を取られぬよう注意して頂いた。

                                                                               性能の良いゴアテックスの合羽と言えども急登を登れば、雨も汗も一緒の様な感じである。  三角点到着9時20分。

東側に目をやると、幾重にも連なった稜線の向こうに薬師岳が姿を見せていた。

                                                                                さらに尾根を詰め五光岩ベンチに向かう。濡れた岩場の急登を慎重に登る。

                                                                              森林限界を過ぎた頃にトーテムポールの様な高いポールが右手に見えた。        縞模様に塗り分けられていたので小屋で尋ねたら積雪量調査用のポールとの事であった。                                                    今年は山も雨が多い様で、折角人手により作られた登山道も無残な姿を見せていた。

                                                                             11時43分五光岩ベンチに到着。                         回りの景色はガスの流れで見えたり見えなかったりと落ち着いて見ていられなかった。

                                                                             休憩後、緩やかな斜度で続く石畳の登山道で足に筋肉痛を感じると言う方に湿布やサポーター処置を取り、様子を見ながらノンビリ小屋を目指した。

                                                                                12時45分に太郎平小屋に到着した。お疲れ様でした。

その後も雨は降ったり止んだりを繰り返し、小屋のテレビで天気予報を見ても明日も明後日も変わらぬ感じであった。                          心の中では秋雨前線がもっと南下してくれることを祈った。 

 

 

                                                    

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🏘 太郎平小屋 🏘   

2015年09月01日 | 北アルプス

昨日より多少でも良い方向への天気回復を祈ったが、どっしりした秋雨前線は動く気配なし、悪天の中で計画続行するよりもパーティーの安全を第一に考慮し、スタッフ全員の意見で停滞と決定した。

太郎平小屋の食事は朝・夕共に5時で50名位の宿泊者がいたが、食後は遅れながらも我がパーティー以外は皆さん防雨・防寒対策をされ下山して行かれた。          取り残された私たちはする事も無く食後は談話室で本を読んだり、部屋に戻り寝転んだりしていた。

暇なので、小屋の中を歩き回っていたら登山客の食事の後、小屋の従業員さん達が食事をされていた。その従業員さんが20名ほどいられビックリした。            受付や厨房で見かける方々だけかと思いきや裏方で働く従業員さんもいて小屋が成り立っているのですね。

8時、普通なら小屋は空になり従業員さん達だけになるが、今日は私たち16名が小屋の中をウロウロしているので、始まった掃除がやり難そうであった。          150名収容の大きな小屋であり、沢山の部屋が有るのを皆さん手分けで、雑巾で床を拭くオーナーの息子さん、別の方は箒を持ち室内清掃、大きな掃除機が何台もあり「エッここは掃除機など使えるの 」と感じたが、ブンブンとうなって動いていた。

受付、厨房、登山者の宿泊部屋、乾燥室、自炊兼談話室、トイレ、従業員部屋、外の焼却炉でゴミを処理する人、皆さんがそれぞれの場所で必死に清掃されている姿に驚きました。                                      晴天で小屋を出てしまえば目にする事のない小屋の1日を知る事ができ、小屋を利用させて頂く者として今まで以上に小屋を綺麗に利用しなくてはと言う気持ちがより一層強くなりました。                                   疲れた登山客を気持ち良く迎えるために、従業員さんは一生懸命に仕事をされている姿を目の当たりに感動しました。ありがとうございます。

また、談話室にいたら「こちらの掃除をはじめます。食堂の掃除が終わりましたので食堂の方で休んで下さい。」と掃除をしながら登山客に気を使って下さり、従業員さんの心遣いにも恐縮しました。

食堂に移り皆でコーヒーを注文、ビックリした事にコーヒーを入れオーナーが食堂に持って来て下さいました。                           「皆は掃除中だから」と言われ、また退屈そうな私達を見て「もし良ければ午後、山の話をしようか 」と言って下さり是非とお願いした。

外を見れば雨は本降り、11時半に小屋で作って頂いた竹皮で巻いてある押し寿司弁当を頂いた。 自分は好きなので山で食べると、より一層美味しく頂けた。

13時、全員食堂に集合しオーナー(五十嶋博文)様を待った。                                  直ぐに見えられ立ったまま2時間近く 太郎平小屋のこと。 家族のこと。 御自分のこと。 山での出来事。などを聞かせて頂きました。

太郎平小屋はオーナーの父上文一様が昭和30年に太郎山に建てられたのが始まりで、オーナーは昭和31年、高校卒業と同時に小屋での山の生活が始まり、最初の仕事が当初の太郎小屋を現在の場所に移転する事であったようです。                                                 以前の小屋は太郎山の南側にあった。                                                                                  現在ではスゴ乗越小屋薬師沢小屋高天原山荘の4つを経営されています。        太郎平小屋は今年で60周年です。  

ご兄弟は、お兄様が法政大学山岳部を出られ、現在は著作家をされ、弟様は日本医科大学山岳部に所属されていた関係か、日本医科大学医学部が夏の間は小屋に常駐されています。                                                                                                                                       ご兄弟の皆さん山が大好きであったことが伺われました。                                                 また、富山県の山岳警備隊も常駐され、食事の時に山での注意事項をお話して下さいました。 現在は高齢登山愛好者が増加し、遭難原因の第1位は「病気」だそうです。

オーナー(五十嶋博文)様は薬師岳方面山岳遭難対策協議会救助隊長、富山県遭難対策協議会理事長、登山道・案内板・森林などのパトロール、全国もで珍しい高山蝶(タカネヒカゲ)を守るためのパトロールなどを務められているとの事です。                私たちの登山は、五十嶋様など多くの方々の遭難防止にご尽力される人が有って成り立っている事を強く感じました。                                                                                                山での事故は自己責任と言えども、五十嶋様や警察(山岳警備隊)、消防本部などの皆様にご迷惑を掛けぬ様、登山を楽しみたいと考えています。

最後に五十嶋様が山に入られて今年で59年。                    その59年間で忘れられない捜索活動があったそうです。 それは昨日私たちが折立登山口に入り直ぐ左手に有った石塔の愛知大学山岳部13名の死亡事故。             「何十年ぶり」という言葉は最近よく聞かれますが、昔からあったようです。                            昭和38年1月記録的な豪雪があり「下山予定のパーティーが帰って来ない」という連絡が事の発端でした。                               当時は山岳警備隊の存在は無く、連絡を受けた五十嶋様他、山小屋の主人達は捜索隊を編成し救助活動に駆け回った。                                                                            その時の気持ちは「家族ら関係者の祈るような目を見ると黙って待ってはいられず、必死に薬師一帯を探し回った。」と振り返り語って下さいました。                                                          今から52年前、装備・捜索の機材とて不十分であった時で、捜索は難航したとのことです。                                    3月薬師岳東南稜で7名の遺体発見。                     「寒かったろう・・・」涙があふれ、顔がくちゃくちゃになった。                  4月下旬、更に4名の遺体を収容した。                       が後2名(鳶田さん・鈴木さん)の方が発見できず、夏には愛知大学山岳部を含め総勢 90名で薬師一帯のハイマツの中まで2m間隔で捜索するも発見できず、やむなく撤退。         県も大学も降雪が始まるだろう10月15日で捜索終了宣言を出した。                                      その間、鳶田さんの父親は個人で必死に探し続け、地下足袋3足を履き潰したそうです。                                    当然、五十嶋様にも声が掛かり捜索に同行、他の仲間を発見した雲ノ平側でなく、もう黒部側しかないと判断し道なき断崖を捜索。                     先頭の隊員から「骨が有るぞ~ッ」の声を聴き、父親である鳶田さんが夢中でガレ場を四つ這いになって近づく姿には涙が出ました。                  (お話の後、ビデオを見せて頂きました。)                                     ところが腕にあった時計は息子さんでなく鈴木さんであった。            日の当たる場所であり骨だけの遺体であったそうです。               その後まもなく更に上部の岩陰で鳶田さんが発見されましたが、五十嶋様の話では「岩陰に有ったので肉は残っていたが目などは無く親に見せられる姿ではなかった。」と言うことです。                                   捜索終了の1日前10月14日の事です。

雨の中、出発される登山者に声を掛けて送り出す五十嶋様 

五十嶋様が、山に携わる人間として遭難救助は当然だが、白く冷たい遺体を抱き上げるのは山小屋のオヤジとして最も胸を痛める時です。                   登山という自然の中で若者の死は悲しく、家族や関係者の悲嘆は筆舌に尽くし難いものです。と「50周年を迎えて」の小屋開設記念誌に記されていました。

富山県ではこの遭難事故後、昭和40年に富山県警察山岳警備隊が発足し、遭難をヘリコプターで救助対応する事が始まったようです。  

 

  山で気になる屎尿処理について                                                       どこの山小屋でも頭を悩ませることでありますが、マラソン人口と同様に登山人口も増加し放っておけない問題であります。                                                                     太郎平小屋は従来からバイオ対応やペーパーの分別など多くの試みを実施、平成8年からヘリコプターによる地上への搬送を実施するなど山の環境保全に努力されています。                                    現在の山小屋のトイレは従来に比べたら格段に進化しています。           五十嶋様の話では若い女性の登山者が増加したということです。                                                                              富士山の世界遺産候補時に問題となったトイレ事情があり、今では国を挙げて山小屋のトイレを綺麗にする方向にあり、是非続けて頂きたいと希望しています。        一時、民主党政権時には「山に入る人間に出させればよい。」と言うことで補助打ち切りにされた経緯があるようですが、自民党政権では「上を綺麗にしない限り、下が綺麗になる事はない」という考えが基本になっているようです。                 山を愛する人間として補助の打ち切りは考えたくありません。

 

 

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